第14話:尽きない祈り
俺はエンジュを追って、原初宮を出た。
説明はないが、ついて来いと言っているようだったからだ。
エンジュは右の渡り廊下を選び、嘆願の回廊に入った。
追いかける俺も連続するアーチを潜る。
感覚がおかしくなる中で、人々の様々な祈りが聞こえてきた。
オルディアの危機を解決しても、この世界から祈りが消えることはない。
至る所で魔族が跋扈し、どんなときでも人間を襲うからだ。
神様がなぜこんな世界を作ってしまったのか、俺にはよくわからない。
いずれにせよ俺は、この渡り廊下を歩くとき、目を細めて人々の声を聞き流すようにしている。
世界から犠牲者はなくならず、すべての祈りに対応できないと理解したからだ。
「以前も説明しましたが、人間の不幸は信仰心の源泉です」
エンジュは歩きながら俺に言った。
両腕を身体の後ろに回し、両手を揃えて弓を持つ姿は、まるでタブレットを持ってキャンパスを散歩する大学生のようだ。
嘆願の回廊が放つ雰囲気と対照的なその爽やかさに、俺はエンジュの本質を感じ取った。
「人間は満たされているときに神を忘れますが、苦しんでいるときは強く、純粋に神を求めます。恐怖や暴力といった極限状況こそが、人間から質の良い信仰心を生み出してくれるのです。それゆえ、オルディアの危機は、オルディアの人間の信仰心に良い効果をもたらしました」
「そうみたいですね」
「信仰心の高まりは、世界の調和のために最も必要であり、重要なことです。セラフィムを始め、私たち天使はみな喜んでいます」
何度も繰り返された説明だから、俺は完全に理解している。
この世界の天使は人間の味方ではなかった。
天使は人間を、信仰心のための家畜や鉱脈のように考えている。
「つまり、エンジュさんたちは、オルディアで発生した犠牲者を減らしたくないのですね? オルディアの犠牲者を減らしたくないから、『過去に戻って危機そのものを回避する』という私の計画に反対している」
「そうですね。間違ってはいません。しかし、反対する理由はそれだけではありません。私たちはあなたに感謝しているのです。あなたの貢献もあって、オルディアの信仰心は高止まりしているのですから」
「よくわかりません。なんの話ですか?」
「まあ、ここまで来たのですから、実際に聞くほうが良いでしょう。現在の人間の祈りを注意して聞いてください」
そう言うと、エンジュは嘆願の回廊の中央で足を止めた。
俺も立ち止まり、聞こえてくる声に意識を向ける。
あまり気分の良いものではなかった。
老若男女が苦しみの中で、幸せを願い、必死な口調で嘆願している。
魔族による犠牲や魔法の詠唱に混じって、病や怪我や貧困に関する祈りも聞こえた。
ただ、俺は違和感も覚えていた。
過去に聞いたときと違い、飢えと空腹に対する嘆願が増えたのだ。
『上の連中は隣国からの支援物資を横流しして私腹を肥やしている。神様、奴らに裁きの雷を落としてください』
『慈悲深き神よ。どうか、この子にだけは乳をお与えください。私の血肉は枯れ果てても構いません。この小さな命が、せめて明日を迎えられますように』
『今日、弟たちに食べさせるために、私は商人のおじさんに買われていきます。どうか、弟たちが飢えないだけのお金が、明日も手に入りますように』
『勇者様が魔族を追い払ってくださったのに、畑は踏み荒らされ、蒔く種すら残っていません。神様、奇跡で麦の雨を降らせてください』
『どうせ死ぬなら、金持ちの倉を襲って腹一杯食ってから死んでやる。どうか今夜の略奪が上手くいきますように。俺からすべてを奪った世界への、せめてもの復讐に』
『神様、お腹が空きました。もう泥水は飲みたくないです。パンの端っこだけでいいので、どうかください』
『お許しください。生きるために、隣の家から僅かな干し肉を盗んでしまいました。地獄に落ちるのは私一人で構いません、どうか妻と子供だけは許してください……』
『神よ。私の寿命はもう十分です。どうか私が明日目覚めぬよう、痛みのない眠りをお与えください』
『もしも神様がいるなら教えてください。なぜ正直に生きる私たちが餓死し、倉庫に食い物を隠し持っている王族や貴族が生き延びるのですか。これがあなたの望んだ世界ですか』
「気づいたようですね」
エンジュが俺の気持ちを察した。
「食糧不足……でしょうか? 食べ物を求める声が多いように思います」
「そうです。勇者の活躍により、オルディアの人々は魔獣の襲撃を乗り越えました。しかし、いまは大きな食料問題に悩まされています。それゆえ、魔族が打倒されたあとも信仰心は高く保たれているのです」
「魔族のあとに飢饉? 災害が連続したんですか?」
「いいえ。魔王の指示です。魔王はこの襲撃でオルディアを完全に支配下に置くため、『人間のエネルギー源である食糧』と『食糧を採取するための農地や港』を徹底的に破壊しました」
「なんだって?」
人間同士の戦争であれば、食糧は互いに必要だ。
戦うためにも生きるためにも、まずは食糧から考える。
しかし、魔族は人間しか食べられない。
人間の食糧なんて、必要最低限だけ確保しておけば、あとは雑草や石と変わらないのだろう。
「王族はなにをしているのですか? 備蓄食糧くらいはあるでしょう? 近隣諸国に援助を求めることもできるはずです」
必要なものが足りなければ、臨時的な対応をするしかない。
保管しているものを放出するか、他国から輸入するかだ。
過去、中東の戦争で石油が不足したときに、日本はそうやって対処した。
俺が強い調子で言うと、エンジュは「そうですね」と言い、これまでのオルディアの顛末を簡単に説明してくれた。
魔族の襲撃により、町や村が燃やされ、農地や港も破壊されたこと。
復興どころか今日の食糧も失った人々が、オルディア王家に助けを求めたこと。
緊急事態と考えたオルディア王家は、最初は人々の願いに応え、食料を援助したこと。
しかし飢えた人々が増え続けた結果、配給から三日後に食料庫の扉を閉じたこと。
隣国にも助けを求めたが、充分な大きさを持つ船は少なく、代わりとなりそうな戦艦も前回の戦争で沈没させられたこと。
「解決策がほぼないわけですね」
俺はオルディアの人たちのことを考えた。
食料はなく、食料を作るための畑は潰され、王家は援助してくれそうにない。
周囲を海で囲まれているから、他国に逃げることも不可能だ。
加えて、隣国から食糧が届く見込みもゼロ。
絶望だ。
明るい未来が見えない。
「しかもオルディア王家は、前回の襲撃を受けたとき、隣国に金銭で援助を求めています。その負債額が大きく、今後しばらくは返済に追われるでしょう」
「文字通りの八方塞がりじゃないですか」
「そうです。そしてなにより、勇者の休眠が効果的でした。これはあなたの貢献です」
「は?」
エンジュがなにを言っているのかわからなかった。
俺の貢献?
「不幸を感じたとき、人間は、最後の手段として神に祈ります。そして勇者こそ、神の奇跡を体現する存在。しかし勇者は、瞬間移動の魔法に付記された呪いにより、三年間の眠りについてしまった」
「それが……あなたの言う『私の貢献』ですか?」
「はい。現在のオルディアの人々の悲しみはとても深い。だから信仰心が下がりそうにないのです」
「認められない」
「え? なにか言いましたか?」
無意識に口から言葉が出ていた。
認められない、と。
それはたぶん、俺の心の底の叫びだ。
俺は現状を認められない。
勇者の瞬間移動と休眠は、あの時点でベストだったはずだ。
絶望を広めるだなんて思ってもいなかった。
可能であれば、時間を戻してやり直したいが、時間を戻す奇跡は起こせそうにない。
「正確に現状を把握したいと思います。地上に転移しますが、よろしいですね?」
だから俺は、現在に目を向ける。
問題を解決するために。
あるいは被害の拡大を抑えるために。
「わかりました。気は乗りませんが、同行します」
「気が乗らないなら、一緒に来なくてもいいんですよ」
「そういうわけにはいきません。私はあなたの監視者ですから」
「好きにしてください」
失った食糧、踏み潰された畑、沈められた大型船、多額の借金、勇者の休眠……
なんでも良い。
なんでも良いから、障害を取り外さなければいけない。
そして俺は、オルディアの人々の希望を取り戻す。




