第3話「弱き者」
「あの……どうぞ……水しかないですが」
「あぁ……充分だ」
案内されたサーシャの小屋は、想像以上に酷い有様だった。
隙間風が吹き込む土壁に、傾いた柱。家具と呼べるものはガタつく小さな木製のテーブルと、粗末な椅子が二脚あるだけだ。
(……本当にここで暮らしてんのか? 何もないが……)
ソウスケは出された欠けた木のコップを受け取り、一口含む。
(……ぬりぃ)
井戸水というよりは、雨水を溜めたような生温かさと、微かな鉄錆のような匂いがした。ソウスケはそれを躊躇うことなく一気に飲み干すと、テーブルにコップを置き、サーシャへ視線を向けた。
「……話、聞かしてくれ」
「……はい」
サーシャは俯きがちに、自身の故郷である『エスト』という村の話をポツポツと語り始めた。
エスト村は、今いるこの村に負けず劣らずの、山奥の限界集落だったという。
作物もろくに育たず、若者は街へ出ていき、残った老人たちが細々と余生を送るだけの、貧しくも平和な村だった。
――だが、昨年の春。
その寂れた村に、数人の神父を従えた『白いシスターの服を着た女』がやってきたことで、全てが変わった。
『迷える子羊たちよ。我らの教えを受け入れれば、神の奇跡があなた方を救うでしょう』
シスターの優しく慈愛に満ちた声と共に、村では毎夜、集会が開かれるようになった。
祭壇が組まれ、祈りが捧げられ、そして集会の最後には必ず『赤いワイン』が村人全員に振る舞われた。
最初は怪しんでいた村人たちも、そのワインを飲むうちに劇的な変化を見せ始めた。
腰の曲がっていた老人が背筋を伸ばして歩き出し、病がちだった者が畑仕事に精を出すようになったのだ。健康を取り戻し、活気に満ちていく自身の肉体に歓喜した村人たちは、瞬く間にその宗教へとのめり込んでいった。
毎夜の集会は狂乱の様相を呈し、彼らはただ赤いワインとシスターの言葉を求めて祈り続けるようになったという。
「……赤いワイン?」
「はい。私も一度だけ参加したことが有るんですが……とても、美味しいワインでした」
回想を終えたサーシャが、うっとりとした表情で呟いた。
「そいつらは何処の連中なんだ?」
「それは……分かりません。直接お話しできたのは村長と村の代表者だけで……」
「その後、村人が消えたと?」
「……それは、分かりません。その時には私、すでにこの村に居たので」
「……なる程な」
ソウスケは腕を組み、背もたれに深く体重を預けて考え込んだ。
(……怪しさ満点だな。集団催眠か、それともそのワインとやらに強い依存性のある薬物か魔術でも仕込んで、思考を奪ってから根こそぎ攫ったのか? エストとやらがこの程度の集落なら、やれん事もないが……)
思考を巡らせた後、ソウスケは組んだ腕を解き、右手をテーブルの上に乗せた。そして、中指の腹でトントン、と一定のリズムで木板を叩く。
「……分かった。で?」
「え……?」
「何故、俺に『毒』を盛った?」
ピタリ、と。
小屋の中の空気が凍りついた。サーシャは顔を青ざめさせ、ガタガタと震えながら深く俯いた。
ソウスケは溜め息をついて椅子から立ち上がると、小屋の出口へと向かい、立て付けの悪い扉を蹴り開けた。
ジャリッ。
外には、先程までソウスケたちを涙ながらに出迎えていた老人たちが、スキやクワ、錆びた鎌を固く握りしめ、ぐるりと入り口を半円状に囲んでいた。
その目は一様に血走り、異常なほどの欲深さと狂気を孕んでいる。
(……なる程な)
ソウスケは全てを察し、冷たく笑った。
「お前ら、娘とガキを野盗に『売った』な?」
元の世界における歴史上の飢饉でも、この世界の貧しい大陸でも、腐るほど見てきた現実だった。
資源も無く、作物も育たないような超限界集落。そこでは、女は子を産むための道具として村の男たちに陵辱され続ける。産まれた子供が男なら奴隷商や野盗に売り飛ばし、女なら育てて再び陵辱し、子を産ませてまた売る。そのサイクルを繰り返すことで、老人たちは僅かな金銭や食糧を得て命を繋ぐ。
若い者が残るはずもなく、いずれ消滅するだけの呪われた村。
この村の老人たちは、野盗に「商品」としてサーシャやリディア、そして子供たちを引き渡したのだ。それをソウスケが勝手に奪い返してきたため、口封じと、ついでに彼の持ち物を奪うために毒を盛ったのだろう。
「む、む、娘どもは野盗に無理やり連れて行かれたんじゃ!!」
「ガタガタ言わんと、金目のモン置いてけぇ!!」
図星を突かれて顔を真っ赤にした老人たちが、口々に言い訳と強盗の宣言を喚き散らす。
「はははは! 良いねぇ。清々しい程のクズじゃねぇか!」
ソウスケは口角を吊り上げ、心底楽しそうに笑い声を上げた。
その時、背後の小屋からサーシャが飛び出してきた。
その手には、震えながらも鋭いナイフが握りしめられている。
「……何で、死なないの……致死量の毒を、入れたのに……」
「悪りぃな。俺に毒は効かねぇんだよ。……昨日の下痢薬の方がよっぽどキツいわ」
「なんでしなないのよぉぉぉ!!」
泣き叫びながら、サーシャがソウスケの背中へ向けてナイフを振り下ろす。
しかし、ソウスケは振り返ることすらしない。
バグゥ!!
「がはっ……!?」
ソウスケの重い後回し蹴りが、サーシャの横腹に正確に突き刺さった。
あばら骨が砕ける鈍い音と共に、サーシャの身体が真横に吹き飛ぶ。
ザザァァァーー!!
地面を無様に転がり、土埃に塗れてむせ返るサーシャ。
ソウスケは冷酷な目で、周囲の老人たちを見下した。
「かかってこいよ。ジジィ、ババァ。どうせ放っといても死ぬだろうが、今ここでトドメさしてやってもいいぜ。」
地面に転がり、苦悶の声を上げるサーシャの元へ、リディアが慌てて駆け寄った。
「妙だとは思ったわ……。あんだけ野盗にヤラれてたのに、ケロッとしてたしな」
「アンタに何がわかるのよ!!」
リディアはソウスケを憎悪の篭った瞳で睨みつけ、狂乱したように叫んだ。
「ここに産まれたら! こうやって生きてくしか無いの!! 売って、売られて、その金で喰うしかないのよ!!」
リディアはサーシャの手からナイフを奪い取ると、震える両手でソウスケへと切っ先を向けた。
「他に、どんなやり方があるって言うのよ!!」
「……知るか」
ソウスケは底なしに冷たい声で吐き捨てると、袋から手榴弾――いや、銀色のラインが入った円筒形の筒を取り出した。
親指でピンを弾き飛ばし、足元の地面、老人たちと女たちの中央へ向けて無造作に放り投げる。
ポンッ! シュゥゥゥーー!!
破裂音と共に、円筒から濃厚な白い煙が猛烈な勢いで噴き出し、瞬く間に周囲一帯を包み込んだ。
「ぎぁぁぁぁぁ!! 目が! 目がぁっ!!」
「ぐぁへ! なん……じゃ! こ! げぇぇっ!!」
煙を吸い込んだ老人たちが、手にした農具を放り出し、喉を掻き毟りながら地面を転げ回る。目からは大量の涙が、鼻からは鼻水がとめどなく溢れ出し、呼吸すらままならない。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
リディアもナイフを落とし、顔を両手で覆いながら涙と鼻水に塗れてのたうち回った。
ソウスケが元の世界の知識とこの世界の素材で調合した、特製の『催涙弾』である。粘膜を激しく刺激するが、殺傷能力はない。
阿鼻叫喚の地獄絵図と化した白い煙の中を、ソウスケは平然とした足取りで歩いていく。毒にも似たこの刺激臭でさえ、彼の異常な耐性の前では微風に等しい。
繋いでおいた馬の鞍に手をかけ、跨がろうとした時。
背後から、血を吐くような叫び声が聞こえた。
「なんで……わたしは! こんな目に、あうの!!」
催涙ガスで充血し、真っ赤に腫れ上がった目でソウスケを睨みつけながら、サーシャが地面に這いつくばって絶叫する。
ソウスケは馬に乗ったまま、サーシャの方へ一瞥もくれることなく、背中越しに言い放った。
「てめぇの不幸を他人のせいにしてるから、お前らはいつまで経っても『家畜』なんだよ」
手綱が引かれ、馬がいななきを上げる。
ソウスケは限界集落の惨状を気にする事も無く、未舗装の道を真っ直ぐに走り去っていった。
遠ざかる馬の蹄の音を聞きながら、サーシャは涙と鼻水に塗れた顔を歪め、力なく膝から崩れ落ちていった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
限界集落での凄惨な一件から四日後。
ソウスケは目的の場所である村『エスト』へと辿り着いた。
村の入り口に立ち、ソウスケは馬の上から静まり返った集落の様子を眺める。
家々の扉は閉ざされ、人の気配は全くない。だが、争ったような形跡も、血痕も、物が略奪されたような乱れも一切見当たらなかった。
(……確かに、野盗共に荒らされた感じじゃねぇな)
もし野盗が襲ったのであれば、家屋は破壊され、金目の物は奪われ、抵抗した者の死体が転がっているはずだ。だが、この村はまるで「住人だけが忽然と蒸発した」かのように、生活の跡を残したまま不気味な静寂に包まれていた。
ソウスケは警戒を怠らず、村の中を馬に乗ったまま歩く。
とある村人の小屋の前で馬を降りると、きしむ扉を開けて中へと入った。
ソウスケは小屋の中の色々な場所をくまなく調べる。
テーブルの上に残されたまま乾燥しきった食事の跡、整えられたベッド、生活用品。争った形跡はやはり無い。
ふと、顔を上げて小屋の窓の外を見た時だった。
寂れた限界集落にはあまりにも場違いな、白亜の建造物が村の中央にそびえ立っているのが見えた。サーシャが言っていた、白いシスター達が建てたであろう教会だ。
「……異様だな」
周囲のボロボロの木造家屋とは明らかに材質からして違う。
顎に生えた無精髭をジョリジョリと撫でながら窓に近寄ろうとした、その時。
シャリ……。
ブーツの底で、何かが擦れる微かな音がした。
足元に違和感を覚えたソウスケは、その場にしゃがみ込み、床の砂を指先で摘み上げた。
(……灰?)
指先で擦り合わせ、匂いを嗅ぎ、周囲の床の砂と比較する。
ただの土埃や砂ではない。何かが燃え尽きた後に残る、極めてきめ細かい微細な灰だった。それが、小屋の床にうっすらと広がっている。
「……取り敢えず、取っとくか」
元科学者の習性が顔を出す。ソウスケは肩下げ袋の中に手を突っ込み、小さなガラスの小瓶を取り出すと、気になったその砂(灰)を丁寧に集めて小瓶に詰めた。コルクで栓をし、袋の奥へと仕舞い込む。
ソウスケは小屋の表に出ると、再び馬に跨り、村の異物である白亜の教会へと向かった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
教会の前に辿り着いたソウスケは、馬から降りてその外壁を見上げた。
(……なんだこりゃ?)
近づいてみて、さらに違和感が強まった。
ソウスケは建築材に近寄り、手でペタペタと触れてみる。石でもなく、木でもない。ひんやりと冷たく、大理石のように滑らかだが、それにしては継ぎ目が一切存在しないのだ。
ソウスケは袋から鋼のピッケルを取り出すと、柄をしっかりと握り、外壁に向かって思い切り振り下ろした。
キンッ!!
小気味よい、高く澄んだ金属音が周囲に響き渡った。
打った場所を確認するが、壁には傷一つ、欠けた跡すら残っていない。逆に、ソウスケの手にあるピッケルの鋭利な先端が見事にひしゃげ、欠け落ちていた。
そびえ立つ白亜の教会を、再び見上げる。
(……こりゃただの教会じゃねぇな。強固な魔術的結界か、それともこの世界には似つかわしくない未知の合金か……)
警戒度を一段階上げつつ、ソウスケは教会の大きな両開きの扉へと向かった。
扉には、大人の拳ほどもある巨大で頑丈そうな南京錠が掛けられていた。
それを見たソウスケは、ニヤリと口角を上げて嗤う。
袋の中に手を突っ込み、ガチャガチャと音を立てて取り出したのは、元の世界で構造を真似て自作したロックピック(ピッキングツール)だった。
扉の前にしゃがみ込み、鍵穴の裏側の構造を指先の感覚だけで探りながら、細い金属の棒を二本差し込む。
カチャ、チリッ……。
数分間、微かな金属音が続いた後。
ガッチャ!!
小気味良い音と共に、南京錠の重い留め具が外れた。
「天才」
誰に聞かせるでもなく、自らの技術を自画自賛する独り言を呟きながら、ソウスケは重い南京錠を取り外し、教会の扉を押し開けた。
中は、外観と同じく異様なほど清潔で、静まり返っていた。
整然と並べられた信者席、奥に鎮座する司教座、そして豪奢な祭壇。それらは全て、乱れた様子もなく当時のまま残されているようだった。
ソウスケは足音を殺しながら、ゆっくりと祭壇へと近づいていく。
祭壇の中央には、美しい顔立ちをした等身大の女神像が立っていた。しかし、その胸元には、この世界でよく見かけるどの宗教とも違う、見慣れない幾何学的な紋様が刻まれたペンダントが掛けられている。
(……この大陸の、新しい宗教のシンボルか? 素材も良さそうだし、取り敢えず持って帰るか)
躊躇いも信仰心も一切ないソウスケは、ペンダントを外そうと祭壇へ土足でよじ登ろうと足をかけた。
その時だった。
「貴様!! 何者だ!!」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
教会の入り口から響き渡ったのは、空気を切り裂くような甲高い、しかし確かな威圧感を伴う女の叫び声だった。
(……チッ)
ソウスケは音もなく床を蹴り、すかさず豪奢な司教座の裏へと滑り込んだ。
木彫りの背もたれの影から、入り口の様子をチラリと覗き見る。
白銀の鎧を身に纏った武装集団が、中央と左右に展開しながら、一糸乱れぬ動きで包囲陣を狭めてきていた。
(姿からすると……この辺の騎士団か警備隊か?)
相手は野盗のような烏合の衆ではない。足運び一つ見ても、高度な訓練を受けた正規兵だ。
ソウスケは振り返り、祭壇の女神像の胸に下がるペンダントをもう一度チラリと見た。
(……はぁ、今回は諦めるか。こりゃ腰据えて調べんと無理だわ)
乱戦の中で未知のアーティファクトを奪うのはリスクが高すぎる。ソウスケは即座に未練を断ち切ると、マントの下の肩下げ袋に腕を突っ込んだ。
取り出したのは、拳サイズの玉型の手榴弾。
親指でピンを引き抜きながら、ソウスケは深々とマントのフードを被り、自身の顔を隠した。
「そこか! 捕らえろ!!」
距離を詰めてきた騎士たちの陣形の中央部――その足元へ向けて、ソウスケは玉を正確に放り投げた。
ボンッ!!
爆発音と共に、強烈な圧縮ガスが弾け、周囲一瞬にして視界を遮るほどの分厚い白煙が立ち込めた。先ほどの催涙弾とは違う、純粋な『煙幕』だ。
「なっ!? 煙幕だ、散開しろ!!」
騎士たちが混乱し、足並みが乱れたその瞬間。
ソウスケは司教座の裏から弾かれたように飛び出し、左側に並ぶ信者席の背もたれの上へと跳躍した。
床の騎士たちを尻目に、ソウスケは木製の背もたれを飛び石のように軽やかに駆け抜け、一直線に出口へと向かう。
そのまま煙を突き破り、外へ飛び出そうとした――その時。
バシュッ!!
鋭い風切り音と共に、恐るべき速度の斬撃が煙を裂いて飛んできた。
(速い……!)
ソウスケは空中で強引に身を捩り、すんでのところでその刃を躱す。マントの裾が数枚、ふわりと宙に舞った。
だが、相手はソウスケの回避すら読んでいた。
着地狩りを狙うかのように、息をつかせぬ神速の三連突きがソウスケの急所へと殺到する。
ソウスケは着地と同時に袋から小太刀を引き抜き、最小限の動きでその猛攻を弾き落とした。
キンッ! カンッ! キンッ!
火花が散る。騎士の長剣の重い一撃を、小太刀の鎬で流して威力を殺す。
その防御の反動を利用し、ソウスケは一気に相手の懐へと潜り込んだ。
狙うは足元。実戦に特化した、無慈悲な足払い。
ガキンッ!!
だが、相手は倒れなかった。足払いを躱しつつ、ソウスケが追撃に放った小太刀の刃を、長剣の腹でガッチリと受け止めていた。
激しい鍔迫り合い。
晴れゆく煙の向こうに、兜を被っていない相手の素顔がうっすらと浮かび上がる。
(……金髪碧眼か……良い女だ)
黄金の糸のような美しい髪と、氷のように冷たく澄んだ青い瞳。女性でありながら、その腕力と体幹はソウスケの力を完全に押し返していた。
ソウスケは膠着状態を打破するため、下段から相手の腹部へ向けて鋭い前蹴りを放つ。
しかし、女騎士は咄嗟に長剣の柄頭を下げ、ソウスケのブーツの底をガツンと受け止めた。
互いの衝撃がぶつかり合い、二人の距離が数歩分、大きく開く。
(……今だ)
ソウスケは無理に追撃を仕掛けず、出来たその一瞬の隙を突いて教会の出口から外の光の中へ飛び出した。
外の木に繋いでいた愛馬の横を通り抜けざま、ソウスケは手にした小太刀で手綱をスパッと切り裂く。
「アリガトな!! 元気でやれよ!!」
小声で馬の首筋に声をかける。手綱を切られ、突然の喧騒に驚いた馬はいななきを上げ、騎士たちの包囲を突き破るように村の出口へと猛然と走り出した。
「あっ、馬が!」
「逃げられるぞ、追え!!」
騎士たちの注意が走る馬へと向いた、ほんの数秒の死角。
ソウスケはその隙を見逃さず、馬とは逆方向――村の入り組んだ裏路地へと一気に駆け込み、そのまま村を囲む深い林の中へと身を躍らせた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
鬱蒼と生い茂る木々の陰に身を潜め、ソウスケは息を殺して村の方を振り返った。
(……追ってはいないな?)
聞こえるのは風の音と、遠くで騎士たちが馬を追って右往左往する怒声だけだ。
自身の気配が完全に絶たれていることを確認すると、ソウスケはさらに林の奥へと足を進める。
(……良い腕してたわ。まともにやったらヤベえな)
あの煙幕の中、初見の変則的な動きに対応し、小太刀の連撃を凌ぎ切った金髪碧眼の女騎士。正統派の剣術でありながら、実戦の勘も鋭い。あれほどの使い手は、五十年旅をしてきてもそう出会えるものではない。
ソウスケは自身の命が脅かされたというのに、ニヤッとシニカルな笑みを浮かべた。
強者との死闘を避けるのが彼の流儀だが、あのギリギリの攻防で生き延びたスリルは、嫌いではない。
ソウスケはマントを翻し、木漏れ日の落ちる林のさらに深い奥深くへと、音もなく姿を消していった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
白煙が完全に風に流され、静寂を取り戻した教会の入り口。
白銀の鎧を纏った金髪の女騎士は、抜き放った長剣の切っ先を下げたまま、微かに肩で息をしていた。
「アリエル様!!お怪我は!」
部下からの声掛けに、
「あぁ、大事無い」
青い瞳が、不審な男が消えた林の奥を鋭く見据えている。周囲では、男の放った馬に翻弄された部下たちが、慌ただしく陣形を立て直していた。
(信じられない……)
彼女の内心は、先ほどのほんの数秒の攻防に対する驚愕で激しく波立っていた。
煙幕を突き破って飛び出してきたあのフードの男に対し、彼女は必殺の間合いで剣を振り抜いた。
長年鍛え上げた、風すらも置き去りにする神速の斬撃。タイミングも、刃の軌道も完璧だった。確実に胴体を両断したと確信した。
(なっ!?)
だが男は、空中に投げ出された体勢のまま、物理法則を無視するかのように強引に身を捩ったのだ。
マントの裾が数枚斬り裂かれただけで、刃は致命傷には至らなかった。常人の反射神経ではあり得ない回避行動。
さらに彼女を驚かせたのは、その後の展開だ。
着地の隙を狙った必殺の三連突き。並の剣士であれば反応すらできないはずの刺突を、男は見たこともない奇妙な二本の短い剣――小太刀で、完璧に弾いてみせた。
(あの二刀流……まともに打ち合おうとしていなかった)
男の剣撃には、騎士が重んじるような『力』や『威』が全くなかった。
ただ徹底して、彼女の長剣の威力を斜めに「受け流す」ことだけに特化していた。だからこそ、速さと威力では上回っているはずの彼女の攻撃が、全て虚空へと逸らされてしまったのだ。
そして、極めつけはあの反撃である。
懐に潜り込んで放たれた、泥臭い足払い。それを躱した直後に見舞われた、腹部への強烈な前蹴り。
咄嗟に剣の柄頭で受け止めたものの、その一撃の重さに彼女の体幹は大きく揺さぶられた。もし直撃していれば、内臓を潰され戦闘不能に陥っていただろう。
(詠唱もなく煙を噴き出す奇妙な玉。見慣れぬ双刃。そして何より、あの無駄のない動き……。ただの盗賊や野盗ではない)
あるのは純粋な技術と、どんな手を使ってでも生き残るという泥臭い執念だけ。彼女がこれまで対峙してきたどの戦士とも違う、異質の「実戦武術」の使い手だった。
「隊長! 馬は確保しましたが、不審者の姿はすでにありません! すぐに林の中へ追撃部隊を――」
息を切らせて駆け寄ってきた部下を、女騎士――アリエル・フォン・クルセールは短く制止した。
彼女はファブール王国第一騎士団団長バラム・フォン・クルセール(通称∶剣神バラム)の孫娘であり、一九歳という若さでありながら、その剣の腕前はすでに王国で五指に入ると言われる新進気鋭の騎士である。
「待て。深追いはするな」
チャキッ、と鋭い音を立てて長剣を鞘に納め、男が消えた暗い林へと目を向ける。
「あの男……おそらく、林の中に誘い込むのが狙いだ。未知の暗器を持っていた。無駄な被害を出すわけにはいかない」
剣を交えたあの一瞬、煙の向こうで真っ向からぶつかり合った男の黒い瞳には、焦りも恐怖も一切なかった。殺気すらなかった。ただ淡々と彼女の攻撃をいなし、そして鮮やかに退いてみせたのだ。
(……何者だ、あの男は)
限界集落に現れた、底知れない実力を持つ異端の戦士。
アリエルは、見慣れぬ教会とその床に残された微かな足跡を険しい表情で見つめ、小さく唇を噛んだ。
(……私が加減をされるとは)
そして、異様な白亜の教会を見上げる。
「……これの秘密を知っている者なのか?」
ローデイリア大陸の東の大国「ファブール」。その国内に現れた破壊出来ない謎の教会。
その秘密はまだ何も分かっていない。




