第5話 優しくしないで(聖女・リネット①)
「ローウェルさん」
誰かが、俺の名前を呼んでいた。
「ごめんなさい……」
聞き慣れた声だった。
けれど、いつもと違う。
普段のリネットは、こんなふうに声を震わせたりしない。どんな状況でも落ち着いていて、必要な情報を整理し、最善の判断を下す。俺たちのパーティーで、そういう役割を担ってきたのが彼女だった。
だからこそ、気になった。俺は重たいまぶたを、ゆっくりと持ち上げる。
薄暗い部屋。薬草の匂い。窓から差し込む月明かり。
そして、ベッドの脇に座り込んでいる金髪の少女。
「……リネット?」
「――っ!」
彼女が弾かれたように顔を上げた。
青い瞳が、驚きに見開かれる。その頬には涙が伝っていた。
「ローウェルさん……? 目が覚めたんですか?」
「おう。なんか、すっげえ眠ってた気がするな!」
「体調はどうですか……! どこか痛い所があればすぐに――」
「ちょっと待てって!」
起き上がろうとしたリネットの手を、俺は反射的に掴もうとした。
けれど、右腕はない。肩が空を切るだけだった。
「あっ……」
リネットの顔から、さっと血の気が引いた。
しまった。そんな顔をさせるつもりじゃなかったんだけどな。
「……ごめんなさい」
「なんでお前が謝るんだ? なんも悪くねえだろ」
リネットは俺の肩を見つめたまま、動かなくなっていた。何かを言おうとしているのか、唇がかすかに震えている。
「ごめんなさい……っ。ごめんなさい……ごめんなさい……!」
彼女は俺の右肩を見つめたまま、涙をこぼし続けている。
「私たちが……、もっと早くあなたを見つけていれば……」
リネットは何も悪くない。俺が捕まったのも、七年間も帰ってこられなかったのも、全部俺の力不足が原因だ。それなのに、どうして彼女が謝るんだろう。
「もっと早く治療できていれば……。あなたは、こんな姿にならずに済んだかもしれないのに……」
「まあ、そもそも、俺が捕まったのが原因なんだし! それに、こうして生きて帰ってこられたんだから、結果オーライだ!」
「結果……オーライ……?」
リネットが顔を上げた。青い瞳から、また涙がこぼれる。
なんかまずいこと言った?
「あなたは……、本当にそれでいいんですか……?」
「おう!」
「右腕を失って……右脚も、右目も、右耳も……以前と同じようには戻らないかもしれないんですよ……?」
「ちょっと不便ではあるな」
「ちょっとって……」
リネットの声がかすれた。
俺は首を傾げる。
「でも、左腕は残ってるし! 左手でできることを増やせばいいだろ? 足りない分は、これから鍛えればいい!」
「…………」
「それより、みんなが健康に七年生きてたことの方が俺は番嬉しいぞ!」
俺が笑うと、リネットは唇をぎゅっと噛んだ。泣くのを必死に堪えているみたいだった。
「……違います」
「ん?」
「そういうことを聞いているんじゃないんです……!」
リネットの声が大きくなった。彼女自身も驚いたのか、目を見開く。けれど、一度あふれた感情は止まらなかった。
「どうして、自分のことをそんなに簡単に諦められるんですか! どうして、失ったものを悲しいとも、悔しいとも思わないんですか! どうして……私たちが、あなたを救えなかったことを……そんなに簡単に許せるんですか……!」
最後の言葉は、ほとんど泣き声だった。
俺は困ってしまった。
別に、諦めたつもりなんてない。これからできることを探せばいいだけだ。
それに、リネットたちは俺を見捨てたわけじゃない。こうして助けてくれた。今だって、俺のことを心配してくれている。
それなのに、どうしてそんなに苦しそうなんだろう。
「……リネット」
「……はい」
「俺、拷問受けてるとき、もう死ぬかもって思ったんだよ。だから、またみんなに会えるなんて思ってなくてさ。こうしてリネットと話せるだけでも、すっげえ嬉しいんだ!」
「……っ」
「だから、そんなに泣かないでくれよ。俺は大丈夫だから!」
リネットは何も答えなかった。ただ、俺の左手を両手で包み込む。彼女は俺の手を額に押し当てた。
「お願いです……。これ以上、私に優しくしないでください……」
その言葉の意味は、俺にはよく分からなかった。俺はただ、リネットに笑ってほしかったんだが。
リネットは立ち上がった。そのまま何も言わず、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
俺は天井を見上げた。
……うーん。とりあえず、寝るか。
また明日、リネットには謝っておこう。そう思いながら、俺は再び眠りに落ちた。
「ローウェルさん。朝ですよ」
翌朝。目を覚ました俺を待っていたのは、昨日と同じ白い聖女服だった。
リネットは椅子に座り、手元の記録帳を閉じた。目元は赤い。けれど、表情はいつもの落ち着いたものに戻っている。
「おはよう、リネット!」
「おはようございます。気分はいかがですか? 頭痛、吐き気、眩暈はありませんか。痛みがある場所は?」
「うーん、特にないぞ!」
「曖昧な回答では困ります。ひとつずつ確認しますので、正確に答えてください」
「お、おう!」
なんだか、いつもより厳しい。
リネットは俺の脈を取り、瞳の反応を確認し、呼吸の状態を調べた。
その手つきは正確で、無駄がない。いつものリネットだ。
「リネット?」
「何でしょうか」
「昨日はなんか、ごめんな」
「何がですか? ローウェルが謝ることなんて何もないですよ」
即答だった。
「そっか。ならいいんだ」
良かった。
「あなたの身体は、まだ安定したとは言い切れません。傷口の状態も経過観察が必要ですし、魔力の循環にも乱れが残っています。現時点で無理な運動は厳禁です。ベッドから起き上がることも、私の許可なく行わないでください」
「えっ、起き上がるのも駄目なのか?」
「駄目です」
「じゃあ、腕立て伏せは?」
「論外です」
青い瞳が、まっすぐ俺を射抜いた。
「冗談でも、そういうことをおっしゃらないでください」
冗談じゃないんだけどなあ。リネットは小さく息を吐き、濡らした布で俺の顔を拭いてくれた。
「お食事もこちらで用意します。必要なものがあれば、私を呼んでください」
「いやいや、そこまでしてもらう必要ないって! 俺もできることは自分で――」
「では、何をなさるおつもりですか?」
「え?」
「今のあなたにできることを、具体的におっしゃってください」
……ええと。
俺は考えた。
片腕と片足がない。右目も右耳も失っている。傷がしっかり塞がるまで、身体を動かすことも制限されているらしい。
確かに、今できることは少ない。
「……ないな!」
「でしたら、私にお任せください」
リネットは微笑んだ。
穏やかで、優しい笑顔だった。
「あなたがご自身の身体を大切になさるまで、私はお世話を続けます。何か不自由があれば、必ず私を頼ってください。遠慮は不要です」
「いや、でも……」
「必ず、です」
念を押されてしまった。
そこまで言われたら、断るわけにもいかない。
「……分かった! じゃあ頼むな!」
「はい!」
その瞬間、リネットの表情がぱっと明るくなった。さっきまでの張り詰めた雰囲気が、嘘のように消えている。
……なんだろう。頼み事をしただけなのに、ものすごく嬉しそうだ。
「では、お水を持ってきますね。お食事もすぐに用意させます」
「おう! 腹減った!」
リネットは深々と頷くと、足早に部屋を出ていった。
扉が閉まる。俺は天井を見上げた。
「……早く動けるようにならないとな」
みんなに心配をかけている。
シモーヌは泣いていたし、リネットもずっと俺のそばにいてくれている。タニアやロナンだって、きっと気にしているはずだ。
俺が元気になれば、みんなも安心するだろう。
よし。
まずはちゃんと食べて、しっかり寝る!
それからリハビリだ!
……ただ、リネットの許可が出るまでは、腕立て伏せは我慢しておこう。




