第8話「ログ未記録域」
夜のリビング。
誰もテレビを見ていないのに、画面だけが青白く光っている。
上原ゆいは立ったまま、空中を見ていた。
視界に流れる文字列。
帰還履歴。
座標。
そして――未記録。
「……増えてる」
小さな声。
そらの覚醒以来、ログの空白が広がっていた。
普通の層なら、すべて記録が残る。
でも、未記録入口に触れた座標だけが、途中で切れている。
「母さん?」
ひなが声をかける。
ゆいは振り返らない。
「……そら、もう一度聞くわ」
「なに」
「帰還した瞬間、何を考えてた?」
そらが少し考える。
「……ねーちゃん、落ちそうだったから」
「……そう」
ゆいは目を閉じた。
ログは感情を記録しない。
でも、帰還座標が通常とは違う。
――強制上書き。
「リターンが、層の構造に干渉し始めてる」
独り言みたいに呟く。
*
翌日。
第三層。
空気が重い。
そらが一歩踏み出すと、石畳の表示が一瞬消えた。
「……ねーちゃん、これ」
「見ないで」
ひなが即答する。
でも自分も見てしまう。
未記録入口が、昨日より広がっていた。
色のない穴。
奥行きが分からない。
その周囲だけ、ガイド線が表示されない。
「……母さん、なんて言ってたっけ」
「“落ちた場所”」
ひなが小さく答える。
「層じゃないんだって」
「じゃあ何なの」
沈黙。
ひなは答えなかった。
代わりに空中をなぞる。
ガイドが出る。
でも線が震える。
「……やっぱり重い」
その時。
入口の奥で、何かが光った。
細い線。
ひなの目が見開かれる。
「……これ……」
「なに」
「ガイドの残骸……?」
途中で切れた光。
人が引いたルートみたいな跡。
古い。
でも、見覚えがある。
「……父さんの?」
そらの声が震える。
ひなが答えられない。
*
空気が変わる。
音が消える。
未記録入口が、ゆっくり“呼吸”するみたいに膨らんだ。
ひなが一歩下がる。
「……近づかない」
「でもさ」
そらが前を見る。
「父さん、あそこにいるかも」
言葉が落ちる。
ひなが目を閉じた。
「……だから怖いんだよ」
小さな声。
その時。
地面が波打つ。
未記録入口が一瞬だけ開き、
奥に“街の断片”が見えた。
現実とも仮想空間とも違う景色。
色が薄い。
音がない。
「……ねーちゃん」
「……見た」
二人とも動けない。
警告音が鳴る。
『帰還推奨』
ひなが即座に言う。
「戻る」
「でも――」
「今は見るだけでいい」
ガイドを引く。
細い線。
でも今回は、切れなかった。
*
帰還後。
ゆいがすぐに聞いた。
「入口、見えたのね」
「……うん」
ひなが頷く。
「奥に……街みたいなのあった」
ゆいの呼吸が止まる。
「……たいちの最後のログ、第三層外縁の“先”だった」
「先?」
「層じゃない場所」
静かな声。
「ログはそこから先、何も残してない」
そらが小さく言う。
「……未記録域ってさ」
「なに」
「帰れなかった人の、途中ってこと?」
ゆいはすぐに答えなかった。
少しだけ時間を置いてから言う。
「……帰還できなかった座標の、落下点よ」
部屋が静かになる。
*
夜。
ひなが一人、仮想空間の記録を見ている。
ガイドの線。
途切れた跡。
「……私、追いつけるかな」
小さな声。
背後でそらが言う。
「ねーちゃん」
「ん?」
「俺、次行く時……前出てもいい?」
ひなが少し笑う。
「……ダメ」
「即答」
「でも」
少しだけ間。
「……一緒ならいい」
その言葉が、静かに落ちた。
空が一瞬だけ歪む。
未記録入口が、遠くで揺れていた。




