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哭島列車と五骸童子 ―死者を悼む歌の見立て殺人―  作者: 神谷利休|アコンプリス


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9/11

第九章 五骸童子の嘘

 旧防空壕へ向かう道は、地図には細い線でしか描かれていなかった。

 だが、実際には線というより、傷だった。

 濡れた雑木林の中を、獣道のような旧道が斜めに切っている。雨は止んでいたが、枝から落ちる水滴が肩を叩いた。足元の土はやわらかく、踏むたびに沈む。ところどころに古い石段が残っているが、半分は苔と泥に埋もれていた。人が通ることを忘れられた道だった。

 白井透子は、列の先頭を歩いていた。

 誰に道を尋ねることもなく、迷うこともない。まるで、何度もこの道を歩いてきた者の足取りだった。

 後ろから九条雅紀の咳が聞こえた。

 振り返ると、九条は二階堂に支えられるようにして歩いていた。本人は嫌がっているが、二階堂が強く命じた。まだ顔色は悪い。呼吸も深くない。だが、目だけは戻っている。

 死を読む者の目だった。

 白井は、その目を一度だけ見て、すぐに逸らした。

 宗像恵も同行していた。

 二階堂は最初、彼女を食堂に残すと言った。だが宗像は首を振った。もう逃げたくない、と言った。真壁は迷った末、同行を許した。もちろん彼女を一人にはしなかった。由良と八尋をそばにつけ、常盤にも後方を歩かせた。

 宗像は、白井の背中を見つめながら歩いていた。

 十七年前に逃げた少女が、十七年後、逃げずに同じ闇へ向かっている。

 そのことには意味がある。

 だが意味があるからといって、安全になるわけではない。

 真壁は宗像の位置を常に確認しながら歩いた。

 旧防空壕の入口は、雑木林の奥にあった。

 コンクリートの低い開口部。周囲には蔦が絡み、鉄の扉は錆びている。扉は半分ほど開いていた。誰かが最近こじ開けたというより、以前から何度も開け閉めされていたような隙間だった。

 白井は入口の前で立ち止まった。

「ここです」

 声は静かだった。

「十七年前、彼らが最後に向かった場所です」

「彼ら」

 二階堂が言った。

「五人ですか」

 白井は答えなかった。

 真壁は言った。

「六人だ」

 白井の肩が、ほんの少しだけ動いた。

 真壁は続けた。

「宗像さんが見た。五人の後を追う小さな女の子がいた。佐久良心春。記録には残らなかった、六人目。――そうですよね、白井透子さん」

 誰かが息を呑む音がする。

 白井はゆっくり振り返った。

 その顔には、もう驚きはなかった。

「心春の名前を、言ってくれたんですね」

「あなたが言わせたんだろ」

「……そうです」

 あまりにあっさりとした肯定だった。

 二階堂の目が冷える。

「認めるんですか」

「名前については」

「殺人については?」

 白井は二階堂を見た。

「今ここで、私が何を言っても、あなたは信用しないでしょう」

「当然です」

「なら、先に見てください」

 そう言って、白井は防空壕の中へ入った。

 中は暗かった。

 懐中電灯の光が、湿ったコンクリートの壁を滑る。天井から水滴が落ちている。床には泥が溜まり、ところどころに海藻のようなものが貼りついていた。潮の匂いがする。海から離れているはずなのに、ここには海が入り込んでいた。

「排水路か」

 九条が言った。

 声は掠れている。

 白井は頷いた。

「奥で、旧診療所跡の排水路とつながっています。正確には、かつてつながっていた、です。塞がれたことになっていました。でも、完全には塞がれていなかった」

「深町さんを流した場所だな」

 真壁が言うと、白井は足を止めた。

 しばらく沈黙した後で、答えた。

「はい」

 二階堂が一歩前へ出る。

「殺したのは、あなたですか」

 白井は振り返らずに言った。

「深町先生は、自分でここへ来ました」

「質問に答えてください」

「殺したのは、私です」

 常盤が息を呑んだ。

 宗像が小さく口元を押さえる。

 九条は黙っている。

 真壁は、白井の背中を見ていた。

 告白にしては、早すぎる。

 白井はすべてを話すつもりでいる。だが、それは悔いているからではない。少なくとも、まだそうではない。

 彼女は、終わらせに来たのだ。

 自分の事件を。

 あるいは、十七年前の事件を。

 防空壕の奥へ進むと、小さな横穴があった。そこには古い木箱が積まれている。腐った板。錆びた金具。割れた瓶。古い祭具。子どもが拾って遊びそうなものが、いくつもあった。

 九条が、低く言った。

「ここで遊んでいたんですか」

 白井は頷いた。

「心春は、ここを秘密基地と呼んでいました」

 その時だけ、白井の声がわずかに変わった。

 乾いていた声の奥に、柔らかいものが混じった。

「心春さんは、あなたの」

 二階堂が言いかけた。

 白井は答えた。

「妹です」

 真壁は、彼女の横顔を見た。

「佐久良透子」

「はい」

「今の白井は」

「母方の姓です。事件の後、名字を変えました。島に戻るために」

「戻るため?」

「資料館の学芸員として、この島に入るためです」

 二階堂が言った。

「最初から復讐のために?」

 白井は少しだけ目を伏せた。

「最初は、名前を探すためでした」

「心春さんの名前を」

「はい」

 奥に進むと、開けた空間に出た。

 防空壕の最奥部だった。

 コンクリートの壁に、古い煤の跡が残っている。床は泥で黒く、端には水が溜まっていた。天井から水滴が落ちる音が、やけに大きく響く。

 その中央に、白木の箱が置かれていた。

 そこだけが新しかった。

 湿った闇の中で、不自然に白い。供物のようにも、棺のようにも見えた。蓋には何も書かれていない。飾りもない。ただ、丁寧に磨かれた木目だけが、懐中電灯の光を受けて鈍く光っている。

 白井は、その前に膝をついた。

「心春は、ここにいました」

 誰もすぐには言葉を返せなかった。

 白井は続けた。

「十七年前、心春の兄と、その友人たち五人は、この防空壕に来ました。島の大人たちが隠していた資料を見つけたからです。開発計画に関わる不正、補助金、土地の名義、保存会とプロジェクトの癒着。子どもたちにとっては、意味のわからない紙だったかもしれません。でも、それを外へ持ち出せば、大人たちが困ることだけはわかった」

「それで殺された?」

 二階堂の声は低かった。

「最初から殺すつもりではなかったと思います」

 白井は言った。

「少なくとも、心春が聞いたのは、怒鳴り声だったそうです。返せ、出てこい、余計なものを見るな、と。五人は逃げようとした。防空壕の奥へ。そこに心春もついてきた」

「心春さんは生きていたんですね」

 九条が言った。

「ええ」

 白井の声が揺れた。

「心春は、いったん外へ出た。宗像さんに助けを求めた。でも宗像さんは逃げた」

 宗像の肩が震えた。

「心春は、もう一度戻ったんです。兄を助けるために。宗像さんに逃げられて、それでも誰かを呼ぼうとして、でも大人たちの足音が近づいていた。あの子は、外へ逃げ切るより先に、兄たちのいる奥へ戻った」

 白井は、宗像を見なかった。

「責めていません。その人は十三歳だった。責めるには、あまりに幼すぎた」

「なら、なぜ宗像さんを五つ目にしようとした」

 真壁が言った。

 白井はゆっくり顔を上げた。

「最初から、殺すつもりはありませんでした」

「だろうな」

 真壁は言った。

「昨夜、宗像さんを殺せなかったから言っているんじゃない。あなたは最初から宗像さんを殺すつもりはなかった。殺すなら、もっと前にできた。春に訪ねた時でも、今回の列車内でも。あなたが宗像さんに求めていたのは、死じゃない。証言だ」

 白井は答えなかった。

 宗像は、涙を浮かべて白井を見ていた。

「宗像さんには、心春に謝ってほしかった」

 白井は言った。

「言葉として、残してほしかった。あの人が覚えていたと、認めてほしかった」

「それが、五つ目だったんですね」

 宗像が小さく言った。

 白井は初めて宗像を見た。

「はい」

「私は……殺されるんだと思っていました」

「殺すつもりはありませんでした」

「それでも、私は死ぬ覚悟をしていました」

 宗像の声は震えていた。

「それが、あなたの罰だと思ったから」

 白井の顔がわずかに歪んだ。

「罰を受けるべきは、あなたではありません」

「でも私は逃げた」

「十三歳でした」

「でも、逃げたんです」

 宗像の涙が落ちた。

 防空壕の湿った床に、小さな音もなく消えた。

「心春ちゃんは、助けてと言ったのに」

 白井は何も言わなかった。

 言えることがなかったのだろう。

 真壁は、その沈黙を見ていた。

 宗像を守れたことが、生きている。

 宗像は、ここで死ぬためではなく、ここで生きて証言するために必要だった。

 死体になれば、彼女の言葉はまた誰かに解釈される。

 生きていれば、自分で言える。

 白井が求めたものは、結局そこだったのかもしれない。

「汐崎さんは、海難事故として処理する書類を整えた。嘘の中心にいた。だから舌。牧野さんは、心春の存在を耳にしていたのに、記事では怪異譚に変えた。だから耳。深町先生は、診療所へ来た心春を追い返し、記録を消した。助けを求める手を押し返した。だから手。久我山さんは、防空壕で何が起きたのかを見た。保存会の人間として資料を隠した。だから眼」

「宗像さんは」

 二階堂が聞いた。

「祈れなかった心」

 白井は言った。

「でも、殺すつもりはなかった。宗像さんには、生きて心春の名前を言ってほしかった。十七年前、見たと。助けを求められたと。自分が逃げたと。誰かがそれを聞いて、記録に残すように」

「あなたが認めさせたんだ」

 真壁が言った。

「ええ」

 白井は否定しなかった。

「九条は」

 二階堂の声がさらに冷えた。

「なぜ九条を巻き込んだ」

 白井は、九条を見た。

「あなたなら、読んでくれると思ったからです」

 九条は、何も言わなかった。

「死体を、証拠として。儀式としてではなく、事実として。あなたなら、私の置いたものを嫌悪しながらも、読まずにはいられない。だから、あなたを疑わせた。疑われながらも、あなたたちが最後まで来るようにした」

「都合がいいですね」

 二階堂が言った。

「はい」

 白井は頷いた。

「都合よく使いました」

 その声には、初めて疲れが滲んだ。

 真壁は白木の箱を見た。

「箱の中は」

「心春のものです」

「遺骨か」

「全部ではありません。十七年前、ここに残されていたものを、少しずつ集めました。小さな靴。髪留め。数珠の片割れ。骨片。それから、写真と、録音テープ」

「録音?」

「心春の声が入っています」

 白井は箱に手をかけた。

 その瞬間、九条が言った。

「待て」

 白井の手が止まる。

「開けるのは、警察が来てからだ」

 白井は九条を見た。

「読まないんですか」

「読む」

 九条は答えた。

「でも、あなたの儀式としては読まない。証拠として読む」

 白井の顔が、少しだけ崩れた。

 真壁はその横顔を見た。

 白井は、理解していた。

 自分が望んだ読み方では読まれない。

 それでも、心春の名前はもう消えない。

 その両方を、同時に受け入れなければならないのだ。

 二階堂が言った。

「白井透子さん。任意同行では済まないことはわかっていますね」

「はい」

「四人を殺した」

「はい」

「九条に薬を盛った」

「はい」

「宗像さんを五つ目として利用しようとした」

「……はい」

「死体の一部を切断し、血文字を残し、九条に疑いを向けた」

「はい」

「深町さんの遺体は、排水路と潮流を使って崖下へ流した」

「はい」

「久我山さんは九条の隣室で見つかるように運んだ」

「はい」

 二階堂の声が震えた。

 怒りのためだった。

「全部、あなたがやったんですね」

 白井は目を伏せた。

「全部ではありません」

 二階堂が顔を上げる。

「何?」

「十七年前に心春を消したのは、私ではありません」

 防空壕の奥で、水滴が落ちた。

 一つ。

 また一つ。

 時間が、十七年遅れて動き出す音のようだった。

 真壁は、白井の言葉を聞いても、怒りが消えなかった。

 むしろ、増えた。

「だからといって、四人を殺していい理由にはならない」

「わかっています」

 白井は首を縦に振った。

「殺したことを正しいとは言いません。でも、見つけさせるには、あの人たちの罪を形にするしかなかった。私はそう思ってしまった」

 真壁は、その言葉を許せないと思った。

 だが同時に、その言葉の底にある十七年を、完全に切り捨てることもできなかった。

 人は時々、正しい怒りを抱えたまま、取り返しのつかない場所へ行く。

 白井透子は、そこまで行ってしまった。

 心春の名前を戻すために、別の名前を奪った。

 それは、もう戻らない。

 防空壕の入口の方から、八尋の声がした。

「二階堂さん! 無線が繋がりました。警察が旧連絡橋の手前まで来ています。潮が引き次第、こちらへ向かうそうです」

 二階堂が短く答えた。

「わかりました。誰も中へ入れないでください」

 白井は、静かに箱の前で座っていた。

 九条は壁にもたれながら、その姿を見ている。

 宗像は、白井を見ていた。

「白井さん」

 宗像が言った。

 白井は顔を上げた。

「私は、心春ちゃんに謝ります」

 その声は震えていた。

「でも、あなたに殺されるためじゃない。あなたの順番を完成させるためでもない。私が、私の言葉で、謝ります」

 白井の目が揺れた。

 宗像は続けた。

「十七年前、私は逃げました。心春ちゃんを見捨てました。それを、証言します。何度でも。裁判でも、記録でも、どこでも」

 白井は、何か言おうとした。

 だが言葉にならなかった。

 真壁は、その場面を黙って見ていた。

 宗像が生きている意味が、そこにあった。

 死体の心ではなく、生きている人間の心が、ようやく言葉を持った。

 真壁は白木の箱を見た。

 開けるのは、警察が来てからだ。

 九条の言葉は正しい。

 だが真壁には、もう箱の中に何があるのか、おおよそわかっていた。

 小さな靴。

 髪留め。

 骨片。

 写真。

 録音テープ。

 そして、消された名前。

 佐久良心春。

 死者の名は、ようやく戻ってきた。

 けれど、それを運んできた列車には、あまりに多くの死が乗せられていた。


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