第十章 哭島列車は死者の名を運ぶ
警察が旧防空壕に到着したのは、潮が引き始めてからだった。
外の空は灰色に明るんでいた。雨は上がっている。濡れた木々の葉から水滴が落ちるたび、防空壕の入口付近で小さな音がした。遠くで海が鳴っている。さっきまで島を閉じていた海が、ゆっくりと後退していく。
それは解放の音ではなかった。
隠していたものが、隠しきれなくなる音だった。
白井透子は、防空壕の奥で座ったまま動かなかった。抵抗はしなかった。逃げもしなかった。二階堂が彼女のそばに立ち、到着した警察官に事情を説明している。
白木の箱は、警察の立ち会いのもとで開けられた。
蓋が外される瞬間、誰も声を出さなかった。
中には、丁寧に包まれたものがいくつか入っていた。
小さな靴。
錆びた髪留め。
割れた数珠の片割れ。
古い写真。
湿気で歪んだ紙片。
そして、白い布に包まれた骨片。
真壁彰は、それを見た時、胸の奥が重く沈むのを感じた。
大きなものではなかった。
人ひとりの人生を証明するには、あまりに小さい。
だが、その小ささが、かえって真実を突きつけていた。
佐久良心春は、ここにいた。
八歳の子どもが、ここにいた。
泣いて、助けを求めて、誰にも記録されず、十七年もの間、島の奥で名前ごと眠らされていた。
九条雅紀は、箱の中を見ていた。
彼の表情は変わらない。
だが、真壁にはわかった。
九条は怒っている。
死体を読む者は、死者に慣れているわけではない。死者の声を聞き逃すことに、誰よりも耐えられないだけだ。
「録音テープ」
警察官が言った。
透明な袋に入れられた古いテープがあった。泥と湿気で劣化している。すぐに再生できる状態ではない。だが、ラベルには幼い字で名前が書かれていた。
ここは、ひみつきち。
こころ。
真壁は、その字を見た。
心春。
春の心。
名前だけなら、あまりにも明るい。
その明るさが、防空壕の闇の中で痛かった。
白井が言った。
「心春は、録音するのが好きでした」
警察官が制止しようとしたが、二階堂が小さく手で止めた。
白井は続けた。
「父の古いレコーダーを持ち歩いて、何でも録っていました。波の音、蝉の声、電車の音、自分の歌。あの日も、持っていたんです」
「それが証拠になると思ったのか」
真壁が聞いた。
「はい」
「中身を確認したのか」
白井は首を振った。
「完全には。壊れていました。専門業者に出せば復元できるかもしれない。でも、私にはそこまでする権利も、お金もなかった」
「だから人を殺した?」
真壁の声が鋭くなる。
白井は何も言わなかった。
二階堂が、静かに言った。
「白井さん。十七年前のことを話してください」
白井は、箱の中の小さな靴を見つめた。
「私は、その日、熱を出していました」
声は淡々としていた。
「本当なら、心春と一緒に海辺へ行くはずでした。けれど私は寝ていた。心春は、兄の友人たちについていきました。五人の中に、心春が懐いていた大学生がいたんです。彼らは島の大人たちが隠していた資料を見つけた。古い防空壕に、保存会や開発業者が一時的に保管していた書類です」
「汐崎さんは当時、何をしていたんです」
二階堂が聞く。
「再開発会社の若手担当者でした。今ほど偉くはありません。でも、書類を隠す側にいた。五人がそれを見つけたと知って、久我山さんに連絡した」
「久我山さんは保存会の人間」
「はい。若手でしたが、島の古い道や防空壕に詳しかった。五人を追って、防空壕へ向かった」
「深町さんは」
「診療所の医師でした。夜になって、怪我をした心春が診療所へ行った。心春は五人が防空壕に閉じ込められていると言った。でも深町先生は、記録に残さなかった」
「なぜ」
「汐崎さんと久我山さんに言われたからです。大ごとにすれば、開発計画も保存会も終わる。五人は海へ行ったことにする。嵐の夜なら、事故にできる。深町先生は、それを止められなかった」
「牧野さんは」
「記者でした。当時、まだ地方紙の記者で、事件の匂いを嗅ぎつけた。でも、本当のことを書かなかった。五人が防空壕へ行った可能性も、心春という子がいた可能性も耳にしたはずです。でも記事にしたのは、童歌と怪異でした」
「五骸返し」
「はい」
白井は小さく頷いた。
「人は怪異を読むと、事件を読まなくなる。牧野さんはそれを知っていた」
真壁は黙って聞いていた。
白井の言葉は、整理されすぎていた。
十七年かけて、何度も頭の中で並べ替えたのだろう。誰が何をしたか。誰が何をしなかったか。何が罪で、何が沈黙だったか。彼女はそれをずっと分類していた。
そして、その分類を殺人の形にした。
「五骸童子は、あなたが作った名前ですか」
九条が聞いた。
白井は、九条を見た。
「いいえ」
「一般展示にはなかった」
「伝承の異聞に出てきます。ただし、怪物の名前ではありません。本来は、死者が失った五つのものを返すために、子どもたちが唱えた遊び歌のようなものだったと記録にあります」
「あなたは、それを殺人者の名前にした」
「はい」
「死者のために?」
「心春のために」
「違う」
九条の声は静かだった。
白井の目が揺れた。
「違いますか」
「違う」
九条は、箱の中の骨片を見た。
「心春さんのためではない。あなたのためだ」
防空壕の空気が止まった。
九条は続けた。
「死者は、もう他人の死を望めない。望んだとしても、それを生きている人間が実行する理由にはならない。あなたは心春さんの名前を戻したかった。でも同時に、自分が十七年生き延びたことを許せなかった」
白井は黙っていた。
「心春さんが死んだ日に、自分は熱を出して寝ていた。妹だけが行った。自分が一緒にいれば止められたかもしれない。助けられたかもしれない。そう考えた」
白井の唇が、わずかに震えた。
「だから、あなたは心春さんの代わりに島へ戻った。心春さんの代わりに資料を読み、心春さんの代わりに名前を探し、心春さんの代わりに大人たちを裁いた」
九条は言った。
「でも、あなたは心春さんじゃない」
白井の顔が、初めて歪んだ。
泣く一歩手前の顔だった。
けれど涙は落ちなかった。
「そんなことは」
白井は言った。
「そんなことは、わかっています」
「わかっていない」
九条は即座に言った。
「わかっていたら、人を殺してまで死者に役を与えない」
真壁は、九条を見た。
容赦のない言葉だった。
だが、必要な言葉だった。
白井は俯いた。
「私は、心春を返したかっただけです」
「返ってこない」
真壁が言った。
白井が顔を上げる。
「名前は戻る。記録も修正できるかもしれない。真相も明らかになるかもしれない。だが、心春さんは返ってこない」
真壁は、白木の箱を見た。
「それでも、名前は戻さなきゃならない。そこまでは正しい。でも、殺して戻す必要はなかった」
白井は、黙って聞いていた。
二階堂が、静かに手錠を取り出した。
「白井透子さん」
その名を聞いて、白井は少しだけ目を細めた。
「佐久良透子です」
二階堂は一瞬止まった。
それから、言い直した。
「佐久良透子さん。汐崎千広さん、牧野奏子さん、深町静真さん、久我山峻介さんへの殺人容疑、九条雅紀への傷害容疑、宗像恵さんを事件の見立てに利用しようとした一連の犯行計画、死体損壊および証拠偽装の疑いで、身柄を確保します」
白井は頷いた。
「はい」
手錠の音が、防空壕の中で小さく響いた。
軽い音だった。
それなのに、十七年分の時間が閉じる音に聞こえた。
白井は最後に、箱の中を見た。
「心春」
小さな声だった。
「ごめんね」
それは、四人を殺したことへの謝罪ではなかった。
妹を置いて生き延びた姉の謝罪だった。
真壁は、その言葉だけは止めなかった。
防空壕を出ると、空は少し明るくなっていた。
旧連絡橋の方から、警察車両のサイレンが微かに聞こえる。潮が引き、島が再び本土とつながり始めているのだろう。
だが真壁には、その音が遠く感じられた。
島は、ようやく閉じることをやめた。
けれど、開いたからといって、失われたものが戻るわけではない。
戻るのは、名前だけだ。
そして名前は、ときに命より重い。
旧迎賓館へ戻ると、宗像恵は食堂の椅子に座った。
由良一華が隣で泣いていた。八尋美緒は救急隊の到着を待つため、落ち着かない様子で廊下と玄関を行き来していた。麻生郁馬は何も撮らなかった。撮れなかったのかもしれない。
白井が警察に付き添われて戻ってくる。
宗像は、その姿を見た。
何か言おうとした。
だが声にならなかった。
白井も、宗像を見た。
二人の間に、十七年前の夜があった。
十三歳の少女と、妹を失った少女。
どちらも子どもだった。
どちらも、大人になってからもあの夜を終わらせられなかった。
白井は、宗像に頭を下げた。
宗像は泣いた。
言葉はなかった。
言葉がない方が、正しいこともある。
九条は玄関ホールの柱にもたれていた。
二階堂が近づく。
「病院行きだな」
「必要ない」
「必要ある」
「事件は終わった」
「終わったから行くんだよ」
九条は不満そうに目を伏せた。
真壁は、その横に立った。
「九条」
「何だ」
「疑った」
「聞いた」
「悪かった」
九条は真壁を見た。
「悪くない」
「いや、悪かった」
「推理しただけだ」
「それでもだ」
九条は少し黙った。
それから、かすかに息を吐いた。
「普通に推理したら、俺が犯人になった」
「ああ」
「だから潰した」
「ああ」
「なら、それでいい」
真壁は少しだけ笑った。
「お前、面倒くさいな」
「今さらか」
二階堂が横から言う。
「二人とも面倒くさい」
その声には、ようやく少しだけいつもの調子が戻っていた。
外で、哭島列車の汽笛が鳴った。
復刻記念運行として始まった列車は、死体と血文字と消された名前を運ぶ列車になった。観光のために飾られた過去は、剥がされ、その下から本当の傷が現れた。
再生。
真壁は、最初に駅で見た看板の言葉を思い出した。
死んだ場所に、よく似合う言葉ではない。
だが、完全に間違っていたわけでもないのかもしれない。
再生とは、綺麗に作り直すことではない。
腐ったところを見つけ、膿を出し、傷として残すことだ。
それでも生きることだ。
哭島は、これからようやく傷になる。
真壁はそう思った。




