第3話「ガイド誤差」
仮想空間――第三層外縁。
光の街は、昨日より静かだった。
建物の輪郭が、ほんの少しだけ遅れて描画されている。
足元の石畳に、見えない数字が流れているのを、そらはなんとなく感じていた。
「ねーちゃん、今日ラグくない?」
そらが歩きながら言う。
前を歩くひなは、空中に浮かぶ座標パネルを睨んでいた。
「……ラグっていうか、ガイドが重い」
「ガイドって重くなるもんなの?」
「普通はならない」
小さな答え。
それだけで空気が少し冷える。
ひなの指先が光をなぞる。
細い線が一本、道の奥へ伸びた。
ガイド。
空間の安全ルートを計算して可視化する能力。
普通なら、迷うことはない。
「はい、帰還ライン確保。今日は短めで戻るよ」
「珍しく慎重じゃん」
「ログ赤いって母さん言ってたでしょ」
ひなが振り返る。
「層が揺れてる時は、深追いしないの」
調査員としての顔だった。
そらは軽く肩をすくめる。
「了解、ガイド様」
「その言い方やめて」
*
街の奥で、建物が一瞬だけ歪んだ。
影が逆方向に伸びる。
「……ねーちゃん」
「見た」
ひなが短く答える。
空中の線が微妙に揺れていた。
ガイドが、微かにズレている。
「……座標、ズレてる?」
「うん。でも補正できる範囲」
ひなが新しい線を引く。
光が分岐する。
でもその一本が、途中で“切れていた”。
「……え?」
ひなが小さく息を呑む。
「どうした」
「ルートが……途中で消える」
「バグ?」
「ログにない」
静かな声。
そらの背中が少し冷える。
*
『調査時間、残り三十秒』
警告音。
帰還時間が近い。
「戻るよ。手」
ひなが言う。
そらが手を差し出した、その瞬間。
景色がぐにゃりと歪んだ。
建物の輪郭が崩れ、石畳が浮き上がる。
「……なにこれ」
「層のズレ……?」
ひなが焦ってパネルを操作する。
ガイド線が乱れる。
一本、完全に消えた。
「……嘘でしょ」
「ねーちゃん?」
「帰還ルートが……見えない」
初めてだった。
ひながガイドを見失うのは。
そらの心臓が跳ねる。
「……ねーちゃん」
「大丈夫、再計算――」
言い終わる前に、空間が崩れた。
そらの足元が消える。
「っ!」
体が少しだけ透明になる。
「そら!!」
ひなが腕を掴む。
ガイドの光が巻き付く。
でも安定しない。
「座標ロスト……!?」
「……ねーちゃん」
そらの声が、少しだけ遠い。
その時。
胸の奥が、強く引かれた。
(……帰りたい)
思った瞬間。
「……リターン」
小さく呟く。
空間が巻き戻る。
崩れていた街が、音もなく元に戻った。
静寂。
ひながそらの肩を掴んだまま、固まっている。
「……今、何したの」
「分かんない。なんか……戻れって思ったら」
ひなが目を閉じる。
深く息を吐いた。
「……あんた、ほんとにリターンかもしれない」
「今さら?」
「今までは偶然だったでしょ」
少しだけ笑う。
でも声は震えていた。
*
帰還。
光が弾ける。
二人はリビングに立っていた。
ゆいがすぐに振り返る。
「……遅かったわね」
「層が揺れてた」
ひなが答える。
「ガイドが途中で切れた」
ゆいの目が細くなる。
「……第三層?」
「うん」
「ログ、完全に赤だわ」
静かな声。
そらはソファに座り込みながら言う。
「ねーちゃん、今日ちょっと怖かったな」
「……私も」
珍しく素直な声。
ゆいが小さく呟く。
「……現実側にもノイズが出始めてる」
「え?」
「学校で、変なことなかった?」
そらが少し黙る。
紙飛行機。
位置ズレ。
「……まぁ、ちょっとだけ」
ゆいは何も言わなかった。
でも、その沈黙だけが重かった。
*
夜。
そらがベッドに寝転がる。
天井を見ながら呟く。
「……ねーちゃん、ガイド見えなくなることあるんだな」
廊下の向こうで、ひなが小さく笑った。
「……あるよ。たまに」
その声は、少しだけ寂しそうだった。
その瞬間。
部屋の空気が、わずかに歪む。
時計の針が一瞬止まる。
誰も気づかない。




