■第三章「未記録入口」 完全版
その日の接続は、いつもよりわずかに長く感じた。ほんの一瞬のはずなのに、現実から引き剥がされる感覚が遅れて体にまとわりつく。目を開けたときには、もうそこに“あの街”が広がっているのに、自分の感覚だけがまだ現実に引き留められているような、不安定なズレが残っていた。そらは一度、深く息を吸ったが、肺に入ってくる空気が本当に存在しているのか分からず、すぐに吐き出した。
「……ねーちゃん」
声に出した瞬間、自分の声がほんの少し遅れて耳に届いた気がして、そらは無意識に眉をひそめた。
「分かってる」
ひなの返事は早かったが、いつもより低く、少しだけ硬い。視線は前方の街並みに固定されている。そこにあるはずの建物は確かに形を保っているのに、輪郭がわずかに揺れていて、目で追うたびに“描き直されている”ような違和感があった。まるで世界の表示処理が追いついていないみたいに、遅延している。
石畳の道も同じだった。一見すれば何の変哲もない並びなのに、視線を外した瞬間だけ位置が微妙にズレる。踏み出す前に確認しないと、足を置く場所が信用できない。
「……今日、やばくない?」
そらは足元を見ながら言う。言葉に出したことで、自分の中にあった不安がはっきりした。
「ログ赤いときは、こういう揺れ方する」
ひなは短く答える。空中に指を滑らせ、半透明のパネルを展開する。表示される数値が安定しない。座標が固定されず、わずかに上下し続けている。
「……ガイド引くね」
その声には、いつもより少しだけ力が入っていた。そらは気づく。これは“いつも通りに見せるための声”だと。
ひなが指先で空間をなぞる。細い光の線が現れる。帰還ルート。いつもなら迷いなく一本に収束するそれが、今日は微かに震えている。太さも不安定で、ところどころ途切れかけている。
そらは何も言わなかった。言えば、この細さを認めることになる気がした。言わなくても分かっているのに、それでも言葉にしたくなかった。
(……これ、切れるんじゃね)
思った瞬間に、目を逸らした。
二人は歩き出す。足音が石畳に響くはずなのに、音が遅れて聞こえる。自分が踏みしめた感触と、耳に届く音のタイミングが合わない。そのズレが、じわじわと神経を削る。そらは無意識に歩幅を小さくし、ひなの少し後ろに位置を取った。
ひなの背中はいつもと同じように見える。少し前傾で、迷いなく進んでいるように見える。でも肩のラインがほんのわずかに上がっているのを、そらは見逃さなかった。
(……怖いんだ)
思う。自分と同じように。でも、ひなはそれを見せない。見せたら、後ろにいる自分が崩れることを知っているから。
だから、そらも言わない。怖いとは。
視界の端で、違和感が動いた。建物の壁の一部が、ゆっくりと“剥がれる”。音もなく、ただそこだけが存在をやめるように消えていく。内側は空洞だった。黒でも白でもない。色が“定義されていない”空間。
そらの足が止まる。呼吸が浅くなる。
「……なに、あれ」
声が自然と小さくなる。大きな声を出したら、あれに気づかれる気がした。
ひなも止まる。ほんの一瞬だけ、反応が遅れた。それがすべてを物語っていた。
「……未記録」
静かな声。
「未記録?」
「ログにない場所」
簡潔な説明。でも、それ以上に言葉を続けなかったことで、逆に意味が膨らむ。説明できない場所。記録されない領域。
そらは喉を鳴らす。目を逸らそうとするのに、視線が吸い寄せられる。
空気が止まる。風の感覚が消える。音が完全に消失する。世界が“観測されること”をやめたみたいな、異様な静けさ。
「……近づかないで」
ひなの声が変わる。低く、迷いのない命令。姉としてではなく、“守る側”としての声。
そらは一歩踏み出しかけて、止まる。でも完全には止まれない。視線だけは奥へと伸びる。
空洞の内部に、何かがあった。細い光の線。途中で途切れている。まるで誰かが引いた帰還ルートが、途中で断ち切られたみたいに。
「……ねーちゃん」
「見なくていい」
即答。強い否定。でもその裏にある感情が透ける。
知っている。あれが何かを。
そらはゆっくりとひなの横顔を見る。その表情は、今まで見たことのないものだった。恐怖でも焦りでもない。もっと深い、“知っている人間の顔”。
「……父さんの座標に近い」
ひなが言った。
その瞬間、そらの中で何かが繋がる。帰ってこなかった人。ログに終わりがない人。その“途中”が、ここにある。
息が詰まる。
「……じゃあ、あれって」
「落ちた場所」
ひなは視線を外さない。
「帰れなかった人の」
言い切る。その強さが、逆に怖い。
そらの胸の奥がざわつく。怖い。でも、それだけじゃない。そこに“何かが残っている”という事実が、引き寄せる。
未記録入口が、ゆっくりと膨らむ。呼吸のように。生き物みたいに。現実にはありえない動き。
足元の石畳が透ける。
「っ!」
「そら!」
ひなが腕を掴む。強い力。逃がさない力。
そらはその力に、逆に安心する。痛みがあることが、ここがまだ繋がっている証拠になる。
「……戻る」
ひなが言う。即断。迷いはない。でも、その速さがすべてを語っている。
ここは、見ていい場所じゃない。
帰還の光が弾ける。視界が一瞬で塗り替えられる。次の瞬間、リビングの床の感触が足に戻る。重さがある。空気がある。音がある。
そらはその場に立ったまま、動けなかった。心臓だけがやけにうるさい。
「……今の、何」
声が少し震える。
ひなは答えない。ただゆっくり息を吐く。その呼吸の重さで、どれだけ余裕がなかったか分かる。
「……見たのね」
キッチンから、ゆいの声。
ひなが小さく頷く。
「未記録入口」
「……そう」
ゆいは目を閉じる。ほんの一瞬だけ、表情が崩れる。すぐに戻る。
「……あそこには、近づかないで」
命令じゃない。願いだった。
そらは何も言えない。その言葉の重さが、分かってしまったから。
夜。ベランダ。風が少し冷たい。
「……父さん、あそこにいるのかな」
そらが言う。
ひなはすぐに答えない。空を見上げる。星が微かに揺れている気がする。
「……分かんない」
正直な声。
「でも、帰れなかった場所なのは確か」
そらは黙る。怖い。でも、それ以上に強い感情がある。
置いていかれること。
「……俺」
言葉が自然に出る。
「行ってみたいかも」
ひなが振り返る。少し驚いた顔。でもすぐに苦く笑う。
「……バカ」
「なんで」
「そういうこと言うやつが、一番危ないの」
でも、その声は完全な否定じゃなかった。
布団の中。暗闇。
未記録の空洞が頭に残る。あの奥。あの線。途中で切れた帰り道。
「……帰る」
無意識に呟く。
その瞬間、体の位置がほんのわずかにズレた。
気づかないほど微細な変化。
でも確かに、何かが動いた。
帰るための力が、静かに目を覚まし始めていた。




