第4話「ログ:赤」
夜のキッチンは静かだった。
時計の針だけが小さく動く。
上原ゆいは、シンクの前に立ったまま動かなかった。
誰もいない空間を、じっと見ている。
そこには何もない。
――普通の人には。
ゆいの視界には、半透明の文字列が浮かんでいた。
座標。帰還履歴。失敗ログ。
赤い線が、ひとつ増える。
「……また、ここ」
小さな独り言。
第三層外縁。
今日、ひなとそらがいた場所。
そして――
たいちが帰らなかった座標の、すぐ近く。
ゆいは目を閉じる。
ログは未来を教えない。
ただ、起きたことだけを残す。
だから怖い。
*
「母さん」
リビングからひなの声。
ゆいはすぐに振り返る。
「……なに」
「さっきのログ、やっぱり赤?」
「ええ」
短い答え。
ひながソファに腰掛ける。
その横で、そらがゲーム機を触りながら耳だけ向けている。
「……赤ってさ、危険度ってこと?」
そらが聞いた。
「危険というより……帰還率が低い座標よ」
「帰還率?」
「ログは、帰れた人の履歴しか残さないの」
ゆいが静かに言う。
「でも、赤い場所は……帰れなかった人が多い」
そらの手が止まる。
「……父さんも?」
沈黙。
ひなが目を伏せる。
ゆいは少しだけ視線を逸らした。
「……ログに終わりがないの」
「終わりがない?」
「普通は、“帰還完了”って記録が残る」
空中を指でなぞる。
透明な文字が浮かび、すぐ消えた。
「でも、たいちは……途中で切れてる」
それ以上は言わなかった。
*
しばらくして。
「母さんってさ」
そらがぼそっと言う。
「ログ、ずっと見えてんの?」
「……見ようと思えばね」
「疲れない?」
「……慣れたわ」
ゆいは少し笑った。
でも目は笑っていない。
ひなが立ち上がる。
「そら、牛乳取って」
「なんで俺」
「背高いから」
「雑」
二人が軽く言い合う。
その光景を見ながら、ゆいの視界にまた赤い線が増えた。
学校の座標。
「……現実側にもノイズが出てる」
「え?」
ひなが振り返る。
「そら、学校で変なことなかった?」
そらが少しだけ黙る。
「……紙飛行機が、ちょっと」
「ちょっと?」
「いや、なんでもない」
ゆいはそれ以上追及しなかった。
ただ、小さく息を吐く。
「……リターンは、強くなってるのね」
「え?」
「独り言」
*
夜遅く。
ひなが部屋の前で立ち止まる。
「母さん」
「なに」
「……私、ガイド見失った」
小さな声。
ゆいの手が止まる。
「初めて」
ひなが笑おうとする。
でも少しだけ震えていた。
「……大丈夫よ」
ゆいは静かに言う。
「ガイドは、道を示す力。道が消えたんじゃない。まだ見つけてないだけ」
「……そらのリターン、危ないかな」
ゆいは少し考えてから答えた。
「……危ないわ」
正直な声。
「でも」
少し間を置く。
「帰れる力でもある」
ひなが目を閉じた。
*
深夜。
ゆいは一人、リビングに立っている。
ログの文字列が静かに流れる。
第三層。
未記録域。
たいち。
終わりのない座標。
ゆいは小さく呟いた。
「……お願いだから、同じ場所に行かないで」
声は誰にも届かない。
時計の針が、一瞬だけ止まった。
ゆいだけが気づく。
「……現実側まで、来てるのね」




