第7話 もう間違えない(聖女・リネット③)
もう二度と、間違えたくない。
リネットは、治療台の上に置かれた人形を見つめながら、何度もそう考えていた。
傷の位置を確かめ、出血の程度を見極め、どの治癒魔法を使うべきか判断する。ひとつひとつの手順に間違いはない。これまで何度も繰り返してきた訓練だ。目を閉じていてもできるほど、身体に染みついている。
それでも、彼女は手を止められなかった。
まだ足りない。
もっと速く。もっと正確に。もっと多くのことを知らなければならない。
そうしなければ、また失ってしまう。
リネットには、妹がいた。
自分より三つ年下の、身体の弱い妹だった。生まれつき病弱で、幼い頃から何度も寝込んでいた。外で遊ぶことも、遠くへ出かけることも、ほかの子どもたちほど自由にはできなかった。
それでも、妹はよく笑う子だった。
窓辺に腰かけて庭を眺めながら、姉が帰ってくるのを待っている。リネットが部屋に入ると、嬉しそうに顔を輝かせて、今日あったことを聞きたがった。
リネットも、妹と過ごす時間が好きだった。自分が本を読んであげれば、妹は目を輝かせて続きをせがんだ。花を摘んで持ち帰れば、まるで宝物でも受け取ったかのように喜んでくれた。けれど、妹が苦しそうに咳き込むたび、リネットは何もできなかった。
両親がヒーラーを呼び、薬を飲ませ、安静にさせる。
自分にも何かできないかと、幼いリネットは何度も治癒魔法を試した。小さな傷なら治せた。擦りむいた膝も、指先の切り傷も、魔力を込めれば元どおりになった。なのに、妹の病気は治せなかった。どれだけ魔力を込めても、どれだけ祈っても、妹は苦しそうに息をするばかりだった。
「お姉ちゃん……」
ある夜、妹が弱々しい声で呼んだ。
「なあに?」
「私、いつになったら元気になれるの?」
リネットは答えられなかった。
治癒魔法を使えば、何でも治せると思っていた。自分の力で妹を元気にしてあげられると、信じていた。けれど、目の前にいる妹は苦しんでいる。
自分には、何もできない。
「……大丈夫。きっと、よくなるから」
結局、リネットはそう答えた。妹を安心させたかった。自分自身も、そう信じたかった。しかし、その言葉は何の力にもならなかった。妹の病状は、少しずつ悪化していった。
そして、ある冬の日。
妹は帰らぬ人となった。最期まで、リネットは妹の手を握っていた。冷たくなっていく小さな手を、両手で包み込んでいた。
どうして。どうして、治せなかったのだろう。
もっと勉強していれば。もっと早く異変に気づいていれば。もっと優れた治癒魔法を使えたなら、妹はまだ生きていたのではないだろうか。
答えをくれる人はいなかった。
妹はもう、何も話してくれない。いつものように笑ってくれることも、姉の帰りを待っていてくれることもない。自分がどれだけ後悔しても、どれだけ泣いても、失った命は戻らなかった。
その日から、リネットは本気で治癒術師を目指すようになった。
もう二度と、救えない命を前にして立ち尽くしたくなかった。自分の無知を理由に、誰かを失いたくなかった。治癒魔法の本を読み漁り、人体の構造を学び、症例をひとつ残らず頭に叩き込んだ。理解できないことがあれば、理解できるまで調べた。教えを請い、失敗を記録し、同じ間違いを二度と繰り返さないよう努めた。
治癒術師として人を救うためなら、努力を惜しまなかった。
やがて、リネットは聖女と呼ばれるまでになった。
重傷者を救い、毒を浄化し、普通の治癒術師には扱えないような傷さえ癒やせるようになった。
人々は彼女を称賛した。優秀な治癒術師だと。素晴らしい才能の持ち主だと。多くの命を救ってきた聖女だと。
その言葉を聞くたびに、リネットは思った。
もっと、救わなければ。
もっと学ばなければ。
妹を救えなかった自分が、ひとりでも多くの命を救うためには。
そうしなければ、あの日の自分を許すことなどできなかった。
冒険者として活動するようになってから、リネットは初めて、自分の判断が誰かの命を左右するという現実を身近に感じるようになった。
治療室で患者を診るのと、魔物が徘徊する危険な場所で仲間を治療するのとでは、勝手が違う。
敵が迫っている。視界が悪い。負傷者の状態を確かめる時間さえ惜しい。それでも、判断を誤るわけにはいかなかった。
そんな彼女に、ローウェルは言った。
「リネットの判断なら、俺は信じるぞ」
初めてその言葉を聞いたとき、リネットは戸惑った。
「……本当に、よろしいのですか?」
「ん? なんでだ?」
「私の判断が、必ず正しいとは限りません。間違っている可能性だってあります」
「そりゃそうだろ」
ローウェルは、あっさりと頷いた。
「俺だって間違えるし、誰でも間違えることはあるだろ。でも、俺は信じるぞ」
「……もし、その判断で誰かが怪我をしたら?」
「そんときは、みんなで助ければいいじゃん」
あまりにも簡単に、彼は言った。リネットは、返す言葉を見つけられなかった。妹を失って以来、彼女は間違いを恐れていた。
間違えれば、誰かを失う。
正しい知識を持たなければ。正しい判断をしなければ。自分の未熟さによって、二度と誰かを苦しめてはならない。ずっと、そう考えてきた。なのに、ローウェルは間違えることそのものを否定しなかった。
間違えたなら、そのあとでできることをすればいい。失敗を恐れて立ち止まるのではなく、仲間と一緒に前へ進めばいい。
そんな考え方があることを、リネットは知らなかった。
彼の言葉を聞いて、すぐに考え方を変えられたわけではない。それでも、ローウェルは何度も彼女の判断を信じてくれた。彼女が指示を出せば、迷わず動いてくれた。危険を察知すれば、仲間を守るために前へ出た。治療が必要になれば、リネットの言葉に従って傷を見せた。
その信頼に応えたくて、リネットもまた必死に努力した。彼の信頼に値する人間になりたかった。彼に任せてもらえることが、嬉しかった。
いつしかリネットは、ローウェルの背中を見ているときだけ、ほんの少しだけ自分を信じられるようになっていた。
この人が信じてくれるのなら、自分の判断にも意味があるのかもしれない。自分は、誰かを救える人間になれたのかもしれない。そう思えるようになった。
妹を失ってから、初めてだった。
治癒術師としての自分を、心の底から肯定できたのは。
だからこそ、あの日の失敗は、リネットにとって耐え難いものだった。
危険な場所へ進む前に、彼女は周囲の状況を調べた。地形を確認し、魔物の痕跡を探し、得られた情報を照らし合わせた。
危険はない。そう判断した。
仲間たちにも、その判断を伝えた。自分の知識と経験を信じていた。これまで学んできたことを踏まえれば、間違ってはいないはずだった。
けれど、彼女は見落としていた。自分の知らない危険が、まだ残っていたことを。
異変が起きたときには、もう遅かった。状況が崩れ、仲間たちが危険にさらされた。
ローウェルは、仲間を守るために動いた。いつものように、迷わず。彼は仲間たちを逃がすために敵の前へ立ち、そのまま捕らわれた。
「ローウェルっ!」
叫んだ声は、届かなかった。
その結果、ローウェルは7年もの間拷問を受けて帰ってこなかった。
どこにいるのかもわからない。
生きているのかもわからない。
助けに行こうにも、手がかりがなかった。それでも行った末に、敵国の兵に阻まれた。
リネットは、何度も自分の判断を振り返った。あのとき、別の判断をしていれば。もっと慎重に調べていれば。危険がある可能性を少しでも考慮していれば、ローウェルは捕らわれずに済んだのではないか。
いくら考えても、彼が戻ってくることはなかった。
七年が過ぎて再会した彼は、以前とは違う姿になっていた。右腕がない。右脚がない。右目がなく、右耳も失われている。身体に残された傷が、彼の過ごした時間を物語っていた。
七年間。自分たちが彼の居場所さえわからず、助けることもできずにいたあいだ、彼はひとりで苦しんでいた。その時間を、リネットは取り戻せない。彼がどんな痛みを味わったのか、何度助けを求めたのか、どれほどの絶望を経験したのか。
それでもローウェルは笑っていた。自分が傷ついたことなど大した問題ではないとでもいうように。
彼は、再会できたことを喜んでいる。仲間たちが無事だったことを喜んでいる。自分がこれほど傷ついているというのに。彼は何も求めない。自分が失ったものを嘆くことさえせず、再び仲間と話せることを喜んでいる。
その姿を見るたびに、リネットは思い知らされる。彼が助けを必要としていたとき、自分は何もできなかった。そして今も、彼の失った身体を取り戻す方法を見つけられずにいる。
妹を失ったときと、何も変わっていない。
大切な人を救いたいと願い、そのために努力してきた。それなのに、いざというときに救えなかった。自分は、何ひとつ変われていなかったのだ。
その事実が、リネットの胸を深く抉っていた。
彼が自分の身体を大切にできないのなら、私が代わりに大切にしてあげればいい。
彼が自分の命を軽く扱うのなら、私がその重さを教えてあげればいい。
そうすれば、もう二度と、彼を失わずに済む。そう考えることが、いつしかリネットにとって唯一の支えになっていた。
ローウェルが、私にすべてを委ねてくれるようになればいい。
彼の食事も、休息も、訓練も。彼が何をするのか、どこへ行くのか、どんな危険に身を投じようとしているのか。すべて、私が把握していればいい。
次は間違えない。
彼が何を望もうと。彼がどれほど自分は大丈夫だと言い張ろうと。
「……ローウェル」
リネットは、眠っている彼の手をそっと握った。
かつて、妹の手を握っていたときと同じように。あのときは、何もできなかった。どれほど願っても、妹の命を救うことはできなかった。
けれど、今度は違う。ローウェルは、まだここにいる。自分の手が届くところにいる。だから、今度こそ守りたい。失ったものを取り戻したい。そして、二度と彼を失いたくない。
「……私が、守りますからね」
眠っている彼に、リネットは微笑みかけた。
「これからは、私が全部管理してあげますから」
「……今日も、聖女様のところへ行くんですか?」
冒険者ギルドの治療室で、少年は同僚に尋ねられた。
「べ、別にいいだろ。治癒魔法について教わりに行くだけだ」
「まだ何も言ってませんけど」
「……勉強熱心なのは、いいことだろ」
少年は、むっとした顔でそっぽを向いた。リネットのことが気になっている。それは、認めてもいい。彼女は優秀な治癒術師だし、教え方も丁寧だ。困っている人を放っておけないところも、患者に向ける優しい笑顔も、素敵だと思う。
だが、それだけだ。尊敬しているだけで、別に恋をしているわけではない。
そう自分に言い聞かせながら、少年は治療室を出た。
廊下の向こうに、リネットの姿が見えた。
「あ……」
声をかけようとして、足が止まった。
彼女は、ベッドに横たわる青年のそばにいた。青年には、右腕も右脚もなかった。右目と右耳も失われている。七年間、行方不明になっていた冒険者。
リネットがずっと探し続けていた、大切な仲間。
少年は、ギルドで聞いた話を思い出した。
彼女がどれほど彼の帰還を願っていたのか。再会した彼がどれほどの傷を負っていたのか。そして、彼女が今もなお、彼を救うために奔走していることを。
リネットは青年の身体を診察しながら、何かを話していた。
青年が笑う。すると、彼女も笑った。
その笑顔を見た瞬間、少年の胸がちくりと痛んだ。自分に向けてくれる笑顔とは、違う。
少年は拳を握りしめた。
別に、彼女が誰と仲良くしていようと、自分には関係ない。彼女にとって、あの青年は大切な人なのだ。七年間も帰りを待ち続けた相手なのだから、当然だろう。
「ローウェル。あーん、してください」
「ん? ああ、あーん!」
差し出されたスプーンに、青年は素直に口を開いた。
「あーん……もぐもぐ。うん! うまい!」
「ふふっ。よかったです」
リネットは嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、もうひと口どうぞ」
「あーん!」
「はい、あーん」
「あーん!」
「……ふふっ。ローウェル、雛鳥みたいですね」
「ひなどり?」
「はい。私が食べさせてあげないと、ご飯を食べられない雛鳥さんです」
「ははっ! 確かにそうだな」
自分が入り込む余地など、最初からない。そんなことは、わかっている。




