第6話 聖女の限界(聖女・リネット②)
少年は、冒険者ギルドの治療室で、悔しそうに拳を握り締めていた。
「くそっ……。もう少し、もう少しだけ魔力があれば……!」
ベッドに横たわっているのは、討伐依頼の最中に重傷を負った冒険者だった。
左脚の骨は砕け、脇腹には深い裂傷がある。仲間に運び込まれたときには意識もなく、今はどうにか一命を取り留めているものの、容態は決して楽観できるものではなかった。
少年はヒーラーだった。
冒険者として活動する傍ら、治癒魔法を学び、負傷者の治療を手伝っている。まだ経験は浅いが、同年代の中では優秀な方だと自負していた。
実際、これまで何人もの冒険者を救ってきた。
擦り傷を塞ぎ、骨折を治し、毒に侵された身体から毒素を取り除く。治療を終えた冒険者たちから感謝されるたび、自分の力が誰かの役に立っているのだと実感できた。
だからこそ、今回も救えると思っていた。
だが、現実は違った。
「……ヒール」
両手に魔力を集め、傷口へと注ぎ込む。
淡い光が冒険者の身体を包み込んだ。裂けた皮膚が少しずつ塞がっていく。出血も止まり、乱れていた呼吸がわずかに落ち着いた。
しかし、それだけだった。
砕けた骨は元に戻らない。失われた血液も、すぐに補えるわけではない。何より、少年自身の魔力が限界に近づいていた。
「はぁっ……はぁっ……」
額から汗が流れ落ちる。
もう一度、治癒魔法を使うべきか。
けれど、ここで魔力を使い果たせば、自分が倒れてしまう。そうなれば、ほかの負傷者を治療できなくなるかもしれない。
頭では理解していた。
ヒーラーは、目の前の一人だけを見ていればいいわけではない。限られた魔力を管理し、治療の優先順位を考えなければならない。
それでも。
「頼むよ……。目を覚ましてくれよ……!」
少年は、ベッドの上の冒険者に語りかけた。
返事はない。自分の力が足りない。その事実が、どうしようもなく悔しかった。
もっと魔法を勉強していれば。
もっと効率よく魔力を使えるようになっていれば。
もっと強力な治癒魔法を習得していれば。
この人を救えたかもしれないのに。
「……私が代わります」
不意に、背後から声がした。
少年が振り返る。
そこに立っていたのは、白い聖女服をまとった金髪の少女だった。
「えっ……聖女様?」
「患者さんの状態を確認させてください」
リネットは、少年の返事を待つことなくベッドの脇へ進んだ。
けれど、その動作に乱暴さはなかった。まず患者の呼吸を確かめ、脈を取り、傷口の状態を丁寧に確認する。
少年は思わず息を呑んだ。
診察の手際がいい。しかも、ただ傷を見ているだけではない。魔力の流れを探るように指先を動かし、身体の内側で何が起きているのかを確かめている。
「出血は止まっていますね。ですが、骨の損傷がひどい……。内臓にも負担がかかっています」
「お、俺も治療したんです。でも、これ以上は……」
「十分です。ここまで容態を安定させてくださって、ありがとうございます」
「え……?」
責められると思っていた。
自分の力が足りなかったことを、叱られると思っていた。
けれど、リネットは少年を責めなかった。彼女は静かに微笑み、それから患者へ視線を戻した。
「ここからは私が引き継ぎます」
リネットが両手をかざす。
白い光が、室内を満たした。
少年は目を見開いた。魔力の密度が違う。先ほどまで自分が使っていた治癒魔法とは、まるで別物だった。
傷口を塞ぐだけではない。乱れた魔力の流れを整え、損傷した組織を修復し、砕けた骨を少しずつ本来の形へと戻していく。
その一つ一つを、リネットは迷いなく行っていた。
患者の容態が、目に見えて改善していく。呼吸は穏やかになり、苦しげに歪んでいた顔から力が抜けた。
やがて、リネットは静かに息を吐いた。
「……これで、ひとまず大丈夫です。まだ安静は必要ですが、命に別状はありません」
「す、すげえ……」
少年は、思わず呟いていた。
同じ治癒魔法を扱う者として、わかってしまう。
リネットが行った治療は、単に魔力量が多いからできたものではない。
患者の状態を正確に把握し、必要な治療を選び、魔力を無駄なく注ぎ込んでいた。どれか一つでも欠けていれば、同じ結果にはならなかっただろう。
これが聖女。
人々を癒やし、救うために選ばれた者。少年は、自分がどれほど未熟だったのかを思い知らされた。
「……聖女様って、やっぱりすごいんですね」
思わず口にすると、リネットは少し困ったように笑った。
「いいえ。私も、まだまだです」
「いやいや! あんな治癒魔法、俺には絶対に使えませんよ!」
「そうでしょうか……」
リネットは、なぜか素直に喜ばなかった。
むしろ、視線を落とし、考え込むように黙り込んでしまった。
少年は不思議に思ったが、すぐに別の冒険者が運び込まれてきたため、そちらへ意識を向けることになった。
幸い、その冒険者は軽傷だった。
少年は今度こそ自分の力で治療を終え、ほっと胸を撫で下ろす。
その間にも、リネットは別の患者を診察し、必要な処置を施していた。
その姿を見ていると、自然と背筋が伸びる。自分も、あんなふうになりたい。どんな傷を負った人が運ばれてきても、慌てず、正確に判断し、救える命を救う。
それがヒーラーとしての理想だった。
だが、少年は知らなかった。
目の前の聖女が、決して自分の力に満足していないことを。
そして、彼女が本当に救いたいと願っている相手には、その優れた治癒魔法でさえ届かないことを。
――どうして、治せないのでしょう。
リネットは、治療室の片隅で、自分の両手を見つめていた。つい先ほどまで、重傷を負った冒険者を治療していた手。何度も魔法を使い、傷を塞ぎ、骨を修復し、命を救ってきた手。聖女として、多くの人々に感謝されてきた手だった。
それなのに。
「……ローウェルさん」
口にした名前が、胸の奥に沈んでいく。
脳裏に浮かぶのは、ベッドに横たわる彼の姿だった。
失われた右腕。
失われた右脚。
右目と右耳も、以前と同じ状態には戻らないかもしれない。
彼は笑っていた。
左が残っているから大丈夫だと。足りないものは、これから鍛えればいいのだと。自分が失ったものなど大したことではないかのように。
――どうして、あんなふうに笑えるのですか。
責めたいわけではなかった。
むしろ、彼の前向きな言葉には救われていた。
ローウェルは、誰かを責めたりしない。自分の身体がどれほど傷ついていても、帰ってこられたことを喜び、仲間たちが無事だったことを喜ぶ。
彼にとっては、それが本心なのだろう。
だからこそ、苦しかった。彼が失ったものを、彼自身が諦めているわけではない。ただ、失ったことを嘆くより、今あるもので前に進もうとしているだけだ。
ならば自分まで、諦めてしまっていいはずがない。
「……もっと、技術を磨かなければ」
リネットは、そっと両手を握り締めた。
治癒魔法には限界がある。
失われた組織を修復することと、失われた身体そのものを取り戻すことは違う。傷を塞ぎ、命を繋ぎ、身体の機能を回復させることができても、すべてを元通りにできるとは限らない。
今の自分には、ローウェルの右腕も、右脚も、右目も、右耳も取り戻せない。
それが現実だった。
聖女と呼ばれるほどの力を持っていても、彼のためにできることには限りがある。
けれど……。
「まだ、方法が見つかっていないだけかもしれません……」
失われた身体を再生する魔法。
欠損した部位を補う古代の術式。
現代では失われたとされる治癒技術。
古い文献を調べれば、何か手がかりが見つかるかもしれない。これまで知られていなかった魔法の理論を研究すれば、新しい可能性が生まれるかもしれない。
もちろん、確証はない。成功する保証もない。それでも、何もしないまま諦めることだけはできなかった。
ローウェルは、七年間も苦しんだ。
それなのに、ようやく帰ってきた彼に、これからも不自由を受け入れて生きてくださいと告げるだけでいいのだろうか。
彼が笑っているから。彼が前を向いているから。それを理由に、自分まで何もせずにいていいのだろうか。
「……いいえ」
リネットは、顔を上げた。
「私は、まだ何もしていません」
彼が戻ってきたとき、自分は何をしただろう。
泣いて、謝って、彼の優しさに甘えて、苦しい気持ちをぶつけてしまっただけ。
食事を用意することも、傷の経過を確認することも、彼が回復するまで支えることも、もちろん大切だ。
しかし、それだけで満足してはいけない。
彼が失ったものを取り戻す可能性があるのなら、その可能性を探すのも自分の役目ではないのか。
「どこかに答えがあるはず……」
声に出すと、胸の中で決意が形になった。
今よりも多くの知識を得る。
今よりも高度な魔法を習得する。
古代の治癒術について調べ、失われた術式を研究する。
聖女という立場に甘んじず、使える時間をすべて使ってでも、彼のためにできることを探す。
ローウェルが、いつか以前のように笑って暮らせるように。
彼が失ったものを、もう一度その手に取り戻せるように。
たとえ、その道がどれほど険しくても。
「……今度こそ、私が」
言いかけて、リネットは口を閉じた。
今度こそ。
その言葉を口にする資格が、自分にあるのだろうか。
七年前、彼を守れなかった。彼が苦しんでいる間、自分は彼の居場所さえ知らなかった。そして今も、彼の身体を元通りにする方法を知らない。それなのに、今度こそ守るなどと、簡単に口にしていいのだろうか。
「……いいえ。だからこそ、です」
できないのなら、できるようになればいい。知らないのなら、知ればいい。今の自分に足りないものがあるのなら、それを埋めるために努力すればいい。ローウェルがそうしてきたように。
彼は、失ったものを嘆くよりも、残されたものを使って前へ進もうとしている。ならば、自分もそうするべきだった。彼の左腕が残っているのなら、その左腕でできることを増やしていく彼を支えよう。彼の身体を元に戻す方法があるのなら、何としてでも探し出そう。
そして、もしも今の自分には届かない場所にその答えがあるのなら。届くところまで、自分の力を伸ばせばいい。
「……待っていてくださいね、ローウェルさん」
リネットは、小さく微笑んだ。
「私、頑張りますから」
その言葉は、誰に聞かせるためのものでもなかった。
ただ、彼のために。彼がこれ以上、何かを諦めなくてもいいように。彼が自分の身体を大切にしながら、安心して笑っていられるように。
もっと学ぼう。
もっと強くなろう。
そして、いつか彼が失ったものを取り戻す方法を必ず見つけよう。
そう決意したリネットは、治療室を後にした。
向かう先は、療養所にあるローウェルの部屋。
彼はきっと、今日も笑っているのだろう。早く元気になりたいと、リハビリのことでも考えているのだろう。
だからこそ、彼の身体を守らなければならない。
彼が無理をしないように。
彼が自分を粗末に扱わないように。
そして、いつか彼に、もう一度伝えられるように。
――あなたのために、できることが見つかりました、と。
リネットは歩みを速めた。その胸の内にある決意が、やがて彼女自身をどこまで追い詰めていくことになるのか。
今の彼女には、まだわからなかった。




