第9話「未帰還座標」
夜のリビング。
カーテンの隙間から街灯が差し込む。
上原ゆいは立ったまま、ログを見ていた。
透明な文字列が静かに流れる。
第三層外縁。
未記録入口。
そして――
たいち。
帰還完了の表示がない名前。
「……そろそろ、隠しても意味ないわね」
小さな独り言。
背後で足音がする。
「母さん」
ひなだった。
そらも少し遅れて入ってくる。
「……入口、広がってるでしょ」
ひなが言う。
ゆいは頷いた。
「未記録域は、“落ちた人”を引き寄せる」
「……どういうこと」
そらが聞く。
「帰還できなかった座標は、完全に消えないの」
ゆいの声は静かだった。
「ログは残さない。でも、空間には痕跡が残る」
ひなの目が揺れる。
「……父さんも?」
「ええ」
短い答え。
沈黙。
時計の音だけが響く。
*
翌日。
第三層外縁。
未記録入口は、はっきりと見える形になっていた。
街の中に、切り取られた空白。
色のない穴。
その周囲だけ、音が吸い込まれる。
「……昨日より近い」
そらが呟く。
ひなが空中をなぞる。
ガイド線が出る。
でも細い。
今にも切れそうだった。
「……今日は入口まで」
「入らないんだ」
「入らない」
ひなの声は強かった。
でも視線は揺れている。
*
入口の前。
風が止まる。
奥から、微かな光。
ガイドの残骸。
古い線。
ひなが手を伸ばしかけて止める。
「……父さん」
小さな声。
その瞬間。
空間が震えた。
未記録入口が広がる。
ひなの足元が滑る。
「っ!」
ガイドが出ない。
線が表示されない。
視界が歪む。
そらが叫ぶ。
「ねーちゃん!」
ひなが振り返る。
少しだけ笑った。
「……そら、ここから先はガイド届かない」
「知ってる」
「だから……」
言葉が途切れる。
そらが一歩前に出る。
胸の奥が静かに熱い。
「俺、行く」
「……ダメ」
「ねーちゃん一人じゃ帰れないかもだろ」
ひなが目を見開く。
数秒の沈黙。
風が止まる。
「……一歩だけ」
ひなが言った。
そらが頷く。
二人同時に、入口の縁に触れる。
*
音が消える。
街の色が薄くなる。
現実でも仮想空間でもない場所。
奥に、かすかな人影。
ぼやけている。
「……ねーちゃん」
「見てる」
そらの呼吸が速くなる。
その時。
入口が急に閉じ始めた。
空間が引き戻そうとする。
「戻る!」
ひなが叫ぶ。
ガイドは出ない。
線がない。
そらが目を閉じる。
(……帰る)
胸の奥が爆ぜる。
「リターン!!」
光が広がる。
未記録入口が弾かれる。
景色が一瞬で反転した。
*
リビング。
そらが膝をつく。
呼吸が荒い。
ひなが隣に座り込む。
「……見えたね」
「……うん」
ゆいが静かに立っていた。
「……人影」
ひなが言う。
「……たいちの可能性、高いわ」
そらが顔を上げる。
「……じゃあ、助けられる?」
ゆいは少しだけ黙った。
「……分からない」
正直な答え。
「でも」
ゆいの目が少し柔らかくなる。
「帰れる子が、いる」
そらを見る。
ひなもそらを見る。
空気が静かに変わった。
*
夜。
ベランダ。
「……ねーちゃん」
「ん?」
「俺さ」
「なに」
「帰るの、怖くなくなってきた」
ひなが少し笑う。
「……それ、調査員っぽいね」
空を見上げる。
未記録入口の方向だけ、星が少し揺れていた。




