■第一章「日常と違和感」 完全版
「だからさ、それワープじゃないって。リターンだって言ってんの」
放課後の教室で、上原そらは机に頬杖をつきながら言った。窓の外はまだ明るく、グラウンドから部活の掛け声が聞こえてくる。いつも通りの時間、いつも通りの空気。
「はいはい最強能力者」
前の席のなおが振り返って笑う。
「いやマジで。昨日な、ねーちゃんの前から後ろに――」
「はい厨二病」
「聞けって!」
そらが少し身を乗り出す。言葉に熱が乗るほど、なおの反応は軽くなる。それでも話したくなるのは、半分は本気で、半分は信じてほしいからだった。
「じゃあさ」
なおが紙を一枚差し出す。
「能力者なら紙飛行機くらい完璧に折れよ」
「だから俺、不器用なんだって」
そらは紙を受け取る。折ろうとして、すぐにぐしゃっと形が崩れる。指先の感覚がうまく合わない。力加減が分からない。何度やっても、形にならない。
「下手すぎだろ」
「うるさい」
笑い声が広がる。何も特別じゃないやり取り。そらもつられて笑う。
――その時だった。
机の端に置いてあった鉛筆が、すっと滑り落ちる。
カツン、と軽い音。
次の瞬間、投げたばかりの紙飛行機の中心に、まっすぐ突き刺さった。
空気が止まる。
「……え?」
なおが固まる。
そら自身も、一瞬だけ何が起きたのか分からなかった。ただ、胸の奥がわずかに熱くなる感覚だけが残る。
「だから言ったじゃん」
少し遅れて、そらは笑った。
「リターンだって」
「いや今の偶然だろ」
なおは笑いながらも、視線を逸らした。完全には流しきれない違和感が残っている。
教室の隅で、ひとりの女子がその光景を見ていた。メガネ越しに目を細め、本のページをめくる手が止まる。
(……今、何?)
声には出さない。ただ、心の中だけで言葉が大きくなる。
(おかしくない?)
誰も気づいていない。笑い声はすぐに戻る。さっきの出来事は、ただの偶然として処理されていく。
でも彼女だけは、視線を外せなかった。
帰り道。夕焼けが街をオレンジ色に染めている。
「ねーちゃんさ」
そらが歩きながら言う。
「んー?」
前を歩く上原ひなが振り返る。ポニーテールが軽く揺れる。
「できてないのに、できてる風にするの上手いよな」
「はぁ?」
「仮想空間は完璧だけどさ、現実のガイドちょっと怪しくない?」
「怪しくないし。成功してるし」
「さっきズレてた」
「誤差!」
言い合いになる。でもどこか軽い。いつものやり取り。
ひなは前を向いたまま、少しだけ歩幅を広げる。
「……うちの家、変だよな」
そらがぽつりと言った。
その言葉で、空気が少しだけ変わる。
「ワープとか、調査とか。普通の家庭しないぜ」
ひなの足が一瞬だけ止まる。
「……まぁ、普通ではないかもね」
軽く答える。でも声は少しだけ静かだった。
「怖くね?」
そらが言う。
「俺、ちょっと怖い」
ひなは振り返らない。
少しだけ間を置いてから、小さく言った。
「……私も前は怖かったよ」
「前はって何だよ」
「秘密」
「ずるっ」
ひなが笑う。いつもの顔に戻る。でも、その笑いの奥にあるものを、そらはまだ知らない。
その時、路地の奥で空気がわずかに歪んだ。
ひなだけがそれに気づく。
反射的にそらの手首を掴む。
「……こっち」
「え?」
声が低い。
さっきまでとは違う。
数秒。
歪みは消える。
ひなは何事もなかったように手を離した。
「ほら帰るよ。ガイド様についてきなさい」
「急にドヤ顔戻した」
そらが笑う。
でもひなは一度だけ、後ろを振り返った。
夜。
ベッドに寝転がりながら、そらは天井を見ていた。
「……帰るってなんだろ」
小さな独り言。
その瞬間、体の位置がほんのわずかにズレた。
気づかないほどの変化。
でも確かに、何かが動いた。
窓の外では、夜の街が静かに広がっている。
まだ誰も知らない。
これは、帰ることを覚えていく物語。
そして――
帰らせる側になる、ひとりの少年の話。




