第五章 死を読む者は眠りから戻らない
旧迎賓館の夜は、音を変えていった。
昼間はまだ、雨の音にも外の世界の気配が混じっていた。海を渡ってくる風の音、遠くの波、誰かが廊下を走る足音、食堂で椅子が倒れる音。人が動いている限り、建物は建物でいられる。
だが、夜が深くなるにつれ、音は内側へ沈んでいった。
雨は屋根を叩くのではなく、屋根の上で何かを擦っているように聞こえた。窓を揺らす風は、外から吹きつけているのではなく、壁の中を通っているようだった。古い迎賓館は、暗くなると呼吸を始める。床板が軋み、配管が鳴り、壁の奥で小さなものが動く。そのひとつひとつが、人の神経を削った。
真壁彰は、食堂の壁際に立ったまま、誰も座っていない椅子を見ていた。
汐崎千広。
牧野奏子。
深町静真。
三人が死んだ。
切り取られたのは、舌、耳、右手。
血文字は童歌の一節に沿っていた。
嘘を吐いた舌は海へ。
聞こえなかった耳は灯へ。
押した手は崖へ。
そして、次に来る言葉を、全員が知っている。
見た眼を祠へ。
誰も口にしなかった。
言葉にすれば、その順番を認めることになる。だが、黙っていても同じだった。人は順番に弱い。九条が最初に言った通りだった。順番があるだけで、人は次を信じる。次に誰が死ぬのか。次に何が奪われるのか。次にどこで見つかるのか。
犯人は、人間がそのように考えることを知っている。
だからこそ、真壁は苛立っていた。
死体を見ているはずなのに、誰も死体を見ていない。血文字を見ている。童歌を見ている。九条の左手を見ている。白井透子の沈黙を見ている。久我山峻介の怒鳴り声を聞いている。誰もが、自分の見たいものを見ていた。
「このままでは寝られません」
由良一華が震える声で言った。
食堂に残っている者たちの視線が彼女へ向く。若い顔は青ざめ、唇の色が失われていた。手には紙コップが握られているが、中身はほとんど減っていない。コーヒーの湯気だけが、彼女の指の間から細く上がっていた。
「寝ろと言われても、誰かが部屋に来るかもしれない。次は、私かもしれない」
「一人で寝る必要はありません」
二階堂壮也が言った。
声は落ち着いていた。落ち着かせようとしている声だった。
「全員、部屋割りを見直します。なるべく隣室同士で声が届くようにする。廊下には見張りを立てる。トイレや水を取りに行く時は、必ず二人以上で動く。誰かの部屋に行く時も同じです」
「それで防げるのかね」
久我山峻介が言った。
椅子に深く腰掛け、腕を組んでいる。声は硬く尖っていた。深町の死を知った後から、久我山は怒っている。悲しみではない。恐怖でもない。怒りだった。自分の支配してきた場所が、自分の知らないものに侵されていることへの怒り。
二階堂は久我山を見た。
「防げる可能性を上げます」
「言葉だけはうまい」
「仕事ですから」
「警察広報だったな。なるほど」
久我山の言葉に、二階堂は表情を変えなかった。
真壁は、その無表情の奥にある疲労を見た。二階堂はこの場の全員を抑えている。怒鳴る者、怯える者、黙り込む者、疑う者、疑われる者。その全部を、言葉で崩れないように留めている。
だが、言葉だけで止められる段階は過ぎている。
九条雅紀は、食堂の奥で壁に背を預けていた。
顔色が悪い。
もともと血色のいい男ではない。だが今夜の九条は、白い肌がさらに薄く見えた。濡れた髪は乾ききっておらず、前髪が額に落ちている。手元の紙コップには手をつけていない。何か考えている時の顔ではある。だが、集中というより、体の内側の熱を押さえ込んでいるようにも見えた。
「九条」
真壁が呼ぶと、九条はゆっくり目だけ動かした。
「何だ」
「具合が悪いのか」
「悪くない」
即答だった。
二階堂が横から言う。
「その返事、悪い時の返事だな」
「悪くない」
「二回言うな。説得力が消える」
九条は黙った。
その沈黙が答えだった。
真壁は九条の前に立った。
「横になれ」
「まだ見ることがある」
「明日でいい」
「明日、死体が増えていたら?」
食堂がわずかに静まった。
九条は、そういう言い方をする。悪意はない。だが、周囲の神経がどこまで削れているかを計算に入れない。いや、入れているのかもしれない。それでも、言うべきだと思えば言う。
二階堂が低く言った。
「九条」
「事実だ」
「事実の置き方が悪い」
九条は二階堂を見た。
「置かなければ、見ない」
「今見せなくていい」
「今見なければ、次を見ることになる」
二階堂は一瞬、言葉を失った。
真壁は、九条の肩に手を置いた。
「横になれ。命令だ」
「お前は俺の上司じゃない」
「友人として言ってる」
九条の目が、ほんの少しだけ揺れた。
二階堂が横から軽く言う。
「俺からも言う。寝ろ。今のお前、死人みたいな顔してる」
「死人なら寝なくていい」
「本当に言い方」
九条は小さく息を吐いた。
その息が、わずかに掠れていた。
真壁は眉を寄せる。
「喘息か」
「違う」
「違わないだろ」
「雨で湿気てる。埃も少ない。問題ない」
「問題ない奴は、自分から湿気の話をしない」
二階堂が肩をすくめた。
「九条、部屋で休め。俺たちで見張りを組む」
九条は、まだ何か言おうとした。
だが、その時、久我山が鼻で笑った。
「ずいぶん手厚いな」
全員が久我山を見る。
「専門家だからか。それとも、疑われているからか」
二階堂の目が冷えた。
「久我山さん」
「違うのかね。汐崎さんの時も、牧野さんの時も、深町先生の時も、九条先生はずいぶん落ち着いていた。死体を見慣れているとは、便利なものだな」
「便利ではありません」
九条が言った。
声は静かだった。
「死体に慣れる人間はいない。死体から目を逸らすことに慣れる人間がいるだけです」
久我山の顔色が変わった。
「何が言いたい」
「別に」
「その言い方が気に入らん」
「気に入らなくていい」
二階堂が間に入った。
「今日はここまでです。全員、部屋へ戻ってください」
「命令かね」
「お願いです。聞いていただけない場合は、命令にします」
久我山は椅子を引いて立ち上がった。
重い音が食堂に響いた。
「私は自分の部屋で休む。こんなところで、いつまでも犯人扱いされていては気分が悪い」
「久我山さん」
白井透子が声をかけた。
彼女は食堂の柱のそばに立っていた。資料ファイルを胸に抱えている。顔色は悪い。だが、その静けさだけは崩れない。深町の遺体の前で一瞬揺れた目も、今はまた元に戻っていた。
「二階の東側の部屋は、建物が古いので夜間は床が鳴ります。何かあれば、隣室にも音が届くはずです」
久我山は白井を睨んだ。
「何かあれば、とは何だ」
「言葉通りです」
「君はいつもそうだな。資料や建物の話をしているふりをして、人の神経を逆撫でする」
「逆撫でするつもりはありません」
「つもりがなければ許されると思うな」
白井は何も言わなかった。
真壁はその沈黙を見ていた。
白井は、怒鳴られることに慣れている。少なくとも、久我山からそういう言葉を受けることに慣れている。そういう目だった。
「部屋割りを確認します」
二階堂が言った。
「二階東側の客室に、久我山さん、九条、真壁、私。西側に由良さん、宗像さん、八尋さん、白井さん。常盤さんは一階の管理室。麻生さんは撮影機材があるので一階の予備室。これでいいですね」
「私は二階にいた方が」
白井が言った。
二階堂は首を振った。
「女性だけで固めます。移動は必ず複数で」
「ですが、旧迎賓館の二階東側は、古い構造が残っています。私の方が」
「構造の話は明日聞きます」
白井は口を閉じた。
二階堂はさらに続けた。
「各部屋の鍵は、内側から閉めてください。外鍵は全てこちらで管理します。予備鍵がある場合は、今出してください」
沈黙。
誰も動かない。
二階堂は一人ずつ見た。
「今出してください」
常盤が管理室から持ってきた鍵束をテーブルに置いた。旧迎賓館の客室鍵、倉庫、資料室、土蔵、厨房、管理室。古い紙札が揺れている。
「これで全部です」
「本当に?」
二階堂が聞く。
常盤は頷いた。
「少なくとも、私が管理しているものは」
「その言い方、嫌ですね」
「古い建物です。保存会が持っている鍵や、過去に紛失した鍵までは」
久我山が苛立ったように言った。
「保存会の鍵は私が持っている」
「では出してください」
二階堂の声は柔らかかった。
久我山は顔を歪めた。
「私を信用していないのか」
「全員を信用していません」
真壁は、二階堂のその言い方が一番正しいと思った。
久我山はしばらく二階堂を睨んでいたが、やがて上着の内ポケットから小さな鍵束を出した。旧い真鍮色の鍵が三本。紙札はついていない。
「資料室と、古い祠の外柵と、二階東側の予備だ」
「二階東側?」
真壁が聞いた。
「古い客室の予備鍵だ。昔の客人用に残されていたものだ」
「なぜ今まで出さなかったんです」
二階堂が聞く。
久我山は不快そうに答えた。
「忘れていた」
「人が三人死んでいても?」
「だから今出した」
二階堂は鍵を受け取り、テーブルに置いた。
「これは私が預かります」
「勝手にしろ」
久我山はそう言って、食堂を出ようとした。
「一人では行かせません」
二階堂が言う。
「子ども扱いするな」
「全員同じ扱いです」
結局、久我山は常盤とともに二階へ上がることになった。九条は真壁と二階堂が付き添った。由良たち女性陣は、八尋を先頭に西側の客室へ移動する。白井は最後まで食堂に残り、鍵束と地図を見ていた。
真壁が視線を向けると、白井は静かに目を伏せた。
「何か気になることが?」
真壁が聞く。
「いいえ」
「今、鍵を見ていましたね」
「古い鍵は、時々、今の扉と合いません。合うはずの鍵が合わず、合わないはずの鍵が合うこともあります」
「便利な話ですね」
「不便な話です」
白井はそう言った。
「古い建物では、扉の方が人間より長く残ります。誰が使っていたかを忘れても、鍵穴だけが残る」
真壁は返事をしなかった。
白井の言葉は、いつも資料の話に聞こえる。
だが、その奥には必ず人間がいる。
二階へ上がる階段は、幅が広かった。かつては客人を迎えるための建物だったのだろう。手すりには古い彫刻があり、壁には色褪せた風景画が並んでいる。だが、雨と湿気のせいで、すべてが薄く沈んで見えた。
二階の廊下は、東西に伸びていた。
東側の廊下には、古い客室が四つ並ぶ。窓の外は黒い海。雨粒がガラスを叩き、時折、風が吹くと廊下全体が鳴った。
久我山の部屋は、東側の一番奥。
九条の部屋は、その隣。
さらにその隣が真壁の部屋で、二階堂の部屋は階段に近い。
二階堂は、部屋の並びを確認してから、わずかに眉を寄せた。
「隣同士か」
真壁も同じことを思っていた。
九条と久我山。
この並びが偶然なのか、誰かが決めたものなのか。
「部屋割りは誰が」
二階堂が常盤に聞く。
常盤は答えた。
「プロジェクト側で仮に決めていました。最終確認は汐崎さんと白井さんが」
「白井さんも?」
「資料説明の都合で、動線を確認していたはずです」
九条は何も言わなかった。
ただ、久我山の部屋と自分の部屋の間の壁を見ていた。
「何かあるのか」
真壁が聞く。
「壁が厚い」
「古い建物だからだろ」
「そうかもしれない」
「そうじゃないかもしれない?」
「まだわからない」
二階堂がため息をついた。
「頼むから、今夜はわからないまま寝てくれ」
九条は、わずかに目を細めた。
「寝られたらな」
真壁はその言葉を聞き逃さなかった。
「眠れないのか」
「頭が痛い」
二階堂がすぐに反応した。
「いつから」
「さっきから」
「吐き気は」
「少し」
「水は飲んだか」
「飲んでない」
「部屋に入ったら、まず座れ。薬は」
「ある」
「使え」
「必要なら」
二階堂が真壁を見る。
真壁は頷いた。
「九条の部屋を確認する」
「俺は子どもか」
「今だけ子どもでいろ」
九条は反論しなかった。
部屋は、古い客室だった。
ベッド、机、椅子、小さなクローゼット。窓際には花瓶が置かれているが、花はない。壁紙は淡い緑色で、ところどころ剥がれている。空調は動いていない。代わりに古いオイルヒーターが壁際にあった。
二階堂が部屋を見回し、窓の鍵、クローゼット、浴室、机の引き出しを確認した。
「異常なし」
「厳重警戒だな」
九条が言った。
「黙って座れ」
二階堂は机の上に置かれていたペットボトルの水を見た。未開封のものが一本。旧迎賓館の備品らしいラベルが貼られている。
「これは?」
「各部屋に置いたものだと思います」
常盤が廊下から答えた。
「全員分?」
「はい」
二階堂は水を手に取り、キャップを見た。未開封のリングはついている。だが、薄暗い照明では細かい傷までは見えない。
「九条、これを飲むな」
「飲まない」
「別の水を持ってくる」
「必要ない」
「必要ある」
二階堂は自分の鞄から小さな水筒を出した。
「俺のを飲め」
「お前の水筒を飲むくらいなら寝る」
「じゃあ寝ろ」
九条は、うんざりしたようにベッドへ腰を下ろした。
真壁は窓際に立った。
窓の外は、雨で何も見えない。下は中庭になっているらしい。庭石と低い植え込みの輪郭だけが、時折稲光のように白く浮かんだ。
「窓から出るのは無理だな」
二階堂が言った。
「高さはそれほどでもないが、下は濡れた石だ。足跡も残る。雨で消えるとしても、危険すぎる」
「そもそも、俺は出ない」
九条が言った。
「だから黙ってろって」
二階堂は部屋の内鍵を確認した。
「内側から鍵をかけろ。俺たちは廊下にいる。何かあったら壁を叩け」
「寝ていたら叩けない」
「じゃあ寝る前に叩け」
「意味がない」
「ある。俺が安心する」
九条は二階堂を見た。
少しだけ、呆れたような顔になった。
その顔を見て、真壁は少しだけ安堵した。九条は大丈夫だ。会話ができる。皮肉も言える。目も死んでいない。
だが、その安堵は長く続かなかった。
九条が立ち上がろうとした瞬間、ふらついた。
真壁が腕を掴む。
「九条」
「平気だ」
「平気じゃない」
九条の手首は冷たかった。
顔色が、さっきより悪い。
二階堂がベッドを指した。
「寝ろ」
「少しだけだ」
「朝までだ」
「朝まで寝たら、死体が増える」
「増やさないために、俺たちが起きてる」
九条は何か言おうとした。
だが、言葉にならなかった。
ほんの短く息を吸い、目を伏せる。
真壁は、その呼吸を見た。
浅い。
喘息の発作というほどではない。だが、疲労と冷えと緊張で、呼吸が狭くなっている。九条は自分の体の不調を最後まで認めない。認めたら、見ることを止められるからだ。
「薬は」
真壁が聞く。
「鞄」
二階堂が鞄を開け、吸入薬のケースを見つける。
「使うか」
「まだ」
「まだ、じゃない」
九条は諦めたように手を出した。
吸入薬を使うと、少しだけ呼吸が落ち着いた。
それでも九条はベッドに横になるまで、壁を見ていた。
「何を見てる」
真壁が聞く。
「音」
「音?」
「隣の部屋の音が、妙に近い」
久我山の部屋の方だ。
真壁は耳を澄ませた。
確かに、壁の向こうから物音がする。久我山が鞄を置いた音だろうか。椅子が動く音。誰かが咳払いする音。壁が厚いわりに、音の距離が近い。
「古い建物だからだろ」
二階堂が言った。
九条は目を閉じた。
「古い建物は、音が嘘をつく」
「今は寝ろ」
九条は、それ以上何も言わなかった。
真壁と二階堂は部屋を出た。
九条が内側から鍵をかける音がした。
カチリ。
古い鍵の音だった。
隣の久我山の部屋では、まだ人の気配があった。常盤が廊下に立っている。久我山の部屋の前で、二階堂が声をかけた。
「久我山さん。鍵をかけたら返事をしてください」
「いちいちうるさいな」
中から声がした。
「返事をお願いします」
「わかった」
少しして、鍵の音が鳴った。
「かけた」
「何かあれば壁を叩いてください」
「叩く前に死んだらどうする」
久我山の声は皮肉だった。
二階堂は答えた。
「その前に声を出してください」
「笑えん冗談だ」
「冗談ではありません」
廊下に沈黙が落ちた。
常盤が小さく言った。
「私が見張ります」
「交代制です」
二階堂が言う。
「前半は私と真壁。後半は常盤さんと麻生さん。女性側の廊下は八尋さんと白井さん、途中から由良さんと宗像さんで交代。ただし、単独行動は禁止です」
「白井さんは大丈夫でしょうか」
常盤が言った。
「何が」
「彼女は、こういう時でも自分で調べに行こうとするので」
真壁は常盤を見る。
「昔からか」
「え?」
「白井さんは昔からそうなのか」
常盤は少し困った顔をした。
「私は、彼女が資料館に来てからしか知りません。ただ、十七年前のことには、妙にこだわっていたと思います」
「妙に?」
「資料が欠けている部分ばかり調べていました。残っている記録より、失われた記録にこだわるというか」
真壁は、その言葉を覚えた。
失われた記録。
診療記録なし。
深町の遺体の近くに置かれていた紙片。
白井透子は、それを見た時、どんな顔をしていただろう。
夜は、長かった。
真壁と二階堂は、東側廊下の中央に椅子を置いて座った。といっても、真壁はほとんど座らなかった。壁にもたれ、廊下の両端を見ていた。雨音と風の音が、何度も足音に聞こえた。古い配管が鳴るたびに、二階堂が視線を上げる。
一時を過ぎた頃、由良の部屋の方で小さな泣き声がした。
宗像が何か声をかけている。
白井の声も聞こえた。
何を言っているかまではわからない。
だが、その声はひどく静かだった。
二時を過ぎると、常盤と麻生が交代に来た。
麻生郁馬は、カメラを持っていなかった。さすがに二階堂に預けさせられたのだ。手ぶらで廊下に立つ麻生は、昼間より少し頼りなく見えた。
「眠れないですね」
麻生が小さく言った。
「眠らないでください」
二階堂が答える。
「そういう意味ではなく」
「わかっています」
麻生は九条の部屋の方を見た。
「九条先生、大丈夫なんですか」
「何がです」
「体調もそうですけど、疑われていることも」
二階堂は麻生を見る。
「あなたはどう思いますか」
「僕は、撮る人間なので」
「答えになっていません」
「見えるものは撮れます。でも、見えないものは撮れません。九条先生は、見えているものと見えていないものの境目にいる感じがします」
二階堂は何も言わなかった。
真壁は廊下の窓を見た。
外は真っ暗だった。
遠くで、波が崖を叩いている。
旧連絡橋はもう海の下だろう。
警察は来ない。
船も出せない。
この館にいる誰かが犯人であり、この館にいる誰かが次に死ぬかもしれない。
真壁は椅子に座り、目を閉じなかった。
だが、人間の集中力には限界がある。
何度目かの風の音を聞いた時、真壁は一瞬だけ意識が沈んだ。
眠ったわけではない。
そう思いたかった。
しかし次に目を開けた時、廊下の窓の外は、わずかに色を持ちはじめていた。
夜明け前の灰色。
雨はまだ降っている。
だが、闇の濃さは少しだけ薄れていた。
二階堂が隣で腕時計を見ていた。
「五時半だ」
「何かあったか」
「今のところは」
その言葉が終わる前に、階段の方から足音がした。
八尋美緒だった。
顔が青い。
「すみません。西側は全員起きています。由良さんも宗像さんも、白井さんも無事です。ただ……」
「ただ?」
二階堂が聞く。
「久我山さんの部屋から、返事がありません」
真壁はすぐに廊下の奥を見た。
久我山の部屋。
隣には九条の部屋。
東側の一番奥と、その隣。
二階堂が立ち上がった。
「九条は」
真壁は九条の部屋の扉へ向かった。
ノックする。
「九条」
返事はない。
もう一度叩く。
「九条、起きろ」
何も返らない。
二階堂の顔が変わった。
「久我山さん」
久我山の部屋の扉を叩く。
返事はない。
「久我山さん、開けますよ」
返事はない。
廊下に人が集まってくる。
由良一華、宗像恵、白井透子、常盤怜、麻生郁馬、八尋美緒。全員が、寝ていない顔をしている。
二階堂は鍵束を取り出した。
まず九条の部屋の鍵を探す。
ない。
「九条の部屋の予備鍵は」
常盤が青ざめる。
「昨夜、ここに」
二階堂は鍵束を確認する。
東側客室の鍵は三本ある。だが、九条の部屋の紙札がついた鍵がない。
「久我山さんの部屋は」
こちらの鍵はある。
二階堂が差し込む。
回らない。
「内側から何か噛んでる」
真壁は扉に耳を当てた。
中から音はしない。
隣の九条の部屋も同じだった。
真壁は九条の部屋の把手を握る。
動かない。
内側から施錠されている。
「九条」
真壁は、もう一度扉を叩いた。
「九条、返事をしろ」
返事はない。
喉の奥に、嫌なものが上がってきた。
九条は寝ているだけかもしれない。
体調が悪いだけかもしれない。
薬が効いて深く眠っているだけかもしれない。
だが、この島で「返事がない」は、もうただの沈黙ではない。
二階堂が低く言った。
「どちらから開ける」
真壁は九条の部屋を見た。
隣の久我山の部屋を見る。
順番。
また、順番だ。
九条の部屋。
久我山の部屋。
どちらも開かない。
どちらも返事がない。
誰かが、この順番を見せようとしている。
「二手に分かれる」
真壁は言った。
二階堂は頷いた。
「扉を壊す」
常盤が慌てて言う。
「待ってください、古い建具なので」
「人命が先です」
二階堂は言い切った。
真壁は九条側の扉を肩で扉を押した。
一度。
古い扉が重く軋む。
二度。
金具が悲鳴を上げる。
三度目で、内側の何かが外れた。
カチリ、という軽い音がした。
鍵が落ちた音のようにも聞こえた。
扉が、少しだけ開いた。
真壁は一瞬、息を止めた。
その隙間から、部屋の中の暗さが流れ出てくる。
古い寝具の匂い。
湿った壁紙の匂い。
そして、薬品とも水ともつかない、薄い匂い。
「九条」
真壁は扉を押し開けた。
部屋の中へ踏み込む。
ベッドの上に、九条雅紀がいた。
白い髪が枕に広がり、片腕がシーツの外へ落ちている。
目は閉じている。
動かない。
真壁は、九条の名を呼んだ。
返事はなかった。
読んでくださってありがとうございます。
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