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哭島列車と五骸童子 ―死者を悼む歌の見立て殺人―  作者: 神谷利休|アコンプリス


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第八章 もう犯人の順番には乗らない

 夜が明けても、誰も死ななかった。

 それは、本来なら当たり前のことだった。

 だが旧迎賓館の食堂に残った者たちは、その当たり前を誰一人として当たり前には受け止められなかった。

 窓の外では、雨がほとんど止みかけていた。空はまだ鉛色に曇っている。細い霧のような雨が、風に混じって窓ガラスを濡らしていた。海から吹き上げる風は湿っていたが、昨夜までのような荒々しさはない。潮は少しずつ引き始めているのだろう。遠くで波が岩を叩く音が、間を置いて聞こえた。

 食堂の中央には、鍵束が置かれていた。

 古い真鍮色の鍵。客室、倉庫、資料室、土蔵、厨房、管理室。紙札の文字は湿気で少し滲んでいる。昨夜、その鍵束は人を閉じ込めるためではなく、人を守るためにそこに置かれた。

 真壁彰は、食堂の入口に立ったまま、夜明けの光を見ていた。

 誰も死ななかった。

 その事実が、事件の流れを変えた。

 犯人は、舌、耳、手、眼と順番を置いてきた。最後に残ったのは心。童歌なら、次に来るのは「祈らぬ心を土へ」だった。宗像恵は、自分が十七年前に少女を見捨てたことを告白した。彼女は最後の駒にされてもおかしくなかった。

 だが、そうはさせなかった。

 二階堂壮也が全員を食堂に集め、真壁が出入口を見張った。八尋美緒と由良一華が宗像のそばにつき、常盤怜は鍵束を差し出した。麻生郁馬はカメラもスマホもテーブルに置いた。白井透子もまた、食堂から出なかった。

 犯人は、五つ目を置けなかった。

 それは事件が止まったことを意味しない。

 むしろ、初めて犯人の意図が乱れたことを意味していた。

 九条雅紀は、窓際の椅子に座っていた。

 顔色はまだ悪い。毛布を肩に掛けられているが、本人はそれを嫌がって何度か落とそうとした。そのたびに二階堂が無言で掛け直す。最終的に九条は諦めた。だが、目だけは眠っていない。

 死体を見る時の目だった。

 いや、今は死体を見ているわけではない。

 死体が置かれなかったことを見ている。

「真壁」

 九条が言った。

「深町さんの現場を見に行こう」

「ああ」

「白井さんが食堂を離れていたのは、四分四十秒前後だったな」

 二階堂が腕時計を見たように、当時の記憶をたどる。

「そうだ。正確には四分四十秒くらい。俺が測っていた」

「その時間で、深町さんを呼び出し、殺し、右手を切り離し、崖下へ運び、血文字を残して戻ることはできない」

「だから確認する」

 真壁は言った。

 二階堂は頷いた。

「走ってみるか」

「走る」

「元ソフトテニス部の刑事の出番だな」

「お前、まだ言うのか」

「言う。数少ない俺の運動系アピールだ」

 九条が低く言った。

「転ぶなよ」

 二階堂が睨む。

「お前は黙って座ってろ」

「行く」

「駄目だ」

「深町さんの現場は、俺が見る必要がある」

 二階堂が即座に返した。

「お前の体調を見る限り、現場より病院の方が必要だ」

「見なければ、間違える」

 九条は真壁を見た。

「深町さんの死体は、ほかの三つと違う。見立ては同じでも、運び方が違う。そこを間違えると、犯人に届かない」

 二階堂は反論しかけ、やめた。

 真壁は短く言った。

「連れていく。ただし、歩けなくなったら戻す」

「歩く」

「それは答えになっていない」

「倒れたら置いていけ」

「置いていくか」

 二階堂が吐き捨てるように言い、九条の腕を取った。

「俺が支える。真壁、先に行け」

 食堂には人を残した。

 宗像は食堂の奥に座らせ、由良と八尋をそばにつけた。麻生には、スマホとカメラをテーブルに置いたままにさせた。白井透子にも、席を立たないよう二階堂が念を押した。中庭側の窓も、廊下側の扉も閉じた。

 常盤には通信機を持たせたまま、食堂に残ってもらうことにした。

 真壁は宗像に言った。

「ここから動かないでください」

 宗像は静かに頷いた。

「私は、逃げません」

「逃げるなと言っているんじゃありません」

 真壁は言った。

「生きていてください」

 宗像の目が揺れた。

 返事はなかった。

 だが、その沈黙には昨夜とは違う重さがあった。

 外へ出ると、雨はほとんど霧のようになっていた。

 雲は低いが、風は弱まっている。海の音は相変わらず大きい。旧迎賓館の裏手へ回ると、倉庫棟と、そこから崖へ下りる旧道が見えた。

 深町の時、白井は食堂から一度離れた。鍵台帳と古地図を確認すると言った。二階堂が時計を見た。四分四十秒。戻ってきた白井は、資料室の棚が崩れていたと説明した。

 その後、深町が黒いレインコートの人物を見て、裏手へ向かった。

 深町は崖下の入り江で見つかった。

 それだけを見れば、白井が深町を誘導し、殺したように見える。

 だが時間が足りない。

 真壁は倉庫の前で足を止めた。

「二階堂」

「ああ」

「走るぞ」

 九条が横から言う。

「何を」

「白井さんが食堂を離れた時の時間で、ここから深町さんの発見場所まで往復できるか確かめる」

 二階堂が腕時計を確認した。

「条件は?」

「食堂から資料室前を通って、裏口、倉庫前、旧道、崖下の入り江。血文字のある中腹を経由。戻りは同じ道」

「犯行込みなら本当はもっとかかる」

「まず移動だけでいい」

 二階堂は上着を脱ぎ、袖をまくった。

「よし、準備は整った」

「怪我だけはするなよ」

 九条が低く言う。

「心配するなら自分の心配をしろ」

 二階堂が腕時計を押した。

「行くぞ」

 二人は走った。

 泥の旧道は、予想以上に足を取られた。倉庫の裏手から下る石段は滑りやすく、手すりは途中で折れている。雨は弱まっていても、地面は水を吸っている。中腹の展望台までで、すでに息が上がった。

 血文字のあった場所を通過する。

 押した手は崖へ。

 そこからさらに崖下の入り江へ下る。

 岩場に出ると、波の音が一気に大きくなった。ここに深町の遺体があった。右手を失い、海水を吸ったレインコートをまとい、崖から落ちたにしては損傷が偏っていた。

 二階堂が腕時計を見る。

「六分半」

「戻る」

 二人は引き返した。

 上りの方がきつかった。

 泥が滑る。石段で足が沈む。息が喉に引っかかる。真壁は途中で一度、手をついた。二階堂も展望台の手前で舌打ちした。

 倉庫前へ戻った時、二階堂は腕時計を止めた。

「十二分二十秒」

 真壁は息を整えながら言った。

「十二分以上かかる。現刑事の男が無理なら、白井さんには難しい」

 二階堂は膝に手をつき、苦しそうに笑った。

「ああ。俺でも無理だ。白井さんにはもっと難しい」

 九条が、倉庫の壁にもたれたまま静かに聞いていた。

「つまり」

 二階堂が息を整えながら言う。

「白井さんが直接、深町さんの死体をあそこまで運んだ線は薄い」

「四分四十秒では無理だ」

「共犯がいれば別だが」

 真壁は九条を見た。

 九条が口を開いた。

「人間が運んだとは限らない」

 二階堂が顔を上げる。

「何?」

「死体は、歩かない。だが、流れる」

 真壁は九条を見る。

「潮流か」

 九条は頷いた。

「深町さんのレインコートは、雨だけじゃなく海水を吸っていた。崖から落ちたなら、落下後に波をかぶったと考えられる。だが損傷は、崖を転がったものとしては偏っていた。最初から海に近い場所で殺され、浮力を使って入り江へ運ばれたなら説明できる」

 二階堂の顔が変わった。

「浮力?」

「レインコートは空気を含む。さらに何か浮きになるものを括りつければ、大人の身体でも短距離なら潮に乗せられる。完全に浮かせる必要はない。半分沈みながらでも、潮が押せば動く」

 真壁は、崖下の海を見た。

 波は岩に当たり、白く砕けている。だが、ただ荒れているだけではない。水が一定の方向へ巻き込まれている。入り江の外側から内側へ、斜めに流れが入っているように見えた。

 二階堂が言った。

「常盤さんを呼んでこよう」

「ああ」

 二階堂は一度食堂へ戻り、八尋に通信機を預けた。

「何か入ったらすぐ呼んでください。常盤さんを借ります」

 数分後、常盤怜がやってきた。

 顔色は悪い。だが、足取りは崩れていない。彼は真壁たちの前に立つと、崖下の入り江を見て、小さく息を呑んだ。

「常盤さん」

 真壁が言った。

「この入り江に、物が流れ着くことは?」

「あります」

 常盤はすぐに答えた。

「島の東側から回り込む流れがあります。昔は、漂着物を拾う場所だったと聞いています」

 九条が目を細めた。

「東側」

 真壁はその言葉を頭の中で地図に置いた。

 旧連絡橋。

 東側の岩場。

 崖下の入り江。

 潮の流れ。

 そこへ、二階堂が海辺へ数歩近づいた。

「あれ」

 彼は岩の隙間を見ていた。

 波に濡れた石の間に、白い布が引っかかっている。

 二階堂は近づこうとして、真壁に止められた。

「触るな」

「わかってる」

 二階堂は懐中電灯を向けた。

 白い布。

 端に、細い青の縁取り。

 二階堂の表情が変わった。

「あれ、これ俺のハンカチ……」

 真壁は息を止めた。

 旧連絡橋の手前で、二階堂が落としたハンカチ。

 雨と風に飛ばされ、橋の方へ転がっていったはずのもの。

 それが、崖下の入り江に流れ着いている。

 常盤が言った。

「潮流の関係でしょう。橋の下を抜けたものが、東側の岩場を回って、この入り江に入ることがあります」

 二階堂はゆっくり言った。

「流されてきたってこと?」

「はい。軽いものなら」

 真壁は、ハンカチを見ていた。

 軽いものなら。

 布なら。

 木片なら。

 発泡材なら。

 浮きなら。

 死体なら。

 いや、死体そのものではない。

 浮きにつながれた死体なら。

 真壁の中で、線が一本つながった。

 深町は、崖から落ちたのではない。

 崖下へ運ばれたのでもない。

 海が運んだ。

「九条」

 真壁が呼ぶ。

 九条は岩場を見ていた。

「あるはずだ」

「何が」

「浮きに使ったものの残骸。ロープ。発泡材。古い救命具。何でもいい。深町さんの身体を一時的に浮かせるために使ったものが、どこかに残っている」

 二階堂がすぐに周囲を照らした。

 岩の隙間。

 潮だまり。

 海藻の絡んだ低い石。

 真壁も別の方向を照らす。

 深町の遺体を見つけた時、二階堂が一瞬照らして見過ごした場所。波に揉まれた発泡材の欠片。古いロープの切れ端。あの時は、荒れた入り江では珍しくない漂着物に見えた。

 だが、今は違う。

 真壁は岩の間に挟まった発泡材を見つけた。

 白い発泡材。

 端に赤黒い汚れがついている。

 その近くに、ロープの切れ端があった。切断面は新しい。海水で濡れているが、繊維のほつれはまだ鋭い。

「これだ」

 二階堂が近づく。

「血か」

「可能性がある」

 九条は座り込むようにして、少し離れた場所から見た。

「ロープに引きずった跡がある。発泡材は、何かに括られていた。深町さんの身体か、右手か」

「右手」

 二階堂が呟く。

「深町さんの右手だけ、別に流した?」

「可能性はある」

 九条は呼吸を整えながら言った。

「本体と右手を同じ場所で見つけさせる必要はない。むしろ、別々に流すことで、発見順や発見場所を調整できる」

 真壁は海を見た。

 潮流。

 旧診療所の排水路。

 島の古い施設は海へ水を逃がす構造が多い。

 白井が最初に言っていた。

 旧迎賓館や診療所跡にも、古い排水路が残っています。

 今はほとんど塞がれているはずですが。

 はず。

 その言葉が、今になって重みを持った。

「深町さんは、どこで殺された」

 二階堂が聞いた。

「旧診療所跡か、その近くの排水路だろう」

 九条は答えた。

「深町さんにとって、呼び出されれば行かざるを得ない場所。十七年前の記録が欠けた場所。そこで殺し、右手を切り離し、本体と右手を別々に流した」

「崖下で見つかったのは」

「潮が運んだからだ」

「血文字は」

 真壁が聞いた。

「中腹の展望台に先に書いておける。血は別のものでもいい。深町さんの血である必要はない」

 二階堂が息を吐いた。

「じゃあ、犯人が崖下まで往復する必要はない」

「ない」

「必要なのは」

 真壁が言葉を継いだ。

「深町さんを、死ぬ前に旧診療所跡へ呼び出すこと。あるいは、そこへ向かわせること。深町さんだけが反応する言葉を使って」

 常盤が震える声で言った。

「そんなこと、本当に可能なんですか」

 九条が答えた。

「可能かどうかではない」

「では?」

「起きている」

 それは、九条らしい言い方だった。

 真壁は発泡材とロープを見た。

 二階堂のハンカチが、岩の隙間で波に揺れている。

 軽いものが流れ着く。

 浮きに括ったものも流れ着く。

 死体も、発見場所へ流せる。

 そして、発見された順番を童歌に合わせられる。

 殺害順ではない。

 発見順だ。

 真壁の中で、島の地図が変わった。

 海。

 灯。

 崖。

 祠。

 土。

 五つの場所。

 そこに死体が置かれたのではない。

 そこへ死体が見つかるよう、誘導されていた。

 血文字は、死体の意味を決めるための札。

 童歌は、殺人の手順ではなく、こちらの視線を誘導する順番。

 犯人は順番を作っているのではない。

 順番を信じさせている。

「童歌に従っていたのは、犯人じゃない」

 二階堂が振り向く。

 九条も真壁を見る。

 真壁は続けた。

「俺たちだ」

 波が岩を叩いた。

 二階堂のハンカチが、もう一度白く揺れた。

 それは小さな布だった。

 だが、真壁にはそれが、島全体の仕掛けをほどく鍵に見えた。

「殺害順じゃない。発見順だ。犯人は、童歌の順に殺していたんじゃない。童歌の順に、俺たちが見つけるようにしていた」

 九条が静かに言った。

「五つ目を置けなかったことで、その順番が崩れた」

「ああ。――終わりだ」

 真壁は頷いた。

「もう犯人の順番には乗らない」

 旧迎賓館へ戻る道で、雨は完全に止んだ。

 雲の向こうに、薄い光が差し始めている。

 だが、島はまだ閉じている。

 旧連絡橋は潮の下。

 警察はまだ来ない。

 旧迎賓館に戻ると、宗像は食堂の椅子に座っていた。

 由良がその手を握っている。八尋は彼女のそばに立ち、常盤は鍵束を見た。麻生は顔を上げた。誰も死んでいない。誰も土蔵に置かれていない。

 そのことが、犯人にとって何を意味するのか。

 真壁は考えた。

 食堂には、長い夜の疲労が溜まっていた。

 誰も大声を出さない。誰も動かない。だが、空気だけが少し変わっていた。犯人の順番が崩れたという事実が、全員の中に静かに落ちている。

 宗像が、かすれた声で言った。

「心春ちゃんは……どこにいるんですか」

 その問いに、すぐ答える者はいなかった。

 真壁は食堂の壁の地図の前に立った。

 全員の視線が集まる。

 地図には、五つの点があった。

 列車。

 灯台。

 崖。

 祠。

 土蔵。

 そして、まだ誰も十分には見ていない場所がある。

 旧診療所跡。

 排水路。

 旧防空壕。

 佐久良心春が、最後に向かった場所。

 真壁は、地図から視線を外した。

 この島で旧防空壕の場所を知っている人間は限られている。

 保存会の人間。

 施設管理に関わる人間。

 そして、古い資料を読み込んできた人間。

 真壁は、食堂にいる一人を見た。

 名前は、まだ呼ばなかった。

 ただ、目だけで問いかけた。

 相手はしばらく動かなかった。

 やがて、ゆっくり顔を上げた。

 その顔には、逃げようとする者の焦りはなかった。

 かといって、すべてを諦めた者の空虚さでもなかった。

 長い間閉じていた扉を、自分の手で開けるしかないと知った人間の顔だった。

「旧防空壕へ案内してください」

 真壁は言った。

 食堂が静まり返る。

 長い沈黙のあと、低い声が返ってきた。

「はい」

 その声は、ひどく穏やかだった。

 真壁は、ようやくわかった。

 逃げるつもりがない。

 最初から、逃げるためにここへ来たのではない。

 帰すために来たのだ。

 十七年前、存在ごと消された少女を。

 佐久良心春を。

 そして、そのために死体を並べた。

 いや、死体を並べたのではない。

 発見させた。

 誰もが、見なかったものを見るように。

 真壁は拳を握った。

 事件は、もう終わりに近づいている。

 だが、真相はまだ土の下にある。

 掘り起こすなら、今しかなかった。


読んでくださってありがとうございます。

第九章・第十章・最終章→更新しました。

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