第8話 右脚の義足(魔法使い・タニア①)
「ローウェル、今日はあたしが付き添うからね」
朝食を終えた俺の前で、タニアが黒い杖を抱えながら胸を張った。長い紫色の髪が揺れる。いつもなら魔法の研究資料を片手に、何か面白い現象はないかと目を輝かせている彼女だが、今日は妙に張り切っていた。
「付き添うって、何に?」
「歩行練習だよ。リネットから許可をもらってきたの」
「おおっ、ついに来たか」
俺は思わず拳を握った。ようやく歩く練習ができる。ずっとベッドの上で寝ている生活にも慣れてきたとはいえ、やっぱり自分の足で動けるようになりたい。
右脚は失ったままだ。だからといって、いつまでも寝たきりでいるつもりはない。
「よし、頑張るぞ」
俺が勢いよく立ち上がろうとすると、タニアが慌てて肩を押さえた。
「待って待って。いきなり立たないの。今日は右脚の義足を使うんだから、まずは装着からだよ」
「ああ、そうか」
「もう。やる気があるのはいいことだけど、焦っちゃ駄目だからね」
タニアは呆れたように笑い、それからベッドの脇に置いてあった義足を持ち上げた。
金属の骨組みに、魔力回路が組み込まれた特別製の義足だった。膝や足首にあたる部分には細かな魔法陣が刻まれ、歩くときの重心移動を補助できるように調整されているらしい。
「これ、タニアが作ったのか?」
「そうだよ。正確には、既存の義足を魔法で改良したものだけどね。普通の義足だと、ローウェルの身体にかかる負担が大きすぎるから、魔力で動きを補助できるようにしたの」
タニアは義足を膝の上に置き、得意げに説明を始めた。
「歩くときに発生する重心の変化を魔力回路が感知して、膝と足首の動きを補助する仕組みなんだよ。魔力の出力を調整すれば、歩幅や足を持ち上げる高さも変えられるの。あたしが組み込んだ回路は三層構造で――」
「つまり、歩くのを手伝ってくれるんだな」
「うん。……説明、ちゃんと聞いてた?」
「聞いてた聞いてた。すごいな、タニア」
「半分も聞いてないよね?」
タニアが頬を膨らませた。
けれど、義足を扱う手つきは丁寧だった。装着部分を確かめ、俺の身体に負担がかからないよう、何度も細かな調整を繰り返してくれる。
「痛くない?」
「平気だよ」
「きつくない?」
「大丈夫」
「少しでも違和感があったら言ってね。無理して我慢するのは禁止だから」
「分かったって」
俺が笑うと、タニアは少しだけ不満そうに眉を寄せた。
「……本当に分かってるのかなあ」
それでも最後には、ほっとしたように息を吐いた。
歩行練習の場所は、街外れの訓練場だった。
海に面した広い砂地で、普段は冒険者たちが体力づくりや基礎訓練に使っているらしい。潮風が吹き抜け、波の音が聞こえる。空はよく晴れていて、歩行練習を始めるにはちょうどいい日だった。
俺は訓練場の椅子に腰掛け、装着した右脚の義足を見下ろした。金属製の膝関節が、陽光を受けて鈍く光っている。
「へえ……。こうして見ると、本当にすごいな」
「でしょ? 魔力回路の調整には苦労したんだから。特に膝の部分は、歩行時の衝撃を逃がしながら、次の動作に必要な力を伝えなきゃいけなくてね。最初の試作品なんて、ちょっと負荷をかけただけで魔力が逆流しちゃって――」
「タニアが頑張って作ってくれたんだな。ありがとな」
「……え?」
タニアが目を丸くした。
「いや、だって、俺のために作ってくれたんだろ?」
「そ、それはそうだけど……」
彼女は視線を逸らし、紫色の髪を指先でいじった。
「別に、お礼を言われるようなことじゃないよ。あたしが作りたかったから作っただけだし」
「そっか。でも、助かるよ」
「……うん」
タニアは小さく頷いた。それから、俺の左側に立って杖を構える。
「じゃあ、始めようか。最初は義足に体重をかける練習からね。右脚に体重を移したとき、魔力回路がちゃんと反応するか確認するよ」
「おう」
「焦らないでね。あたしが支えるから」
俺は椅子の肘掛けに左手を置き、ゆっくりと腰を浮かせた。右脚の義足が地面に触れる。体重をかけると、膝の魔法陣が淡く光った。義足がわずかに沈み込み、俺の身体を支える。
「おおっ」
「どう? 痛みはない?」
「ないよ。ちゃんと支えてくれてる」
「よかった……」
タニアの肩から力が抜けた。俺は左脚にも力を込め、ゆっくりと立ち上がる。少しふらついたものの、転ぶことはなかった。
「立てたぞ」
「うん。立てたね」
タニアが笑った。俺も笑い返した。たったそれだけのことなのに、胸の奥が熱くなった。右脚を失ってから、こうして自分の身体でちゃんと立つことはできなかった。誰かに支えてもらわなければ、ベッドから起き上がることさえ難しかった。
それが今、義足の補助を借りながらとはいえ、自分の力で立っている。
「よし。次は一歩だな」
「うん。でも、本当にゆっくりね」
タニアは俺の左手を支えた。俺は義足に意識を集中させ、右脚を前へ動かそうとする。魔力回路が反応し、膝の関節が滑らかに動いた。義足の足先が地面から離れる。
そして右脚が前へ出た。
「……おお」
思わず声が漏れた。続いて左脚を前に出す。身体が少し揺れたが、タニアがすぐに支えてくれた。
「そうそう。いい感じだよ。重心を少しだけ左に。うん、そのまま」
俺は慎重に足を運んだ。もう一歩。さらに一歩。義足の補助を借りながらではあるけれど、自分の意思で前へ進めた。
「歩けた」
「うん。歩けたね」
「ははっ、やったな。俺、ちゃんと歩けたぞ」
「うん。ちゃんと歩けたよ」
タニアは笑っていた。けれど、その目には薄く涙が浮かんでいた。
「おいおい、どうしたんだよ。そんなに感動することか?」
「……するよ」
彼女は杖を握りしめた。
「だって、ローウェルが……また、自分の足で歩いてるんだもん」
最後のほうは、少しだけ声が震えていた。俺は困ったように笑った。
「まだ、ほんの数歩だけどな」
「それでもだよ」
タニアは目元を拭い、もう一度笑った。
「すごいよ、ローウェル。すごく、すごいことなんだから」
「そっか。じゃあ、もっと頑張らないとな」
「……うん」
タニアは頷いた。それから俺の右脚へ視線を落とし、義足の魔力回路が正常に動いていることを確かめた。その手つきは、さっきよりもずっと慎重だった。
練習は順調だった。
最初は一歩進むだけでも苦労したが、何度か繰り返すうちに義足の動かし方が分かってきた。魔力回路が重心移動を補助してくれるおかげで、少しずつ前へ進めるようになったのだ。
「おお、今の見たか?」
「見たよ。重心移動も安定してきたね。すごいよ、ローウェル」
「へへっ、もっと褒めてくれていいぞ」
「ふふ。調子に乗るのはまだ早いかな」
タニアは笑いながら、義足の魔力回路を確認した。
「でも、想定より早いね。筋力の残存量と適応速度を考えると、もう少し時間がかかると思ってたんだけど……」
「よく分からないけど、いいことなんだよな?」
「うん。すごくいいことだよ」
「よっしゃ」
自分の意思で前に進む。それが、こんなに嬉しいことだったなんて。
「なあ、タニア」
「何?」
「これ、もうちょっと練習したら、走れるようになるかな?」
タニアの顔から笑顔が消えた。
「……走る?」
「そう。冒険者に戻るなら、走れたほうが便利だろ?」
「駄目」
返事は即座だった。
「え?」
「今は駄目だよ。まだ歩行練習を始めたばかりなんだから。走るのは、義足の操作と平衡感覚が十分に安定してから。それに、転倒した場合の危険性が――」
「そっか。じゃあ、もう少し歩く練習だな」
俺は素直に頷いた。タニアは言葉を止めた。反論されると思っていたのだろう。
「……うん。そうだよ。もう少し歩こうね」
彼女は俺の左手を支え直した。その指に、ほんの少し力がこもる。俺が一瞬でも離れてしまうことを恐れているみたいに。
「でも、冒険者に戻れる日も近そうだな」
俺は右脚の義足を見下ろしながら、笑った。
「七年間も離れていた仲間たちと、また一緒に冒険ができるって考えるだけで、これからの毎日が楽しみだ」
自然と笑みがこぼれた。
ようやく、またみんなと同じ場所に立てる。
失ったものは多い。右脚だって、もう元には戻らない。それでも、こうして前に進めるようになった。義足を作ってくれたタニアには、いくら感謝してもしきれない。
「タニアも、また一緒に冒険しような」
そう言って、俺は彼女を振り返った。返事はなかった。
「……タニア?」
俯いた彼女の肩が、小さく震えていた。その手に握られた杖が、かたかたと音を立てる。
「……ごめんなさい」
かすれた声が聞こえた。次の瞬間、タニアの頬から涙が落ちた。それだけでは止まらなかった。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい……!」
彼女は顔を覆った。指の隙間から、いくつもの涙がこぼれ落ちていく。
「タニア、どうしたんだ?」
俺が近づこうとした瞬間、タニアはその場に崩れ落ちた。膝を地面につき、杖を取り落とす。それでも、泣き声は止まらなかった。
「ごめんなさいっ……! ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
声が裏返る。息を吸おうとしても、嗚咽に遮られてうまく吸えない。肩が大きく上下し、喉の奥から押し殺しきれない泣き声が漏れ続ける。
「ごめんね……っ、ローウェル、ごめんねぇ……!」
とうとう、タニアは声を上げて泣き出した。子供のように。何もかも堪えきれなくなったように。
「うっ……あ、ああっ……ごめんなさい……っ! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
顔を覆う両手は震え、指先から雫が滴り落ちる。しゃくり上げるたびに呼吸が乱れ、言葉にならない声が口からこぼれた。
「タニア……?」
俺は慌てて隣にしゃがみ込んだ。背中に手を伸ばすと、タニアはびくりと震えた。それから、何かにすがるように、俺の服の裾を掴んだ。
「ごめんなさい……っ、あたし、ごめんなさい……!」
「どうしたんだよ。なあ、タニア。お前が謝ることなんて、なにひとつないだろ」
問いかけても、彼女は答えなかった。答えられないのかもしれなかった。ただ首を横に振り、何度も何度も謝り続ける。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」
最後には、謝罪の言葉さえ途切れ途切れになった。嗚咽で声が潰れ、息をするのも苦しそうだった。それでも彼女は泣くことを止められない。俺は戸惑いながら、彼女の背中をそっと撫でた。タニアは、俺のために義足を作ってくれた。何度も調整して、歩く練習にも付き合ってくれた。俺が再び冒険者になれるように、ずっと力を尽くしてくれていた。
そんな彼女が、どうしてこんなにも泣いているんだろう。
俺には分からなかった。けれど、タニアの手が俺の服を握り潰さんばかりに強く掴んでいるのを見て、今は何も聞かないほうがいい気がした。
「……大丈夫だ。俺はここにいるから」
そう声をかけた途端。
「っ、うああああ……っ!」
タニアの泣き声が、いっそう大きくなった。まるで、もう耐えられないとでもいうように。
「ごめんなさいっ……! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
俺の服を握りしめたまま、タニアは何度も頭を下げた。涙が地面を濡らしていく。しゃくり上げる音も、震える呼吸も、いつまでも止まらない。
「タニア……」
俺は彼女の名前を呼びながら、その背中を撫で続けた。
理由は分からない。
何を謝っているのかも、どうしてこんなに苦しそうなのかも、俺には何ひとつ分からなかった。
「……ごめんなさい……っ。ローウェル……ごめん、なさい……」
か細くなった声で、それでもなお謝りながら。まるで、どれだけ謝っても許されないと信じているかのように。俺の服を握りしめた手だけは、最後まで離れなかった。




