■第四章「ガイドの崩壊」 完全版
その日は、接続前から空気が重かった。
リビングで準備をしている時から、ひなはほとんど喋らなかった。いつもなら「今日どこ行く?」とか「浅めでいいよね」とか軽く言うのに、それがない。代わりに、何度も同じ動作を繰り返している。端末の確認。接続ログの確認。もう見たはずの画面を、もう一度開く。
そらはそれを黙って見ていた。
(……昨日のやつ、引きずってる)
分かる。でも、声はかけなかった。軽く触れていい話じゃないと、なんとなく感じていたから。
「……行くよ」
ひなが言う。
短い声。
それだけで、逃げ道がない感じがした。
接続。
視界がズレる。
空気が変わる。
第三層。
でも、昨日より明らかにおかしかった。
明るい。
必要以上に。
影が濃すぎる。
コントラストが強くて、輪郭が浮き上がりすぎている。
そのせいで逆に、世界全体が“作り物”に見える。
「……ねーちゃん」
「……うん」
返事はある。でも、視線は前に固定されたまま動かない。
ひなの指が空中をなぞる。ガイドを引こうとしている。でも、その動きが少しぎこちない。
線が出る。
細い。
昨日よりも。
しかも、途中でわずかに歪んでいる。
そらはそれを見ていた。
何も言わなかった。
言ったら、完全に崩れる気がした。
「……大丈夫」
ひなが言う。
誰に向けてでもない言葉。
自分に言い聞かせているのが分かる。
「今日は浅めで戻る」
「……うん」
そらは頷く。
それ以上、踏み込まない。
歩き出す。
音が少ない。
でも今日は違う。
音が“歪んでいる”。
足音が二重に聞こえる。少し遅れて、もう一度同じ音が重なる。まるで誰かが後ろから同じ歩幅でついてきているみたいに。
そらは振り返りそうになる。
でも、やめた。
見たらダメな気がした。
ひなが止まる。
急だった。
「……ここ」
前方。
未記録入口があった方向。
今日は何もない。
ただ、空気が異様に重い。
見えないのに、“ある”。
そんな感覚。
「……ガイド、更新する」
ひながパネルを操作する。
線が分岐する。
何本も。
でも――
全部、途中で切れている。
ひなの指が止まる。
「……え」
小さな声。
初めて聞く種類の音だった。
「どうした」
「……ルートが、ない」
そらの心臓が跳ねる。
「ないって」
「……全部、途中で消える」
ひながもう一度なぞる。
同じ。
何度やっても。
線は出る。
でも、帰りきらない。
途中で消える。
「……待って」
ひなが言う。
でもその声は、もう安定していない。
「再計算……できるから」
指が震える。
線を引く。
消える。
引く。
消える。
繰り返し。
何度も。
何度も。
でも結果は変わらない。
そらはそれを見ていた。
胸がざわつく。
(……これ、やばい)
でも、口には出さない。
出したら、完全に終わる。
空間が揺れる。
建物の輪郭が崩れる。
足元が透ける。
音が消える。
「……ガイドが」
ひなの声が震える。
「見えない」
その一言で、全部が変わる。
今まで絶対だったものが、消えた。
帰り道が、なくなった。
そらの中で、何かが静かに切り替わる。
怖い。
でも、それより先に出てくる感情があった。
――このままじゃ、ねーちゃんが戻れない。
「ねーちゃん」
「……大丈夫、私が」
言葉が続かない。
ひなの視線が泳いでいる。
初めて見る姿だった。
“前にいる人”が、前にいない。
そらは一歩前に出る。
無意識だった。
「ねーちゃん、後ろ」
「……え?」
「今は俺、前行く」
言葉にしてから、自分でも少し驚く。
でも、引かなかった。
ひなが固まる。
理解が追いついていない顔。
でも、その一瞬で全部が伝わる。
そらはもう、“守られる側”じゃない。
空間がさらに歪む。
遠くで、未記録の“影”が揺れる。
あの入口。
見えなくても分かる。
そこにある。
引き寄せられる。
「……見ちゃダメ」
ひなが言う。
小さな声。
でも、それが限界だった。
そらは何も言わない。
ただ、ひなの手を握る。
強く。
確かめるように。
帰還。
視界が戻る。
リビング。
空気がある。
重さがある。
音がある。
ひながその場に立ったまま動かない。
呼吸が浅い。
手がわずかに震えている。
「……ガイド、消えた」
小さな声。
誰に言ってるのか分からない。
ゆいが静かに見ている。
「……そういう日もある」
優しい言葉。
でも、慰めにはなっていない。
ひながソファに座る。
力が抜けるみたいに。
「……私、向いてないのかも」
ぽつりと言う。
そらが横を見る。
「なにが」
「ガイド」
少し笑う。
でもその笑いは、完全に崩れている。
「道見えなくなるとか、意味ないじゃん」
そらは少しだけ考える。
すぐには言葉が出ない。
でも、出た。
「……向いてるって」
「……根拠は」
「ねーちゃんが前にいると、怖くないから」
ひなが一瞬止まる。
その言葉が、まっすぐ届く。
少しだけ目が揺れる。
それから、小さく笑った。
「……それ、ずるい」
夜。
そらはベッドに寝転がる。
今日のことを思い出す。
ガイドが消えた瞬間。
ひなの顔。
初めて見た、“迷ってる人の顔”。
「……俺がやるか」
小さく呟く。
その瞬間。
体の位置が、わずかにズレる。
今までより、少しだけはっきり。
でも、まだ自覚はない。
ただ、確実に近づいている。
“帰らせる側”に。




