第10話「一月の基礎
年が明けた。
英二の正月は三日で終わった。
元日は家族と過ごした。二日は橘のスタジオで自主練をした。三日はKENJIに呼ばれて、二時間みっちり絞られた。
「正月も来るんですか」と英二は言った。
「坂本さんが来るって言ったんですよ」とKENJIは言った。
言った気がした。年末の練習納めの日に、「正月も使っていいですか」と聞いた気がした。
自分で言ったことは守る。それだけだった。
一月の課題はひとつだった。
KENJIが最初の練習日に言った。
「今月は基礎だけやります」
「基礎、ですか」
「十二月のバトルで何が足りなかったか、わかってますよね」
「最初の八カウントです」
「その前です」KENJIは言った。「体の軸が、音楽より先に動いてた」
英二は黙って聞いた。
「緊張すると人間は急ぐ。急ぐと軸がぶれる。軸がぶれると全部ずれる」KENJIはフロアに出た。「ビートを待てるかどうか。それだけです、今月は」
ビートを待つ。
簡単そうで、難しかった。
音楽が来たとき、体が反射的に動こうとする。その衝動を一瞬だけ抑えて、ビートの重心を聴いてから動く。その「一瞬」が、十二月の英二にはなかった。
一月の練習は地味だった。
トラックをかけて、ただ立つ。動かない。ビートを聴く。KENJIが「今」と言った瞬間に動く。それだけを、一時間繰り返した。
三回目の練習で、英二は壁に手をついた。
「これは——」
「しんどいですか」
「しんどいというより」英二は言葉を探した。「じれったい」
「じれったいのは、動きたいからです」KENJIは言った。「動きたい体を待たせることができれば、動いたときの力が変わる」
英二は頷いて、また立った。
火曜の夜、橘のスタジオでのことだった。
英二が一人で練習していると、橘が珍しく早めに来た。コートを脱ぎながら言った。
「KENJIさんから聞きました、今月の課題」
「地味でしょう」
「一番大事なやつじゃないですか」橘はスピーカーの電源を入れた。「俺も二十五のときにやらされた。三週間、ほぼ立つだけ」
「三週間」
「最初の一週間は意味がわからなかった。二週間目に少し見えてきた。三週間目に、音楽の聴き方が変わった」橘はフロアに出た。「やってみますか、一緒に」
二人でトラックをかけて、並んで立った。
音楽が流れていた。体が動きたがっていた。英二はそれを抑えた。
橘は目を閉じていた。微動だにしなかった。でも体のどこかが、音楽と呼吸しているように見えた。
英二は橘を見ながら、同じことをしようとした。
できなかった。まだ、音楽を「聴く」より「追う」癖が抜けていなかった。
でも——十分後、何かが少し変わった。
音楽の中に、重い場所と軽い場所があることが、体に届いてきた。波みたいなものが、トラックの中に流れていた。それに乗るタイミングが、頭じゃなくて体でわかりかけた。
「今です」と橘が言った。
英二は動いた。
いつもより、出だしが遅かった。でもその分、最初の一動作に重さがあった。
橘が目を開けた。
「それです」
一月の終わり、麻衣子がパートから帰ってきたとき、英二はリビングで音楽をかけずに立っていた。
麻衣子がエコバッグを置いて、英二を見た。
「……何してるの」
「練習」
「何も動いてないけど」
「動かない練習」
麻衣子が三秒ほど英二を見て、「そう」と言ってキッチンに入った。
夕飯の支度を始めながら、麻衣子は聞いた。
「動かない練習って、難しいの」
「難しいです」
「何が」
「じれったい」
麻衣子が少し笑った気配がした。
「それ、わかるかも」
「何がですか」
「動きたいのに動けないじれったさ」麻衣子は冷蔵庫を開けながら言った。
英二は麻衣子を見た。
麻衣子はもう冷蔵庫の中を見ていた。鶏むね肉を取り出しながら「今日は竜田揚げと豆苗ね」と言った。
英二は「ありがとう」と言った。
夕飯の礼なのか、別の何かへの礼なのか、自分でもよくわからなかった。
その夜、結衣が珍しく先にリビングに来た。
英二がストレッチをしていると、結衣がソファに座ってスマートフォンをいじりながら言った。
「ねえ、二月のバトルっていつ?」
「十五日」
「土曜じゃん」
「そう」
結衣がスマートフォンから目を上げた。
「私も行く」
英二は手を止めた。
「この前は来なかっただろ」
「この前は」結衣は少し言いにくそうにした。「友達に言えなかったから、万が一会ったら嫌だなって」
「今は?」
「今は」結衣はまたスマートフォンに目を落とした。「美咲に言った。お父さんがバトルに出るって」
「何て言ってたんだ」
「見に行きたいって」
英二は少し笑った。
「美咲ちゃんも来るのか」
「来ない。でも」結衣はぼそっと言った。「動画撮ってきてって言われた」
英二は答えなかった。
結衣がスマートフォンをいじりながら、もう一度言った。
「……ちゃんとカマせよ」
前にも聞いた言葉だった。でも今回は、声に出して言った。
「ああ」と英二は言った。「カマしてやる」
二月十五日まで、あと二週間だった。




