第8話:魔王軍の奇襲と天使の思惑
神が人間に一つの舌と二つの耳を賦与したのは、しゃべることよりも二倍多く聞くためなり。
エピクテトス
エンジュに導かれて、俺は『展望床の間』へ戻った。
もう人間の祈りは聞こえなくなっていたが、まだ俺の耳に残響がこびりついている。
多くは命乞いであり、子供の声も少なくない。
エンジュが口にした「魔王軍の奇襲」という言葉と混じり、俺の中で嫌な予感が膨らんでいた。
「こちらをご覧ください」
エンジュは魔王の拠点と反対側、つまり世界の南東に位置する島の上で足を止めた。
島には光が散在し、北西の島と共に輝きが強い。
気のせいか、時間と共に明るさは増している。
いずれにせよ、中央大陸と比べれば、人々の信仰心は明らかに高かった。
俺は島に近づき、島全体を俯瞰した。
展望床は俺の視界の中で拡大を始め、海岸部や内陸部の詳細を明確にした。
元々は農業や漁業を中心とした素朴な地域だったのだろう。
村や港にある建物の姿や数から、『田舎』という言葉を連想した。
先ほどは気づかなかったが、多くの場所が燃えていた。
たまたま目の前にあった村では、人間たちが火の中を逃げ回っている。
あるいは少し離れた場所で身を隠した。
原因は剣や槍を持つ巨大な生命体だ。
巨大な生命体が農村を蹂躙し、片っ端から人間を襲った。
近くの麦畑は踏み荒らされた。
八つ裂きにされた家畜が、長閑だったであろう光景を血に染めた。
武器を持って戦う者もいたが、まもなく無惨な死体となった。
嘆願の回廊で耳にした祈りの出所はここだ、と俺は瞬時に理解した。
「これは……魔族ですか?」
「はい。しかも魔王軍の中でも精鋭とされる部隊です。一昨日からこの島を統括するオルディア国も軍を出し、防衛戦を始めていますが、ほとんど効果はありません」
エンジュが島の北側にある大きな城を指差した。
その城の周辺では、軍隊と思しき人間たちが魔族と戦っていた。
村や港と比べれば、よく統率されているし、頑張っていると思う。
しかし、ケンタウロスのような魔族の前に、ほとんど力不足だった。
魔法も使われた。
俺が生まれて初めて見る本物の魔法だ。
城内に魔法使いでもいるのか、外壁から火の玉や氷の塊が弾き出された。
狙う先はケンタウロスのような魔族。
しかし、魔法が着弾する前に、空を占拠するガーゴイルタイプの魔族が割って入り、盾のようなもので火や氷を受け止めた。
「なぜ南東の島が? 魔王の拠点は北西でしょう?」
「いまから半年ほど前に、魔王が大型の海洋魔獣を使って軍隊を派遣しました。最も油断し、最も戦力の低い辺境国オルディアを手中に収めるために」
「狙いがわかりません。いま魔王は勇者に追い詰められ、苦戦しているはずです。自陣の防備こそ厚くするべきではないですか?」
「魔王はそう考えていません。先ほど申し上げた通り、今期の魔王は歴代最強です。自身を勇者の前にさらけ出し、囮の役目をしても問題ないと判断したのでしょう」
「そんなことが……」
どうやら俺は勘違いをしていたらしい。
神様は勇者を「神に選ばれし人間で、人間の中では唯一、魔王を打倒する能力を持つ」と説明した。
打倒する能力を持つだけなのだ。
魔王より強いと決まったわけではない。
「今期の魔王は知能も高く、オルディアの戦略的有用性に気づきました。オルディアは弱く、支配しやすく、しかも中央大陸を挟んで対極の位置に存在します。魔王の狙いは、世界の挟撃でしょうね。オルディアを支配した後はおそらく、中央大陸へ進出し、包囲網を狭めていくはずです」
エンジュは冷静に解説した。
その冷静さは、これまで見てきたエンジュそのものだったが、俺は違和感を覚えていた。
オルディアの現状を知って、エンジュはなにも感じないのだろうか?
「皆さんはこの状況をどうお考えですか? 見過ごすつもりはないですよね?」
「意味がわかりません。あなたは私たちになにかをさせたいのですか?」
「もちろんです。人間の救済を期待します」
そう俺が言うと、エンジュは黙り込んだ。
長い沈黙だった。
少し視線を外すと、中央大陸から南東の島のあいだの海に、百隻を超える軍艦を見つけた。
軍艦の進路は、例外なく南東だった。
たぶん周辺国がオルディアの危機を知り、あるいは要請を受けて、援軍を寄越したのだろう。
俺はたくさんの軍艦を目で追った。
しかし、しばらくすると、進行方向に複数の海洋魔獣が現れた。
海洋魔獣たちは軍艦よりも多く、巨大で、圧倒的な力を持っていた。
まもなく軍艦の半数が海に沈められ、残った半数も撤退する他なかった。
「今回の魔王軍の奇襲に対し、他国の援軍は期待できません。島は地理的に孤立しており、隣国の軍隊を派遣するにしても海路を使う必要があります。しかし、いまご覧になられたように、海路は大型の魔獣によって支配されています。簡単に突破できるものではありません」
エンジュがまた口を開いた。
「しかも、救援に駆けつけたところで得るものはなく、軍隊を派遣した分だけ出費が嵩みます。周辺国は近日中に、派兵の中止を決定するでしょうね。冷たいようですが、それが人間の世界です」
「なにを言っているんですか? 違います。私は天使によるオルディアの救援をお願いしているんです」
「私にはまったくわかりません。なぜ天使がオルディアに介入する必要があるのでしょうか? これほどまでに、信仰心の高まったオルディアを」
「え?」
エンジュは一つ溜息を吐き、疲れたような目で俺を見た。
「あなたの元の世界のルールを私は知りません。加えてあなたは人間であり、人間の肩を持ちたくなるのでしょう。しかし、この世界における天使の役割は『人間の監視』です。人間の信仰心を注視し、信仰心が下がれば最終戦争を実行するのみです。信仰心の高まったいまのオルディアに、文句のつけようはないと思いますが」
どうやら俺は、また勘違いをしていたようだ。
エンジュは冷静ではなかった。
エンジュはただ、冷酷だったのだ。




