最終章 終着駅には名前が残る
数日後、佐久良心春の名前は、十七年前の哭島五人失踪事件の再捜査資料に加えられた。
正式な発表には時間がかかった。
骨片の鑑定、録音テープの復元、当時の資料の再確認、関係者の供述、白井透子――佐久良透子の自供。どれも簡単には進まなかった。十七年という時間は、証拠を劣化させ、人の記憶を曖昧にし、責任の所在を複雑にする。
だが、名前だけは先に戻った。
佐久良心春。
十七年前、哭島にいた八歳の少女。
海難事故の犠牲者ではない。
怪異譚の一部でもない。
存在しなかった子どもでもない。
一人の人間だった。
真壁彰は、その報告書を閉じた。
警視庁の会議室は、哭島とはまるで違う匂いがした。乾いた紙、コーヒー、空調の風、遠くのコピー機の音。窓の外には灰色のビルが並んでいる。雨は降っていない。
二階堂壮也が、向かいの席で資料をめくっていた。
「白井さん、全部話したらしい」
「ああ」
「ただし、心春さんの声が入ったテープの中身については、まだ完全には復元できていない」
「それでも十分だろ」
「十分かどうかは、裁判で決まる」
二階堂の声は現実的だった。
真壁は頷いた。
事件の終わりは、真相がわかった瞬間ではない。書類になり、供述になり、証拠になり、法廷へ行き、判決になる。そのどこかで、また何かが失われることもある。
それでも、始まらなければ終わらない。
哭島の事件は、ようやく始まったのだ。
「宗像さんは?」
真壁が聞く。
「事情聴取には応じている。十七年前、心春さんを見たことも、助けを求められたことも、自分が逃げたことも、全部話すと言っている」
「そうか」
「白井さんに面会を求めるかは、まだ迷っているらしい」
「迷えばいい」
二階堂が資料から目を上げた。
「珍しく優しいことを言うな」
「迷う時間くらいあっていい」
「そうだな」
二階堂は椅子にもたれた。
「九条は?」
「病院に行った」
「行かされた、だろ」
「ああ」
「文句言ってた?」
「ずっと言ってた」
二階堂は少し笑った。
「元気じゃないか」
「元気ではない」
「でも口は動く」
「それはいつもだ」
二人はしばらく黙った。
会議室の時計の秒針が進む。
真壁は、報告書の端に挟まれた一枚の写真を見た。
復元された古い写真のコピーだった。
海辺に並んだ若者五人。
その端に、小さな女の子がいる。
髪を二つに結び、眩しそうに目を細めている。笑っているのか、笑う直前なのか、わからない。けれどその顔には、確かにそこにいた人間の明るさがあった。
写真の裏には、幼い字で名前が書かれていた。
こころ。
二階堂が、静かに言った。
「五人じゃなかったんだな」
「ああ」
「ずっと、五人失踪事件と呼ばれてきた」
「これからは変わる」
「変わるかな」
「変えなきゃならない」
二階堂は頷いた。
「そうだな」
会議室の扉が開いた。
九条雅紀が入ってきた。
病院から直接来たのだろう。顔色はまだ少し悪い。白い髪はいつもより乱れている。だが歩き方はしっかりしていた。手には封筒を持っている。
「退院したのか」
真壁が聞くと、九条は不快そうに答えた。
「入院していない」
「病院に捕まってただけか」
「検査だ」
二階堂が言う。
「結果は」
「過労、軽い薬物反応、喘息の悪化」
「全部じゃないか」
「生きている」
「基準が低い」
九条は椅子に座り、封筒を机に置いた。
「心春さんの骨片について、速報が出た」
真壁と二階堂が同時に顔を上げる。
九条は封筒から紙を出した。
「年齢推定は、八歳前後。性別は現段階では断定困難。DNAは佐久良家の親族資料と照合中。ただ、靴や髪留め、写真、録音テープ、白井さんの供述を合わせれば、佐久良心春さんの遺留品と見てほぼ間違いない」
二階堂が息を吐いた。
「戻ったな」
九条は資料を見たまま言った。
「まだだ」
「何が」
「名前が戻っただけだ。何が起きたかは、まだ全部戻っていない」
真壁は九条を見た。
「全部戻ると思うか」
「思わない」
九条は即答した。
「十七年経っている。死者は話せない。記録は消され、証拠は壊れ、人は自分に都合よく覚える。全部は戻らない」
「じゃあ、何ができる」
「残ったものを読む」
九条は、写真を見た。
「読めるところまで」
真壁は、その言葉を聞いて、哭島の防空壕を思い出した。
湿ったコンクリート。
白木の箱。
小さな靴。
白井透子の声。
読まないんですか。
読む。
でも、あなたの儀式としては読まない。証拠として読む。
九条の言葉は、あの時から変わっていない。
死者を慰めるためではない。
生者を裁くためでもない。
事実を、事実として置くために読む。
それが、死体を読むということなのだろう。
二階堂が、写真を覗き込んだ。
「この写真、公開されるかな」
「遺族次第だ」
真壁が言う。
「でも、どこかには残る」
「ああ」
「展示パネルも、作り直しだな」
「哭島再生プロジェクトが残ればな」
二階堂は苦く笑った。
「残るかな」
「残すなら、正しく残すべきだ」
九条が言った。
二階堂が肩をすくめる。
「それ、誰かに言わせたいな」
「誰に」
「真壁」
「嫌だ」
「似合うぞ。死んだ場所に再生って言葉は似合わない、とか言ってたじゃないか」
真壁は顔をしかめた。
「覚えてるのか」
「覚えてる」
九条が淡々と言った。
「駅で言いそうな顔をしていた」
「顔で読むな」
「書いてあった」
二階堂が笑った。
久しぶりに、ちゃんとした笑いだった。
その笑いはすぐに消えたが、消えても悪くなかった。
事件は終わっていない。
裁判も、再捜査も、報道も、遺族の時間も、これから続く。
白井透子の罪も消えない。
汐崎、牧野、深町、久我山がしたことも、殺されたことで帳消しにはならない。
宗像の沈黙も、十三歳の恐怖も、大人になってからの後悔も、簡単には整理できない。
だが、宗像は生きている。
それだけは、違っていた。
彼女は、自分の言葉で証言できる。
死体として置かれるのではなく、生者として記録に残せる。
犯人の順番が崩れたことで、一つだけ守れたものがあった。
佐久良心春は戻らない。
何一つ、きれいには終わらない。
それでも、名前は戻った。
真壁は写真を見た。
海辺に立つ小さな少女。
髪を二つに結び、眩しそうに目を細めている。
その背後には、まだ何も知らない海が広がっていた。
「哭島列車は」
二階堂がぽつりと言った。
「何を運んだんだろうな」
真壁は写真から目を離さずに答えた。
「死者の名前だろ」
九条が、静かに付け加えた。
「それと、生きている人間の罪」
会議室に沈黙が落ちた。
重い沈黙だった。
だが、哭島の防空壕で感じたような、閉じた沈黙ではなかった。
開いた沈黙だった。
誰かがこれから言葉にしていくための、余白のような沈黙。
真壁は報告書を閉じた。
窓の外では、午後の光がビルの隙間に落ちている。
雨は降っていない。
それでも真壁には、遠くでまだ海の音が聞こえる気がした。
哭島の海。
死体を運び、嘘を隠し、最後には小さなハンカチまで運んできた海。
あの海は、たぶん何も裁かない。
ただ流すだけだ。
流されたものを見つけるのは、人間の仕事だ。
真壁は立ち上がった。
「行くぞ」
二階堂が聞く。
「どこへ」
「仕事だ」
「余韻がないな」
「余韻で事件は片づかない」
九条が封筒を持って立ち上がる。
「正しい」
二階堂は苦笑した。
「お前も来るのか」
「資料を返す」
「病院に戻れ」
「戻らない」
「戻れ」
いつものやり取りだった。
真壁は会議室の扉を開けた。
廊下の向こうへ、三人の足音が重なっていく。
終着駅は、終わりの場所ではなかった。
誰かが終わったことにした場所に、もう一度名前を置くための場所だった。
哭島列車は、その名前を運んだ。
佐久良心春。
その名はもう、海にも、雨にも、童歌にも消されない。
了
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