■第二章「仮想空間とルール」 完全版
接続の瞬間は、いつも少しだけ嫌な感覚がある。
視界が白くなるとか、体が浮くとか、そういう分かりやすい変化じゃない。もっと曖昧で、もっと気持ち悪い。
自分が今いる場所が、ほんの少しだけ“ズレる”。
それだけ。
それなのに、戻れなくなるかもしれないという感覚だけが、はっきりと残る。
「……そら」
ひなの声が、どこか遠くから届いた。
気づくと、目の前には夕焼けの街が広がっていた。
石畳。建物。電柱。全部、現実と同じ形をしている。けれど何かが違う。見ているはずなのに、ちゃんと“触れている実感”が薄い。
そらは足元を見た。
石畳の一部が、微かに揺れている。
「そこ踏まないで」
ひながすぐに言う。
「座標ズレてる」
「……これ、毎回思うけどさ」
そらは足を引いた。
「普通に怖いんだけど」
「慣れるよ」
「慣れたくない」
ひなが小さく笑う。
でもその笑いは、ほんの少しだけ遅れていた。
そらは気づく。
(……あれ)
ねーちゃん、今ちょっと固くなった?
気のせいかもしれない。でも、さっきまでの軽さと少し違う。
「はい、ガイド引くね」
ひなが空中をなぞる。
光の線が現れる。
細くて、不安定で、頼りない。
でも、それが“帰る道”だった。
「……それ、絶対なん?」
「絶対じゃない」
即答だった。
そらは少し黙る。
軽く流されると思っていた。
「でも、これが一番確率高い」
ひなが続ける。
「だから、外れないで」
その言い方が、少しだけ強かった。
そらは頷く。
言い返さなかった。
街の奥に進む。
音が少ない。
というより、音が“届いてこない”。
自分たちの足音だけが、やけに遠く響いている。
「……ねーちゃん」
「なに」
「これさ」
そらは周囲を見回す。
「本当に“空間”なの?」
ひなが少しだけ黙った。
その間が、そらの中で引っかかる。
「……分かんない」
やっと出た答えは、それだった。
「ログでは“層”って呼んでるけど」
「層?」
「現実をコピーしたみたいな場所って意味」
「みたいなって何」
「完全に同じじゃないから」
ひなの視線が、遠くを向く。
「……ズレるでしょ」
その言葉が、妙に重く残る。
その時だった。
建物の影が、一瞬だけ逆方向に伸びた。
そらの呼吸が止まる。
「……今の見た?」
「見た」
ひなの声が低い。
さっきまでと違う。
完全に“調査員”の声だった。
「ここ、ログよりズレてる」
「ズレるって」
「想定外の動きしてるってこと」
ひながパネルを操作する。
ガイド線が揺れる。
ほんの少しだけ、細くなる。
そらはそれを見ていた。
何も言わなかった。
(……怖い)
でも、それを口にしたら、何かが壊れる気がした。
「帰るよ」
ひなが言う。
声は落ち着いている。
でも手は少し冷たかった。
「捕まって」
そらはその手を握る。
ほんの少しだけ、力が強い。
「……ねーちゃん」
「なに」
「もしさ」
そらは目を閉じる。
「帰れなかったらどうする」
数秒の沈黙。
風も、音も、何もない時間。
ひなの手が、少しだけ強くなる。
「……帰るよ」
小さな声。
でも、はっきりしていた。
「帰れる場所がある限り」
それ以上は言わなかった。
でも、その言葉の奥にあるものを、そらは感じてしまった。
――帰れなかったことがある人の言い方だ。
光が弾ける。
視界が戻る。
リビング。
いつもの家。
でも、さっきまでいた場所の感触だけが、体に残っている。
そらは手を見た。
まだ、ひなの温度が残っている。
「……ただいま」
小さく言う。
ゆいがキッチンから振り返る。
「……おかえり」
その声は、いつもより少しだけ深かった。
そらは気づかない。
でも、ひなは分かっていた。
母はずっと、“帰れなかった人”を見ている。
だから、帰ってきた人を見る時だけ、少しだけ安心する。
その安心が、逆に重い。
夜。
そらはベッドに寝転がりながら、目を閉じる。
さっきの空間。
影のズレ。
音のない街。
そして、ひなの手の強さ。
「……帰れなかったら」
その言葉だけが、頭に残る。
次の瞬間。
体が、ほんのわずかにズレた。
自分でも気づかない程度に。
でも確かに、何かが動いた。
――帰るための何かが。




