第4話 届かない距離(騎士・シモーヌ③)
●騎士・シモーヌ視点
私がローウェルと初めて出会ったのは、10歳の頃だった。
当時の私は、今と同じでやはり強くなりたかった。ただ、誰かを守りたいとか、困っている人を助けたいとか。そんな立派な理由があったわけではない。
ただ、強くなりたかった。
昨日の自分よりも強く。昨日まで勝てなかった相手にも勝てるように。
それだけだった。
だからこそ、あの日の光景は忘れられない。
町の近くにある森を歩いていたとき、私は獣の唸り声を聞いた。
木々の向こうを覗くと、4体のオークがいた。
その中央にいたのは、私と同じくらいの年齢に見える少年だった。白い髪に、粗末な服。手には武器を持っていない。
少年は素手でオークたちと戦っていた。
「はあっ!」
拳がオークの腹にめり込む。
巨体がよろめいた隙に、少年は身をかがめて別のオークの足を蹴り払った。倒れた相手の顔面に拳を叩き込むと、すぐさま残る2体へ向き直る。
動きは速い。力も強い。けれど、戦い方は滅茶苦茶だった。
攻撃を避けるために必要以上に大きく跳び、無駄な動きで体勢を崩す。魔力を身体に巡らせているようだったが、制御がひどく雑で、力を発揮できているのかさえ怪しい。
それでも少年は、笑っていた。
「いいぞ! 今のは惜しかった!」
オークに殴られかけた直後だというのに、まるで遊びの続きを楽しんでいるかのようだった。
私は思わず眉をひそめた。危なっかしい。見ていられなかった。
私は剣を抜き、少年に背を向けていたオークへ駆け寄った。
「隙だらけよ!」
横薙ぎに振るった剣が、オークの胴を打つ。オークは地面に転がり、苦しげな声を上げた。
これで1体。残りは3体。
私は少年の隣に立ち、剣を構えた。
「加勢するわ。あとは一緒に――」
「えっ、なんで倒したんだよ!」
返ってきたのは、感謝でも安堵でもなかった。少年は心底不満そうな顔をしていた。
「は?」
「攻撃を受け流す練習してたんだぞ!」
「……何を言っているの?」
「だから、訓練だよ! せっかくいい相手だったのに!」
私は言葉を失った。目の前にいるのは、4体のオークに襲われている少年ではなかった。4体のオークを相手に、自分の力を試していた少年だった。
しかも、私が助けたせいで訓練を邪魔されたと怒っている。
「……頭がおかしいんじゃないの?」
「そうか? 俺は普通だと思うけどな」
少年は不思議そうに首を傾げた。
その間にも、残ったオークたちが雄叫びを上げて襲いかかってくる。少年は私の横をすり抜けた。
「まあいいや。邪魔が入ったけど、続きだ!」
「ちょっと! まだ3体もいるのよ!」
「だからいいんだろ!」
少年は笑いながら、オークの懐へ飛び込んだ。拳を叩き込み、蹴りを繰り出し、相手の攻撃を紙一重で避ける。やはり動きは滅茶苦茶だった。
魔力を一気に放出したかと思えば、次の瞬間には身体強化が途切れかける。攻撃を当てるために無理な姿勢を取り、避けられるはずの攻撃を受けざるを得ない。
見ているこちらのほうが、何度も悲鳴を上げそうになった。
けれど、少年は倒れなかった。傷を負っても、転んでも、すぐに立ち上がる。
そして、少しずつ動きが速くなっていった。
最初は避けられなかった攻撃を避ける。届かなかった拳が届く。間に合わなかった回避が間に合う。戦いながら身体そのものを書き換えているかのようだった。
「ははっ! 今のはよかった!」
少年の拳が、最後のオークを地面に沈めた。
結局、すべて素手で倒してしまった。
私は呆然と立ち尽くした。
強い。間違いなく強い。けれど、私が本当に驚いたのは、そこではなかった。戦いの始めと終わりで、少年の動きが違っていたのだ。最初は無駄だらけだった動きが、戦いを終える頃には明らかに洗練されていた。
それでも、まだ無駄は多い。魔力の制御もひどい。
つまり、この少年はまだまだ強くなれる。
「……あなた、名前は?」
「ローウェル!」
少年は満面の笑みで答えた。
「君は?」
「シモーヌよ」
「そっか! シモーヌ、さっきは邪魔してくれたな!」
「まだ怒っているの!?」
「そりゃそうだろ! あのオーク、もう少しで攻撃を見切れそうだったんだから!」
私は額を押さえた。
助けた相手に文句を言われるなんて、思ってもいなかった。
けれど、不思議と腹は立たなかった。それよりも、気になって仕方がなかった。どうして、あんなに速くなれたのか。どうして戦いながら強くなっていったのか。私が知りたいのは、それだけだった。
そのとき、森の奥から地響きが聞こえた。木々が揺れ、鳥たちが一斉に飛び立つ。
姿を現したのは、巨大なオーガだった。
オークとは比べものにならない体格。手にした棍棒だけでも、私の身体より大きい。
「……嘘でしょ」
思わず呟いた。
こんな魔物が町の近くにいるなんて。
オーガは私たちを見つけると、雄叫びを上げて突進してきた。
「ローウェル、逃げるわよ!」
「嫌だ!」
即答だった。
「こんなに強そうな相手、逃げるわけないだろ!」
「勝てるわけないでしょう!」
「やってみなきゃ分からない!」
ローウェルはオーガへ駆け出した。
私は慌てて追いかけようとしたが、間に合わなかった。
ローウェルの拳がオーガの腹に叩き込まれる。しかし、オーガはわずかによろめいただけだった。少年の身体が地面を転がった。
直後、巨大な棍棒が振り下ろされた。
「ローウェル!」
オーガの攻撃を避けきれず、ついに地面へ倒れた。身体強化も安定しない中で、さっきまでの笑顔は消え、悔しそうに歯を食いしばっている。
そして動かない。
「ローウェル!」
私は駆け寄ろうとした。だが、その前にローウェルが顔を上げた。
「……くそっ」
悔しそうな声だった。それから、彼はゆっくりと立ち上がった。
「今のじゃ、駄目か」
私は目を疑った。
怖くないのだろうか。あれほど一方的に打ちのめされたというのに、彼の目には恐怖よりも悔しさが強く浮かんでいた。
ローウェルは拳を握り直す。
「もう一回だ」
そして、再びオーガへ向かった。今度は、さっきよりも速かった。オーガの棍棒が空を切る。ローウェルはその懐へ滑り込み、拳を叩き込んだ。
オーガは倒れない。
再び棍棒が振るわれ、ローウェルは吹き飛ばされた。
それでも彼は立ち上がる。
「次!」
また、速くなった。
私は息を呑んだ。さっきまで避けられなかった攻撃を、今度は紙一重で避けている。敗北するたびに少年は速く、強くなる。
目の前の強敵に負けたという事実すら、彼にとっては次に進むための材料でしかないようだった。
私は剣を握りしめた。悔しかった。これほど強い相手を前にして、私は逃げることしか考えられなかった。
なのに、ローウェルは違う。勝てないなら、勝てるようになるまで挑む。速さが足りないなら、速くなる。力が足りないなら、力をつける。ただ、それだけ。
誰かに認められたいわけでも、誰かを救いたいわけでもない。彼は、自分自身が強くなりたいから戦っているのだ。そのあまりにも単純な欲求が、私と重なった。
やがて、ローウェルはオーガの攻撃を完全に見切った。棍棒が振り下ろされる直前に踏み込み、懐へ潜り込む。身体をひねり、全身の力を拳へ集める。
「これで、終わりだ……!」
拳がオーガの顎を打ち抜いた。巨体が大きく傾き、地面へ倒れ込む。
森に、静寂が戻った。
ローウェルは荒い息を吐きながら、自分の拳を見つめていた。
「……よし」
その顔には、ようやく笑みが戻っていた。
「な、大丈夫だったろ!」
私は呆然としていた。オーガに一度負けた少年が、何度も挑み直し、最後には勝ってしまった。最初から勝てるほどの実力があったわけではない。敗北を繰り返しながら、自分の限界を押し広げていったのだ。
「……ローウェル」
「ん?」
「私と一緒に、訓練しない?」
気づけば、そう口にしていた。
ローウェルは目を丸くした。
「いいのか?」
「ええ。ただし、条件があるわ」
「条件?」
「私の訓練を邪魔だなんて言わないこと。それから、無茶をするときは事前に相談すること」
「うーん……、いいよ! でも、強くなるためなら何だってやるぞ!」
悪びれもせずに言い切るローウェルに、私は深いため息をついた。
とんでもない人に出会ってしまった。そう思った。けれど、胸の奥は熱かった。この少年と一緒に鍛えれば、私も今より強くなれるかもしれない。いや、なってみせる。ローウェルがあれほど強くなれるのなら、私にだってできるはずだ。
そうして、私たちは一緒に訓練するようになった。
最初のうちは、ローウェルの戦い方を直すだけでも一苦労だった。力任せに拳を振るう癖。必要以上に身体を動かす癖。魔力を一気に使い切ってしまう悪癖。
私が指摘するたびに、ローウェルは素直に聞き、次の訓練で試した。
失敗すれば悔しがり、成功すれば素直に喜ぶ。
そして、次の日には必ず昨日より強くなっていた。
私も負けてはいられなかった。剣の腕を磨き、体力を鍛え、魔物との戦い方を学ぶ。
ローウェルに追いつきたい。いつか、彼と本気で戦って勝ちたい。その一心で、私は剣を振り続けた。
やがて、私たちはリネットと出会った。
治癒魔法に秀でた聖女候補で、私たちの無茶な訓練に何度も呆れながら、それでも傷の手当てをしてくれた少女だ。
次に加わったのはタニアだった。
魔法の研究に夢中で、ローウェルの異常な成長に興味津々だった。彼の身体強化を観察するために、訓練へ押しかけてくることもあった。
最後にロナンが加わった。
寡黙で不器用な大男だったが、誰よりも頼りになった。
こうして、私たちはパーティーを組んだ。
戦いを重ねるたびに強くなった。危険な魔物を倒し、難しい依頼をこなし、少しずつ冒険者として名を知られるようになった。
いつだって、ローウェルは先頭にいた。危険を恐れず、強敵を見つければ真っ先に飛び込んでいく。私は何度も注意した。もっと慎重に戦え、と。けれど、ローウェルは笑っていた。強くなれるなら、それでいい。彼の考えは、ずっと変わらなかった。
そして、私はいつの間にか、彼の隣で剣を振るうことを当たり前だと思うようになっていた。
いつか追いつきたいと思っていた背中。
いつか追い越したいと思っていた背中。
その背中が、私にとってかけがえのないものになっていた。
だからこそあの日、彼を救えなかったことが、今も私を責め続けている。
手術が終わったあと、ローウェルは別の部屋へ移された。
私は、その部屋の隅から彼を見つめていた。ベッドに横たわるローウェルは、ぴくりとも動かない。
身体には包帯が巻かれ、顔色もひどく悪い。右目も、右耳も、右腕も、右脚もない。あれほど自由に動き回り、強敵を見つけるたびに嬉々として飛び込んでいった男が、今はベッドの上で静かに横たわっている。
彼の周囲には、淡い光を放つ結界が張られていた。
治療の妨げにならないよう、外部からの干渉を防ぐためのものらしい。容体が安定するまでは、誰も彼に触れてはならないと聞かされていた。
私は、その結界を見つめた。
透明な壁。手を伸ばせば、届きそうな距離。けれど触れることはできない。
「……ローウェル」
名前を呼んだ。結界の手前で立ち止まり、ゆっくりと右手を伸ばす。指先が、淡い光に触れた。それ以上は進めない。見えない壁に阻まれた指が、空中で止まる。
目の前にいるのに。すぐそこにいるのに。私は、彼に触れることすらできなかった。
「……っ」
せめて、手を握りたかった。生きていることをちゃんと確かめたかった。
守れなくて、ごめんなさい。
ずっと隣にいたのに、ごめんなさい。
その言葉を伝えることさえできない。
私は、結界に触れた指を見下ろした。
「……役立たず」
乾いた笑いが漏れた。
情けなかった。自分が、ひどく情けなかった。
10歳の頃、ローウェルがオーガに敗れたあと、何度も立ち上がり、そのたびに速くなっていく姿を見て、私は彼に追いつきたいと思った。
強くなれば、もっと先へ行ける。
私は、何を見ていたのだろう。
彼が強くなっていく姿を見て、その強さがどれほど危ういものなのか、本当の意味では理解していなかったのではないか。
どれだけ強くなっても、傷つかないわけではない。
何度倒れても立ち上がれるからといって、何度でも立ち上がれる保証などない。
そんな当たり前のことを、私は知っていたはずなのに。
「……私は、何も分かっていなかった。さっさと撤退しておけば」
声が震えた。
ローウェルは、そんな私たちの知らない場所で、7年間も苦しみ続けていた。
彼がいないことに苦しみながらも、私は今日まで生きてきた。普通に食事をして、眠って、剣を振って。
「……ごめんなさい」
結界に額を寄せた。涙が頬を伝った。
私は、彼に何をしてあげられるのだろう。
そんなことを言える立場ではないのかもしれない。
彼がどれほど苦しんだのかも知らない私が。
彼を助けられなかった私が。
彼の帰りを待つことしかできなかった私が。
また自分の願いを押しつけようとしている。
「……ごめん」
謝ることしかできなかった。
私を許さなくてもいい。
私を殺してくれても構わない。
だから、どうか。どうかもう一度だけ、あの笑顔を見せてほしい。
私は結界の前に立ち尽くした。
触れることのできない手を胸元で握りしめ、涙をこらえることもできず、ただローウェルを見つめ続けた。




