第九章 五骸童子の嘘
旧防空壕へ向かう道は、地図には細い線でしか描かれていなかった。
だが、実際には線というより、傷だった。
濡れた雑木林の中を、獣道のような旧道が斜めに切っている。雨は止んでいたが、枝から落ちる水滴が肩を叩いた。足元の土はやわらかく、踏むたびに沈む。ところどころに古い石段が残っているが、半分は苔と泥に埋もれていた。人が通ることを忘れられた道だった。
白井透子は、列の先頭を歩いていた。
誰に道を尋ねることもなく、迷うこともない。まるで、何度もこの道を歩いてきた者の足取りだった。
後ろから九条雅紀の咳が聞こえた。
振り返ると、九条は二階堂に支えられるようにして歩いていた。本人は嫌がっているが、二階堂が強く命じた。まだ顔色は悪い。呼吸も深くない。だが、目だけは戻っている。
死を読む者の目だった。
白井は、その目を一度だけ見て、すぐに逸らした。
宗像恵も同行していた。
二階堂は最初、彼女を食堂に残すと言った。だが宗像は首を振った。もう逃げたくない、と言った。真壁は迷った末、同行を許した。もちろん彼女を一人にはしなかった。由良と八尋をそばにつけ、常盤にも後方を歩かせた。
宗像は、白井の背中を見つめながら歩いていた。
十七年前に逃げた少女が、十七年後、逃げずに同じ闇へ向かっている。
そのことには意味がある。
だが意味があるからといって、安全になるわけではない。
真壁は宗像の位置を常に確認しながら歩いた。
旧防空壕の入口は、雑木林の奥にあった。
コンクリートの低い開口部。周囲には蔦が絡み、鉄の扉は錆びている。扉は半分ほど開いていた。誰かが最近こじ開けたというより、以前から何度も開け閉めされていたような隙間だった。
白井は入口の前で立ち止まった。
「ここです」
声は静かだった。
「十七年前、彼らが最後に向かった場所です」
「彼ら」
二階堂が言った。
「五人ですか」
白井は答えなかった。
真壁は言った。
「六人だ」
白井の肩が、ほんの少しだけ動いた。
真壁は続けた。
「宗像さんが見た。五人の後を追う小さな女の子がいた。佐久良心春。記録には残らなかった、六人目。――そうですよね、白井透子さん」
誰かが息を呑む音がする。
白井はゆっくり振り返った。
その顔には、もう驚きはなかった。
「心春の名前を、言ってくれたんですね」
「あなたが言わせたんだろ」
「……そうです」
あまりにあっさりとした肯定だった。
二階堂の目が冷える。
「認めるんですか」
「名前については」
「殺人については?」
白井は二階堂を見た。
「今ここで、私が何を言っても、あなたは信用しないでしょう」
「当然です」
「なら、先に見てください」
そう言って、白井は防空壕の中へ入った。
中は暗かった。
懐中電灯の光が、湿ったコンクリートの壁を滑る。天井から水滴が落ちている。床には泥が溜まり、ところどころに海藻のようなものが貼りついていた。潮の匂いがする。海から離れているはずなのに、ここには海が入り込んでいた。
「排水路か」
九条が言った。
声は掠れている。
白井は頷いた。
「奥で、旧診療所跡の排水路とつながっています。正確には、かつてつながっていた、です。塞がれたことになっていました。でも、完全には塞がれていなかった」
「深町さんを流した場所だな」
真壁が言うと、白井は足を止めた。
しばらく沈黙した後で、答えた。
「はい」
二階堂が一歩前へ出る。
「殺したのは、あなたですか」
白井は振り返らずに言った。
「深町先生は、自分でここへ来ました」
「質問に答えてください」
「殺したのは、私です」
常盤が息を呑んだ。
宗像が小さく口元を押さえる。
九条は黙っている。
真壁は、白井の背中を見ていた。
告白にしては、早すぎる。
白井はすべてを話すつもりでいる。だが、それは悔いているからではない。少なくとも、まだそうではない。
彼女は、終わらせに来たのだ。
自分の事件を。
あるいは、十七年前の事件を。
防空壕の奥へ進むと、小さな横穴があった。そこには古い木箱が積まれている。腐った板。錆びた金具。割れた瓶。古い祭具。子どもが拾って遊びそうなものが、いくつもあった。
九条が、低く言った。
「ここで遊んでいたんですか」
白井は頷いた。
「心春は、ここを秘密基地と呼んでいました」
その時だけ、白井の声がわずかに変わった。
乾いていた声の奥に、柔らかいものが混じった。
「心春さんは、あなたの」
二階堂が言いかけた。
白井は答えた。
「妹です」
真壁は、彼女の横顔を見た。
「佐久良透子」
「はい」
「今の白井は」
「母方の姓です。事件の後、名字を変えました。島に戻るために」
「戻るため?」
「資料館の学芸員として、この島に入るためです」
二階堂が言った。
「最初から復讐のために?」
白井は少しだけ目を伏せた。
「最初は、名前を探すためでした」
「心春さんの名前を」
「はい」
奥に進むと、開けた空間に出た。
防空壕の最奥部だった。
コンクリートの壁に、古い煤の跡が残っている。床は泥で黒く、端には水が溜まっていた。天井から水滴が落ちる音が、やけに大きく響く。
その中央に、白木の箱が置かれていた。
そこだけが新しかった。
湿った闇の中で、不自然に白い。供物のようにも、棺のようにも見えた。蓋には何も書かれていない。飾りもない。ただ、丁寧に磨かれた木目だけが、懐中電灯の光を受けて鈍く光っている。
白井は、その前に膝をついた。
「心春は、ここにいました」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
白井は続けた。
「十七年前、心春の兄と、その友人たち五人は、この防空壕に来ました。島の大人たちが隠していた資料を見つけたからです。開発計画に関わる不正、補助金、土地の名義、保存会とプロジェクトの癒着。子どもたちにとっては、意味のわからない紙だったかもしれません。でも、それを外へ持ち出せば、大人たちが困ることだけはわかった」
「それで殺された?」
二階堂の声は低かった。
「最初から殺すつもりではなかったと思います」
白井は言った。
「少なくとも、心春が聞いたのは、怒鳴り声だったそうです。返せ、出てこい、余計なものを見るな、と。五人は逃げようとした。防空壕の奥へ。そこに心春もついてきた」
「心春さんは生きていたんですね」
九条が言った。
「ええ」
白井の声が揺れた。
「心春は、いったん外へ出た。宗像さんに助けを求めた。でも宗像さんは逃げた」
宗像の肩が震えた。
「心春は、もう一度戻ったんです。兄を助けるために。宗像さんに逃げられて、それでも誰かを呼ぼうとして、でも大人たちの足音が近づいていた。あの子は、外へ逃げ切るより先に、兄たちのいる奥へ戻った」
白井は、宗像を見なかった。
「責めていません。その人は十三歳だった。責めるには、あまりに幼すぎた」
「なら、なぜ宗像さんを五つ目にしようとした」
真壁が言った。
白井はゆっくり顔を上げた。
「最初から、殺すつもりはありませんでした」
「だろうな」
真壁は言った。
「昨夜、宗像さんを殺せなかったから言っているんじゃない。あなたは最初から宗像さんを殺すつもりはなかった。殺すなら、もっと前にできた。春に訪ねた時でも、今回の列車内でも。あなたが宗像さんに求めていたのは、死じゃない。証言だ」
白井は答えなかった。
宗像は、涙を浮かべて白井を見ていた。
「宗像さんには、心春に謝ってほしかった」
白井は言った。
「言葉として、残してほしかった。あの人が覚えていたと、認めてほしかった」
「それが、五つ目だったんですね」
宗像が小さく言った。
白井は初めて宗像を見た。
「はい」
「私は……殺されるんだと思っていました」
「殺すつもりはありませんでした」
「それでも、私は死ぬ覚悟をしていました」
宗像の声は震えていた。
「それが、あなたの罰だと思ったから」
白井の顔がわずかに歪んだ。
「罰を受けるべきは、あなたではありません」
「でも私は逃げた」
「十三歳でした」
「でも、逃げたんです」
宗像の涙が落ちた。
防空壕の湿った床に、小さな音もなく消えた。
「心春ちゃんは、助けてと言ったのに」
白井は何も言わなかった。
言えることがなかったのだろう。
真壁は、その沈黙を見ていた。
宗像を守れたことが、生きている。
宗像は、ここで死ぬためではなく、ここで生きて証言するために必要だった。
死体になれば、彼女の言葉はまた誰かに解釈される。
生きていれば、自分で言える。
白井が求めたものは、結局そこだったのかもしれない。
「汐崎さんは、海難事故として処理する書類を整えた。嘘の中心にいた。だから舌。牧野さんは、心春の存在を耳にしていたのに、記事では怪異譚に変えた。だから耳。深町先生は、診療所へ来た心春を追い返し、記録を消した。助けを求める手を押し返した。だから手。久我山さんは、防空壕で何が起きたのかを見た。保存会の人間として資料を隠した。だから眼」
「宗像さんは」
二階堂が聞いた。
「祈れなかった心」
白井は言った。
「でも、殺すつもりはなかった。宗像さんには、生きて心春の名前を言ってほしかった。十七年前、見たと。助けを求められたと。自分が逃げたと。誰かがそれを聞いて、記録に残すように」
「あなたが認めさせたんだ」
真壁が言った。
「ええ」
白井は否定しなかった。
「九条は」
二階堂の声がさらに冷えた。
「なぜ九条を巻き込んだ」
白井は、九条を見た。
「あなたなら、読んでくれると思ったからです」
九条は、何も言わなかった。
「死体を、証拠として。儀式としてではなく、事実として。あなたなら、私の置いたものを嫌悪しながらも、読まずにはいられない。だから、あなたを疑わせた。疑われながらも、あなたたちが最後まで来るようにした」
「都合がいいですね」
二階堂が言った。
「はい」
白井は頷いた。
「都合よく使いました」
その声には、初めて疲れが滲んだ。
真壁は白木の箱を見た。
「箱の中は」
「心春のものです」
「遺骨か」
「全部ではありません。十七年前、ここに残されていたものを、少しずつ集めました。小さな靴。髪留め。数珠の片割れ。骨片。それから、写真と、録音テープ」
「録音?」
「心春の声が入っています」
白井は箱に手をかけた。
その瞬間、九条が言った。
「待て」
白井の手が止まる。
「開けるのは、警察が来てからだ」
白井は九条を見た。
「読まないんですか」
「読む」
九条は答えた。
「でも、あなたの儀式としては読まない。証拠として読む」
白井の顔が、少しだけ崩れた。
真壁はその横顔を見た。
白井は、理解していた。
自分が望んだ読み方では読まれない。
それでも、心春の名前はもう消えない。
その両方を、同時に受け入れなければならないのだ。
二階堂が言った。
「白井透子さん。任意同行では済まないことはわかっていますね」
「はい」
「四人を殺した」
「はい」
「九条に薬を盛った」
「はい」
「宗像さんを五つ目として利用しようとした」
「……はい」
「死体の一部を切断し、血文字を残し、九条に疑いを向けた」
「はい」
「深町さんの遺体は、排水路と潮流を使って崖下へ流した」
「はい」
「久我山さんは九条の隣室で見つかるように運んだ」
「はい」
二階堂の声が震えた。
怒りのためだった。
「全部、あなたがやったんですね」
白井は目を伏せた。
「全部ではありません」
二階堂が顔を上げる。
「何?」
「十七年前に心春を消したのは、私ではありません」
防空壕の奥で、水滴が落ちた。
一つ。
また一つ。
時間が、十七年遅れて動き出す音のようだった。
真壁は、白井の言葉を聞いても、怒りが消えなかった。
むしろ、増えた。
「だからといって、四人を殺していい理由にはならない」
「わかっています」
白井は首を縦に振った。
「殺したことを正しいとは言いません。でも、見つけさせるには、あの人たちの罪を形にするしかなかった。私はそう思ってしまった」
真壁は、その言葉を許せないと思った。
だが同時に、その言葉の底にある十七年を、完全に切り捨てることもできなかった。
人は時々、正しい怒りを抱えたまま、取り返しのつかない場所へ行く。
白井透子は、そこまで行ってしまった。
心春の名前を戻すために、別の名前を奪った。
それは、もう戻らない。
防空壕の入口の方から、八尋の声がした。
「二階堂さん! 無線が繋がりました。警察が旧連絡橋の手前まで来ています。潮が引き次第、こちらへ向かうそうです」
二階堂が短く答えた。
「わかりました。誰も中へ入れないでください」
白井は、静かに箱の前で座っていた。
九条は壁にもたれながら、その姿を見ている。
宗像は、白井を見ていた。
「白井さん」
宗像が言った。
白井は顔を上げた。
「私は、心春ちゃんに謝ります」
その声は震えていた。
「でも、あなたに殺されるためじゃない。あなたの順番を完成させるためでもない。私が、私の言葉で、謝ります」
白井の目が揺れた。
宗像は続けた。
「十七年前、私は逃げました。心春ちゃんを見捨てました。それを、証言します。何度でも。裁判でも、記録でも、どこでも」
白井は、何か言おうとした。
だが言葉にならなかった。
真壁は、その場面を黙って見ていた。
宗像が生きている意味が、そこにあった。
死体の心ではなく、生きている人間の心が、ようやく言葉を持った。
真壁は白木の箱を見た。
開けるのは、警察が来てからだ。
九条の言葉は正しい。
だが真壁には、もう箱の中に何があるのか、おおよそわかっていた。
小さな靴。
髪留め。
骨片。
写真。
録音テープ。
そして、消された名前。
佐久良心春。
死者の名は、ようやく戻ってきた。
けれど、それを運んできた列車には、あまりに多くの死が乗せられていた。




