第六章 見た眼は祠へ
真壁彰は、ベッドへ駆け寄った。
「九条」
返事はない。
九条雅紀は、枕に頭を預けたまま動かなかった。顔色は白い。いつもの白さではない。血が引いたような白だった。唇の色も薄い。片腕がベッドの縁から落ち、指先が床すれすれで止まっている。
真壁は、その手首に触れた。
脈はある。
細いが、確かにある。
「生きてる」
真壁が言うと、廊下で誰かが息を吐いた。
二階堂壮也がすぐ横に来た。
「呼吸は」
「浅い」
二階堂は九条の肩を軽く叩いた。
「九条。起きろ。九条」
反応はない。
眉すら動かさない。
真壁は九条の頬を軽く叩いた。
「九条」
ようやく、九条の睫毛がわずかに震えた。
だが、目は開かない。
「眠ってるだけか」
二階堂の声には、安心よりも警戒があった。
真壁は部屋を見回した。
昨夜確認した時と、家具の位置はほとんど変わっていない。机。椅子。クローゼット。窓。花のない花瓶。壁際のオイルヒーター。机の上には、未開封のペットボトルが置かれている。いや、未開封ではない。
キャップが開いていた。
真壁は近づいた。
水は半分ほど減っている。
「飲むなと言ったのに」
二階堂が低く言った。
「九条が自分で飲んだとは限らない」
真壁はボトルに触れなかった。
ラベルには旧迎賓館の備品名が印刷されている。キャップのリングは切れている。机の端には水滴がある。コップはない。直接飲んだのか、誰かが飲ませたのか。
二階堂がベッド脇にしゃがみ、九条の呼吸を見た。
「薬か」
「可能性はある」
「九条が薬を盛られた?」
「あるいは、自分で飲んだ水に何か入れられていた」
二階堂は舌打ちした。
「昨夜、俺の水筒を飲めと言ったのに」
「飲まなかったんだろ」
「そういう奴だ」
二階堂は吸入薬のケースを確認した。ベッド脇に落ちている。使った跡がある。昨夜使ったものか、夜中に使ったものかはわからない。
「発作は?」
「今は強くない。眠りが深すぎる」
真壁は九条の首元を見た。
発汗がある。
額に薄い汗が浮いている。熱があるようにも見える。だが、呼吸が止まりそうなほどではない。死んでいるわけではない。九条は眠っている。眠らされている、と言った方が近いかもしれない。
その時、廊下から久我山の部屋を叩く音がした。
「久我山さん!」
八尋の声だった。
二階堂が立ち上がる。
「九条は動かすな」
「わかってる」
「真壁」
「行け。俺は九条を見る」
「一人にするな」
「しない」
二階堂は廊下へ戻った。
真壁は九条のそばから離れなかった。
ベッドの下を見る。
何もない。
クローゼットは閉まっている。
窓は内側から鍵がかかっている。窓枠に泥はない。カーテンも乱れていない。床には目立つ足跡はない。ただ、ベッドから机までの間に、水滴のようなものがいくつか落ちていた。
水か。
雨か。
九条が夜中に起きて、机の水を飲んだ。
そして、ベッドへ戻った。
そう考えるのが自然だ。
だが、この島では自然なことほど疑わしい。
九条の部屋の鍵は、さっき扉を壊した時に内側から落ちた。少なくとも扉は内側から施錠されていた。予備鍵は消えている。窓は閉まっている。九条はベッドで眠っている。
密室。
そう言ってしまえば簡単だった。
だが、本当に密室かどうかを決めるには早い。
真壁は部屋の壁を見た。
久我山の部屋側の壁。
そこには大きなクローゼットがある。古い洋館にありがちな、壁に埋め込まれた収納。昨夜、二階堂が中を確認した。上着用のハンガーと毛布が入っているだけだった。奥行きは妙に深い。
真壁はクローゼットへ近づいた。
開ける。
中は暗い。
毛布が二枚、畳んで置かれている。上部には古い棚。床には埃が薄く積もっている。
その埃に、線があった。
真壁は屈んだ。
クローゼットの奥、壁の下部。板と板の継ぎ目に沿って、埃がわずかに切れている。新しい傷ではない。だが、何かが動いたような跡だった。
「真壁!」
二階堂の声が廊下から飛んだ。
「久我山さんの部屋が開かない。内側から塞がれてる」
真壁は九条を見た。
九条はまだ目を閉じている。
呼吸は浅い。
眠っている。
いや、眠らされている。
「九条はまだ起きない」
真壁は廊下へ出た。
九条の部屋の扉は開けたままにした。八尋が入口に立つ。顔色は悪いが、真壁の言葉を待っている。
「八尋さん、ここを見ていてください。九条に触らない。水にも触らない。誰も入れない」
「は、はい」
久我山の部屋の前には全員が集まっていた。
扉は閉まっている。二階堂が鍵を差し込んでいるが、回っても扉が開かない。内側から何かがつっかえている。
「チェストか何かで塞がれてる」
二階堂が言った。
「中から?」
「たぶんな」
常盤が震える声で言った。
「久我山さん、返事をしてください。久我山さん!」
返事はない。
二階堂は真壁を見る。
「壊すぞ」
真壁は頷いた。
「やる」
二人で扉に体をぶつける。
一度目、扉はわずかに軋んだだけだった。
二度目、内側で何かが滑る音がした。
三度目、重い家具が床を擦る音がして、扉が数センチ開いた。
隙間から、冷たい空気が流れた。
真壁はその匂いで、もうわかった。
血の匂い。
古い木と雨の匂いに混じって、鉄の匂いがする。
真壁と二階堂は扉に肩を当て、さらに押した。
内側に置かれていたチェストが床を削りながら動く。ようやく人一人が通れる隙間ができた。
「全員、下がってください」
二階堂が言った。
麻生が口元を押さえ、由良が宗像にしがみつく。白井透子は、廊下の端でじっと扉を見ていた。常盤は、今にも倒れそうな顔をしている。
真壁が先に入った。
久我山峻介の部屋は、九条の部屋より広かった。
ベッド、机、ソファ、チェスト、クローゼット。壁には古い絵がかかっている。窓際には花瓶が倒れ、水が床に広がっていた。カーテンは半分閉じられている。窓は閉まっている。
久我山は、床に倒れていた。
ベッドと机の間。
仰向けに近い姿勢で、片腕を胸の上に置き、もう片方の腕を床へ伸ばしている。顔は横を向いていた。右目のあたりが、赤黒く潰れている。
いや、潰れているのではない。
右目がなかった。
眼窩の周囲は血で濡れ、頬に黒い筋が流れている。血はすでに粘りを失い、床の水と混じって薄く広がっていた。身体の下にできた血だまりは、思ったより大きくない。
九条がいれば、もっと正確に言っただろう。
だが九条は隣の部屋で眠っている。
真壁は、その事実を強く意識した。
「久我山さん」
二階堂が呼んだ。
返事はない。
真壁は膝をつき、脈を確認した。
ない。
呼吸もない。
「死んでる」
廊下から、小さな悲鳴が上がった。
由良か、宗像か、八尋か。
真壁にはわからなかった。
わからなくていい。
今見るべきものは、目の前にある。
壁を見る。
血文字は、窓際の白いカーテンに書かれていた。
雨で滲んだように、赤黒い文字が布地に広がっている。
――見た眼は祠へ
――五骸童子
二階堂が、奥歯を噛む音が聞こえた。
「四つ目か」
真壁は返事をしなかった。
舌。
耳。
手。
眼。
順番は進んでいる。
だが、死んだ順番なのか。
見つけさせられた順番なのか。
真壁の中で、その違和感はさらに大きくなっていた。
「現場保存」
二階堂が言った。
「全員、部屋に入らないでください。廊下へ下がってください。常盤さん、誰も一階へ降ろさない。麻生さん、スマホを出さないで」
「撮りません」
「出すなと言いました」
麻生は両手を上げた。
真壁は久我山の周囲を見た。
花瓶の水。
床の水染み。
窓辺の泥。
椅子の位置。
チェストが扉を塞いでいた。
内側から閉じ込められたように見える。
そして、隣室では九条が眠っていた。
九条の部屋も内側から施錠されていた。
予備鍵は消えていた。
九条は眠っていた。
久我山は死んでいた。
真壁は、胸の奥が冷えていくのを感じた。
普通に考えれば、九条ではない。
九条は寝ていた。
薬を盛られた可能性が高い。
体調も悪かった。
だが、普通に推理すれば、別の答えも出る。
九条は眠っていたふりをしていた。
自分で水を飲んだように見せた。
久我山を殺した後、自室へ戻り、内側から鍵をかけて寝たふりをした。
そのための通路が、もし二部屋の間にあったなら。
真壁は自分の思考を嫌悪した。
それでも考えなければならない。
九条ならできるか。
細い身体。
死体に慣れた手。
医学知識。
冷静さ。
左利きに見える血文字。
そして、隣室。
真壁は、久我山の部屋のクローゼットを見た。
九条の部屋にも同じ位置にクローゼットがあった。
「二階堂」
「ああ」
二階堂も見ていた。
二人は同時にクローゼットへ向かった。
中には、久我山の上着と鞄がある。床には古い木箱。奥の壁に、わずかな継ぎ目がある。
真壁は屈んだ。
継ぎ目の下に、擦れた跡があった。
「隠し扉か」
八尋が廊下から青ざめた声を出した。
「この建物、古い点検通路があるとは聞いていました。でも、全部塞がれていると」
常盤が小さく言った。
「東側の客室同士は、昔、使用人用の点検口で繋がっていたと聞いたことがあります」
二階堂が常盤を見る。
「今、それを言いますか」
「思い出したんです」
「鍵をなくして、人が死んで、隠し通路を思い出す」
常盤は返事ができなかった。
真壁は壁の継ぎ目に手をかけた。
古い板が、わずかに動く。
重い。
内側に押すようにすると、奥へ少し開いた。
暗い空間がある。
埃と湿気の匂い。
狭い通路。
人一人が身をかがめれば通れる幅だった。
二階堂が懐中電灯を向ける。
細い配管が壁に這っている。床板には埃が積もっていた。だが、中央だけが薄く乱れている。最近、誰かが通ったようにも見える。古い湿気のせいで崩れただけにも見える。
「どこへ続く」
真壁が聞いた。
八尋が息を呑む。
「方向的には……九条先生の部屋です」
その瞬間、廊下の空気が変わった。
誰も声を出さなかった。
だが、全員が同じことを考えた。
九条の部屋。
久我山の部屋。
二つの部屋は、隠し通路で繋がっていた。
九条は朝起きてこなかった。
部屋は内側から施錠されていた。
扉を壊すと、九条はベッドで眠っていた。
しかし、もしこの隠し通路を使えるなら。
九条は、廊下を通らず久我山の部屋へ行ける。
久我山を殺し、右目を切り取る。
血文字を残す。
そして自室へ戻り、眠ったふりをする。
普通に推理すれば、そうなる。
いや。
そう見えるように作られている。
真壁は、九条の部屋の方を見た。
九条はまだ眠っているはずだ。
生きている。
だが、この瞬間、九条は誰よりも犯人に近くなった。
二階堂が低く言った。
「……通れるな」
真壁は答えた。
「通れる」
「九条なら?」
真壁は黙った。
その沈黙が答えだった。
九条は細い。そして身のこなしが軽い。
この狭い通路を通るだけなら、おそらく通れる。
二階堂が苦く笑った。
「疑いたくない答えだな」
「ああ」
真壁は、自分の声が低くなったのを感じた。
廊下で、由良が震える声を出した。
「九条先生が……?」
「まだ決めるな」
真壁は振り返らずに言った。
「誰も決めるな」
久我山の部屋の血の匂いが、雨の匂いに混じっている。
血文字は、まだカーテンに濡れていた。
――見た眼は祠へ。
眼。
祠。
次の場所を示す言葉。
だが真壁の視線は、血文字ではなく、隠し通路の闇へ向いていた。
その闇の向こうに、九条の部屋がある。
眠っている九条。
開いた水。
消えた予備鍵。
内側から閉じられた扉。
そして、隣室へ続く通路。
犯人はまた、順番を置いた。
誰が死んだか。
何が奪われたか。
どこへ向かうべきか。
そして、誰を疑うべきか。
真壁は、通路の奥を見たまま、拳を握った。
九条を疑うことは、したくなかった。
だが、疑わないことは、もっとしてはいけなかった。




