■第五章「リターン」 完全版
その日は、接続する前から嫌な予感があった。理由ははっきりしない。ただ、昨日の感覚がまだ体に残っている。ガイドが消えた瞬間、ひなの顔、あの“前にいない感じ”。それが頭から離れなかった。
そらは靴を履きながら、無意識に手を握ったり開いたりしていた。指先の感覚を確かめるみたいに。
「……そら」
ひなの声がする。
振り向くと、いつも通りの顔をしていた。少しだけ明るくしているのが分かるくらいで、外から見ればいつもと変わらない。
「今日は浅めね」
「……うん」
短い会話。それだけで十分だった。無理に軽くする必要がないと、二人とも分かっていた。
接続。
視界が切り替わる。
同時に、違和感が全身に広がる。
重い。
昨日よりも。
空気が沈んでいる。呼吸が浅くなる。景色は見えているのに、距離感が掴めない。近いのか遠いのか、判断が遅れる。
第三層。
でも、もう“いつもの場所”じゃなかった。
「……ねーちゃん」
「……うん」
返事はある。でも、そこに余裕はない。
ひながすぐにガイドを展開する。空中に光の線が現れる。昨日よりもさらに細い。触れたら切れそうなほど脆い。
しかも、線がまっすぐじゃない。わずかに揺れている。生き物みたいに、不安定に。
そらはそれを見て、何も言わなかった。昨日と同じだ。言えば崩れる。
進む。
音がない。
完全にない。
自分たちの足音すら、消えている。
それが一番怖かった。
音がないと、自分がどこにいるのか分からなくなる。存在している実感が薄れる。
そらは無意識にひなの手首を見る。触れてはいない。でも距離を測るみたいに。
(……近くにいないと)
思う。
その時だった。
空間が歪む。
前方。
見えてしまう。
未記録入口。
昨日より、はっきりと。
そこだけ色がない。輪郭すら曖昧で、ただ“穴”として存在している。周囲の景色がそこに吸い込まれているみたいに歪んでいる。
「……見ないで」
ひなが言う。
でも、自分も見ている。
視線が外せない。
入口の奥。
光が見える。
細い線。
途中で切れている。
そして――
人影。
ぼやけている。
でも、“人”だと分かる。
そらの呼吸が止まる。
「……ねーちゃん」
「……見てる」
ひなの声がかすれる。
その瞬間。
空間が崩れた。
未記録入口が、一気に広がる。
引き込まれる。
足元が消える。
「っ!」
「そら!!」
ひなが手を掴む。
強く。
でも、その力が滑る。
座標が安定しない。
地面がない。
掴む場所がない。
「……ガイド!」
ひなが叫ぶ。
線を引く。
出ない。
何も出ない。
「……なんで……!」
声が崩れる。
完全に崩れる。
そらはそれを見た。
初めて、はっきりと。
ねーちゃんが、“帰れない側”に近づいている。
胸が締め付けられる。
怖い。
足がすくむ。
でも、それ以上に強い感情が出てくる。
――このままじゃダメだ。
考える前に、体が動く。
ひなの手を、逆に引く。
「ねーちゃん!」
「……そら……!」
視界が歪む。
音が消える。
全部が崩れる。
その中で、ひとつだけはっきりしているものがある。
“帰る”。
それだけ。
言葉じゃない。
思考でもない。
衝動。
強烈な方向性。
ここじゃない。
戻る。
戻らせる。
「……帰る」
口から漏れる。
次の瞬間。
胸の奥が爆ぜた。
「リターン!!」
空間が反転する。
光が逆流する。
崩れていた景色が、一瞬で巻き戻る。
未記録入口が弾かれる。
閉じる。
無理やり。
ありえない力で。
そらの体から、光が広がる。
線じゃない。
“方向”。
帰るための力が、空間全体を書き換える。
ひなが目を見開く。
理解が追いつかない。
でも分かる。
これは、ガイドじゃない。
別の何か。
次の瞬間。
リビング。
現実。
空気が戻る。
音が戻る。
重さが戻る。
そらは膝から崩れる。
「……は……?」
呼吸が荒い。
何が起きたか、理解できない。
ひなが隣に立っている。
無事。
ちゃんといる。
「……今、何したの」
声が震える。
「……分かんない」
そらは正直に言う。
「ただ……帰れって思った」
ひながゆっくりと息を吐く。
それから、小さく笑った。
「……やば」
「え」
「それ、ガイドいらないやつじゃん」
冗談みたいに言う。
でも、その奥にある感情は軽くない。
悔しさじゃない。
安心でもない。
もっと複雑なもの。
キッチンから、ゆいが見ていた。
静かに。
全部、分かっている顔。
「……リターンね」
小さく呟く。
そらが顔を上げる。
「え?」
「帰還座標を上書きする力」
簡単に言う。
でも、それがどれだけ異常かは、言葉にしない。
「……あなた、帰れる子じゃないのね」
その言い方が、少しだけ優しい。
「帰らせる子だわ」
夜。
ベランダ。
風が冷たい。
「……ねーちゃん」
「ん?」
「さっき、怖かった?」
ひなが少し考える。
それから、正直に言う。
「……怖かった」
短い言葉。
でも、全部入っている。
「でも」
少しだけ笑う。
「帰れるって思った」
「俺が?」
「うん」
そらは黙る。
胸の奥がまだ熱い。
さっきの感覚が残っている。
あの衝動。
方向。
「……俺さ」
「なに」
「帰るの、できるかも」
ひなが笑う。
「知ってる」
軽い返し。
でも、その裏にある信頼が重い。
布団の中。
そらは目を閉じる。
さっきの瞬間を思い出す。
崩れる世界。
ひなの手。
そして、自分の中から出てきた“帰る”という力。
「……次は」
小さく呟く。
「ちゃんとやる」
その言葉には、初めて“選択”が乗っていた。
偶然じゃない。
もう一度、やる。
その意思。
体が、わずかにズレる。
今度は、自覚があった。




