第四章 押した手は崖へ
灯台から旧迎賓館へ戻る道は、行きよりも長く感じられた。
雨が強くなっていた。
横殴りの風が、黒いレインコートの裾をばたつかせる。足元の泥は柔らかくなり、踏むたびに靴底を掴んだ。崖下から波の音が上がってくる。暗い海が、島の腹を叩いているようだった。
真壁彰は、最後尾を歩きながら灯台を振り返った。
光は消えたままだった。
白い塔は雨に霞み、輪郭だけが闇に立っている。あの上で、牧野奏子が死んでいる。右耳を奪われ、古いレンズの下に布包みを置かれ、壁に言葉を残された。
いや、残したのは牧野ではない。
誰かが、彼女の死に意味を貼りつけた。
聞こえなかった耳は灯へ。
五骸童子。
その言葉は、島の雨よりもしつこく真壁の意識にまとわりついていた。
前を歩く九条雅紀は、無言だった。
九条はいつも無口というわけではない。必要な時には喋る。だが、死体を見た後の沈黙には、他人を寄せつけない硬さがあった。頭の中で、見たものを分解しているのだろう。死体の向き、血の量、切断面、血文字、鍵、時間、足跡。それらを一つずつ、感情から引き剥がして並べている。
その作業が必要なことは、真壁にもわかっていた。
だが、それが周囲の人間にどう見えるかもわかっていた。
冷静すぎる。
知りすぎている。
死に慣れている。
そして、左利き。
犯人が九条を怪しく見せたいなら、材料は揃い始めている。
二階堂壮也が、真壁の横に並んだ。
「現場、悪すぎるな」
「ああ」
「鍵は常盤さんが持っていた。けど、古い予備鍵の可能性がある。白井さんは鍵台帳を知っている。牧野さんはトイレに行くと言って消えた。死体の状態からすると、移動経路も時間もおかしい」
「おかしいことだらけだ」
「一番おかしいのは?」
真壁は少し考えた。
「牧野さんは、死ぬ前に話しすぎた」
二階堂がこちらを見る。
「話しすぎたから殺された?」
「かもしれない。だが、犯人がその場で予定を変えたとは思えない。牧野さんを殺す順番は最初から決まっていた」
「耳だから?」
「聞かなかった人間、という役を与えられていた」
二階堂は顔をしかめた。
「嫌な芝居だな」
「ああ」
「で、次は?」
真壁は答えなかった。
言う必要はなかった。
童歌は、もう車内で全員が見ている。
ひとつ、嘘つき舌を海へ。
ふたつ、聞かぬ耳を灯へ。
その後に続く言葉を、誰もが思い出している。
みっつ、押した手を崖へ。
旧迎賓館へ戻ると、食堂は騒然としていた。
牧野の死を告げると、由良一華は椅子に崩れ落ちた。宗像恵は口元を押さえ、泣くでもなく、怒るでもなく、ただ一点を見ていた。久我山峻介は顔を真っ赤にして、常盤怜を責めた。灯台の管理が甘い、鍵の管理が甘い、そもそも施設確認を止めたのが間違いだった、と。
常盤は黙っていた。
反論しなかった。
それがかえって久我山を苛立たせた。
「鍵を預かる立場なら、責任を持て」
「責任は感じています」
「感じるだけでは足りん」
二階堂が間に入った。
「久我山さん、今責めても何も進みません」
「進めるべき時に止めたのはあなたでしょう。灯台に早く向かっていれば、牧野さんは助かったかもしれない」
「その可能性は低いです」
九条が静かに言った。
全員の視線が向いた。
二階堂が、また余計なことを言うなという顔をしたが、九条は止まらなかった。
「牧野さんは、食堂を出た後すぐに殺されたわけじゃない。少なくとも灯台に着いた時点で、血の状態はおかしかった。彼女が自力で灯室まで歩いたかどうかも疑わしい」
「では、誰かが運んだと?」
久我山が言った。
「可能性はある」
「黒い雨具なら、誰でも同じに見える。あなたも着ていた」
二階堂の表情が変わった。
「久我山さん」
「違いますか。現場へ最初に入ったのはあなた方だ。死体を見る前から、九条先生は何かを知っていたように見えた」
九条は久我山を見た。
「私は死体を見てから話しています」
「その死体の見方が異常なんです」
食堂に沈黙が落ちた。
久我山の言葉は、あまりに露骨だった。だが、それを完全に否定できる者は少なかった。汐崎の死体の前でも、牧野の死体の前でも、九条は冷静すぎた。さらに、血文字は左手で書いたように見え、九条は左利きだった。
九条本人が何もしなくても、周囲の不安は勝手に形を取る。
それが犯人の狙いだと、真壁は思った。
だが、それを今ここで言えば、かえって九条を庇っているように見える。
「久我山さん」
真壁は低く言った。
「九条が犯人だと言いたいのか」
久我山は真壁を見た。
「私は可能性の話をしている」
「なら、他の可能性も見てくれ」
「見ていますよ。だからこそ、専門知識のある人間を無視できないと言っている」
深町静真が、その言葉に反応した。
わずかに肩が動いた。
真壁は見逃さなかった。
専門知識。
その言葉は、九条だけに向いたものではない。深町も元医師だ。十七年前、哭島の診療所にいた男。汐崎の死に関しても、喉を気にしていたと指摘した。牧野の前で名前を出されることを嫌がった。
深町は、自分が見られていることに気づいたらしい。
「私を見るのはやめていただきたい」
真壁は答えた。
「見られたくない理由が?」
「私はもう医師ではありません」
「元医師ではある」
「それが何だというのです」
「十七年前、この島の診療所にいた」
深町の顔が白くなった。
食堂の空気が、また変わった。
白井透子は資料ファイルを抱えたまま、深町を見ている。彼女の表情はほとんど動かない。だが、目だけが冷えていた。
牧野は死ぬ前に言っていた。
深町先生は、診療所には誰も来なかったと言った。
それが本当なら、深町は十七年前の公式記録に関わっている。
五人が海へ向かった。
診療所には誰も来なかった。
島内に異常はなかった。
その証言の積み重ねが、五人の死を事故にした。
そして、もしかすると、六人目の存在を消した。
真壁は深町へ一歩近づいた。
「牧野さんは、あなたの名前を出した。十七年前、診療所には誰も来なかったと証言したと」
「事実です」
深町は即答した。
「本当に誰も来なかった?」
「来ていません」
「怪我人も?」
「来ていません」
「子どもも?」
深町の瞼がわずかに震えた。
「来ていない」
真壁はその震えを見た。
嘘を見破ったと言えるほどではない。だが、今の問いだけが深町の中の別の場所に触れたのは確かだった。
「なぜ子どもと聞く」
深町が言った。
「牧野さんが子どもの証言の話をしたからです」
「私は知らない」
「何を?」
「その子どものことです」
早い。
知らないと言うのが早すぎる。
真壁は言葉を止めた。
問い詰めるには早い。人が二人死んでいる。ここで一人を追い込めば、場が壊れる。それに、犯人はこの混乱を利用している。誰かが感情的に動けば、それだけで新しい死角が生まれる。
二階堂が場を整えるように言った。
「全員、食堂から出ないでください。トイレに行く場合も三人以上で。常盤さん、灯台以外の鍵はすべてこちらで預かります」
常盤は一瞬迷ったが、鍵束を外した。
「灯台の管理上、私が持っていないと困るものもあります」
「命より優先する鍵はありません」
二階堂は鍵束を受け取った。
金属の束が、重い音を立てた。
その音を、深町が見ていた。
鍵ではない。
真壁には、そう見えた。
深町は鍵束ではなく、その中の一本を見ている。古い真鍮色の鍵。小さな紙札がついていて、文字は雨で滲んでいた。
倉庫。
そう読めた。
旧迎賓館の裏手にある倉庫だろうか。
「深町さん」
真壁が声をかけると、深町は目を逸らした。
「何ですか」
「倉庫に何かあるんですか」
「知りません」
「まだ、どの倉庫とも言っていない」
深町は黙った。
久我山が割って入る。
「いい加減にしなさい。静真先生を責める理由がどこにある」
「静真先生?」
九条が静かに言った。
久我山が口を閉じた。
九条は深町を見ている。
「久我山さんは深町さんを、下の名前で呼んでいるのですか」
「昔からの癖だ。先代の和夫先生と呼び分けるために」
「十七年前から?」
「そうだ」
「なら、十七年前の関係は今も切れていない」
九条の声は平坦だった。
「だから何だ」
久我山の声が荒くなる。
「別に」
九条は答えた。
「関係が残っている場所に、証言も残ると思っただけです」
また沈黙が落ちた。
九条は時々、人の胸を真っ直ぐ刺す。
しかも、刺したことに自覚がないような顔をする。
白井透子が、資料ファイルを抱え直した。
「失礼します」
その声は、静かすぎるほど静かだった。
二階堂が反応する。
「どこへ」
「倉庫の鍵台帳と、旧迎賓館裏手の古地図を確認してきます」
「今ですか」
「今だからです。灯台の鍵の件もあります。保存会の管理台帳と、資料館の古い写しが食い違っている可能性があります」
二階堂は腕時計を見た。
「三分です」
「五分ください」
「三分です。扉は開けたまま。廊下から見える位置にいてください」
白井はわずかに目を伏せた。
「わかりました」
「一人では困ります」
「廊下の向こうの資料室です。扉はここから見えます」
白井は食堂の入口を示した。
確かに、廊下を挟んだ向こう側に資料室らしき扉がある。距離は近い。だが、食堂から完全に中までは見えない。
二階堂は一瞬迷った。
その時、久我山が声を荒げた。
「また資料か。あなたはいつもそうだ。資料、資料と、紙切れの方が生きている人間より大事なのか」
白井は久我山を見た。
「生きている人間が、紙を破るからです」
久我山の顔色が変わった。
「何だと」
「何でもありません」
二階堂が二人の間に入った。
「白井さん、資料室へ行くなら扉を開けたままにしてください。五分以内に戻ってください」
「わかりました」
白井は頭を下げ、食堂を出た。
真壁はその背中を目で追った。
黒いレインコートの裾が、廊下の角で一度だけ揺れた。
資料室の扉が開く音がした。
その直後、深町静真が椅子から立ち上がった。
「少し、気分が悪い」
二階堂が即座に反応した。
「一人では出られません」
「トイレです。誰かに見張られながら用を足せと?」
「今はそういう状況です」
深町は顔を歪めた。
「私は容疑者ですか」
「全員です」
二階堂は言った。
「全員、可能性があります」
深町はその言葉に反論しようとしたが、飲み込んだ。
結局、八尋と常盤が付き添うことになった。二階堂は迷ったが、食堂に残る人数を考えて、真壁に目配せした。
真壁は頷いた。
深町、八尋、常盤。
三人が食堂を出る。
その背中を、真壁は見ていた。
白井がまだ戻っていないことが、妙に引っかかった。
五分。
そう二階堂は言った。
だが、この島では五分あれば、人は視界から消える。
廊下の奥で、資料室の扉が少しだけ軋んだ。
真壁がそちらを見た時、白井透子がファイルを抱えて戻ってきた。
「台帳はありませんでした」
二階堂が腕時計を見た。
「四分四十秒」
白井は一瞬、返事に詰まった。
「……そんなに経っていましたか」
「ええ」
「資料室の棚が崩れていました。今、探すよりも皆さんのそばにいるべきだと判断しました」
白井はそう言って、食堂の壁際に立った。
真壁は一歩距離を詰めた。
「白井さん」
「はい」
「十七年前、深町さんはどんな立場だったんですか」
「診療所の医師です」
「それだけですか」
白井は少しだけ目を伏せた。
「島にとっては、それ以上でした」
「どういう意味です」
「当時の哭島には、医療機関と呼べる場所が診療所しかありませんでした。怪我人が出れば、まず深町先生のところへ運ばれます。死亡確認も、応急処置も、記録も、ほとんどあの方が担っていた」
「記録」
「はい」
「その記録は残っているんですか」
「一部は」
「一部だけ?」
「嵐の夜の記録は、欠落しています」
真壁は白井を見た。
「欠落」
「雨漏りで損傷した、と説明されています」
「誰が説明した」
「保存会です」
白井の視線が久我山へ向いた。
久我山は、二階堂と何か話しているふりをしていた。だが、こちらの会話を聞いているのは明らかだった。
「白井さん」
真壁はさらに声を低くした。
「あなたは、何を知っている」
白井は真壁を見た。
その目には、疲れがあった。
怒りではない。
悲しみでもない。
十七年かけて何かを飲み込み続けた人間の目だった。
「資料に残っていることだけです」
「資料は、そのまま出せば真実になるわけではない、と言っていましたね」
「ええ」
「では、残っていないものは?」
白井は答えなかった。
その時、廊下の奥で何かが倒れる音がした。
全員が顔を上げる。
二階堂が走った。
真壁も続く。
廊下の突き当たり、洗面所の前で八尋美緒が膝をついていた。顔面が蒼白だった。常盤怜が彼女を支えている。
「どうした」
二階堂が聞く。
八尋は震える手で廊下の先を指した。
「深町さんが……」
「どこへ行った」
「洗面所から出たあと、気分が悪いから少し風に当たりたいって。私たちは止めたんです。でも、裏口の方へ……」
「一人にしたのか」
二階堂の声が鋭くなる。
常盤が答えた。
「一人にはしていません。私が追いました。ですが、外で誰かに呼ばれたように見えて」
「誰か?」
「黒いレインコートの人影が、裏手の方に。倉庫の前を横切ったように見えて……」
真壁は舌打ちした。
「全員同じ雨具か」
常盤は頷いた。
「顔は見えませんでした」
「深町さんは?」
「その人影を追うように、裏手へ」
「なぜ止めなかった」
常盤の顔が強張る。
「止めました。でも、先生が……深町さんが、自分で行くと」
先生。
まただ。
真壁は廊下の窓から外を見た。
迎賓館の裏手には、低い倉庫棟が見える。その向こうに、崖へ下りる旧道が続いている。雨で輪郭はぼやけているが、黒い人影はもう見えなかった。
二階堂が食堂へ戻るよう八尋に指示し、常盤にはその場に残れと言った。
「真壁、九条」
「行く」
九条はすでに廊下に出ていた。
白井も立っている。
二階堂が彼女を制した。
「白井さんは食堂に」
「裏手の旧道は危険です。案内が必要なら」
「常盤さんに聞きます」
「常盤さんは、崖下の入り江へ続く道を知らない」
常盤が顔を上げた。
「なぜそれを」
白井は彼を見ずに言った。
「古い地図には載っています。今の管理道とは別です」
二階堂の目が細くなった。
「あなたは知っているんですね」
「資料館で調べました」
「では、あなたも来てください。ただし、勝手に動かない」
白井は頷いた。
外へ出た瞬間、風が顔を殴った。
迎賓館の裏手には、厨房の勝手口と倉庫棟があった。倉庫の扉は閉まっている。雨樋から水が溢れ、地面に細い流れを作っていた。足跡はすぐに崩れていく。だが、泥の上に深い靴跡がいくつか残っていた。
大人の男のもの。
それに重なるように、別の足跡。
真壁はしゃがんだ。
「二人以上いる」
二階堂が懐中電灯で照らす。
「深町と、黒い雨具の誰かか」
「もしくは、そう見せたい誰か」
九条が言った。
白井が倉庫の扉を見ていた。
「ここは何の倉庫です」
真壁が聞く。
「昔は医療品や防災備品を入れていた場所です。今は清掃道具と予備の雨具、古い展示台が入っているはずです」
「医療品」
九条が反応した。
「古いものです。今は使われていません」
二階堂が鍵を出した。
常盤から預かった鍵束の中に、「倉庫」と書かれた札の鍵がある。鍵穴に差し込む。回った。
扉を開けると、湿った木と古い布の匂いがした。
中には棚が並んでいる。古い段ボール、清掃用具、壊れた案内板、予備の黒いレインコートが数着。奥には、錆びた金属製の医療箱のようなものもあった。
真壁は床を見た。
水滴。
泥。
そして、棚の角に赤黒いものがついていた。
「血か」
二階堂が言う。
九条が近づく。
「血に見える」
「深町さんのか」
「まだわからない」
倉庫の奥、床に何かが落ちていた。
紙片だった。
雨で濡れてはいない。
文字が見える。
――死体を読む男には気をつけろ。
二階堂が低く息を吐いた。
「また九条か」
九条は紙片を見た。
表情は動かない。
だが真壁には、その沈黙がさっきより重く見えた。
「これは深町さんの字ですか」
二階堂が白井に聞いた。
白井は首を振った。
「わかりません」
「見たことは」
「ありません」
真壁は紙片を拾わず、位置を確認した。
わざとらしい。
あまりに、わざとらしい。
犯人は、九条に向けて矢印を増やしている。
医学知識。
左手風の血文字。
死体を読む男。
次に起きる死は、さらに九条へ近づくだろう。
九条は、棚の下に落ちていた小さな布片を見つけた。
黒い布だった。
レインコートの袖口の一部に似ている。
「破れてる」
二階堂が言った。
「もみ合ったか」
「そう見せたいのかもしれない」
九条は布片から目を離さずに言った。
白井は何も言わなかった。
倉庫の裏口が少し開いていた。
その先には、細い旧道があった。木々の間を抜け、崖の方へ下っている。管理道ではない。石段は苔むし、手すりは途中で折れている。普通なら使わない道だ。
白井が言った。
「この先が、崖下の入り江へ続いています」
真壁は彼女を見た。
「なぜ、そんな道を知っている」
「古い地図に」
「資料館で調べた?」
「はい」
「深町さんも知っていたと思いますか」
白井は、少しだけ黙った。
「昔の島の人間なら」
真壁は、その「昔の島の人間」という言い方を覚えた。
旧道を下り始めると、すぐに足元が悪くなった。
石段は雨で滑り、片側は斜面、もう片側は木々に覆われている。下から波の音が近づいてくる。灯台へ向かう道よりも狭く、暗い。
真壁は白井を前に歩かせなかった。先頭は自分。次に二階堂、白井、九条の順にした。背後を九条に任せるのは、今の状況では皮肉だった。だが、九条は足音で人の距離を測るのがうまい。
「真壁」
九条が後ろから言った。
「何だ」
「この道を、動けない人間を抱えて下りるのは難しい」
「なら深町さんは自分で歩いた?」
「途中までは」
「薬で動けなくしたんじゃないのか」
「完全に動けなくしたら運べない。意識は曖昧、歩行は可能。その程度なら」
二階堂が振り返った。
「そういう薬の話をさらっとするな」
「必要な話だ」
「必要でも言い方がある」
九条は黙った。
白井は、その会話を聞いていた。
聞いているだけで、何も言わない。
やがて、道が開けた。
崖の中腹だった。
右手に黒い海が見える。下には岩場と小さな入り江がある。波が入り込み、白く砕けていた。旧道はさらに下へ続いているが、その途中に、石造りの古い展望台のような場所があった。
その欄干に、赤黒い文字が書かれていた。
――押した手は崖へ
――五骸童子
真壁は足を止めた。
文字の下、石の床に血が落ちている。
量は多くない。
だが、雨で薄まりながら、海の方へ流れていた。
二階堂が低く言った。
「深町さんは」
九条が崖下を見た。
真壁も身を乗り出す。
入り江の岩場に、人影があった。
黒いレインコートが岩に引っかかっている。波が来るたび、裾が浮き上がる。顔は見えない。だが、体格でわかった。
深町静真だった。
真壁は奥歯を噛んだ。
「下りるぞ」
旧道をさらに下る。途中、石段が崩れている箇所があり、二階堂が白井に手を貸した。九条は黙って降りてくる。雨で白い髪が額に張りついていた。
岩場に着くと、波音が大きすぎて声が聞こえにくかった。
深町は仰向けに近い形で倒れていた。頭部に傷がある。崖から落ちた時についたものか、落ちる前のものかはわからない。黒いレインコートは半分めくれ、片腕が不自然な角度で伸びていた。
右手がなかった。
手首から先が、切り離されている。雨と波に血は流されていたが、袖口の濡れ方だけが不自然に重い。切断面は荒く、医療器具で整えたものではない。技術があるというより、意味だけが先にある切り方だった。
白井が小さく声を上げ、二階堂が彼女を下がらせる。
九条が深町のそばに膝をついた。
「死亡確認」
短い言葉だった。
そのあと、九条は深町の左手を見た。
真壁も見た。
雨で血は流されている。だが、傷は荒い。医療器具で整えたものではない。技術があるというより、目的だけがある傷だった。
「どうだ」
真壁が聞く。
九条は少しの間、黙っていた。
「崖から落ちた後に切られたんじゃない」
「落ちる前か」
「おそらく。少なくとも、転落前にかなり出血している」
「死因は転落?」
「断定できない。頭部外傷はある。ただ、落ち方のわりに傷のつき方が単純すぎる」
「どういう意味だ」
「崖から落ちたなら、もっと全身に傷が散る。岩に当たった傷、擦過傷、骨折の出方が増えるはずだ。でも深町さんの損傷は、妙に偏っている」
九条は雨に濡れたレインコートの裾を見た。
「それに、濡れ方が変だ」
「雨じゃないのか」
「雨だけじゃない。海水を吸った跡がある」
二階堂が顔をしかめた。
「また薬か」
「深町さんは、ここまで自力で歩いたようには見える。でも足取りが乱れている。倉庫で何かを摂取させられたか、吸入した可能性もある」
「吸入?」
「倉庫に古い医療箱があった。薬品の残留があってもおかしくない」
白井が小さく言った。
「昔の診療所から移したものです」
真壁は彼女を見た。
「なぜそれを知っている」
「移設記録にありました。展示品として使えるものがないか、以前確認したことがあります」
「記録には、ずいぶん詳しいんですね」
「仕事ですから」
真壁の声に棘が出た。
白井は目を伏せた。
二階堂が、岩場の周囲を懐中電灯で照らした。
岩の隙間には、波に揉まれた発泡材の欠片や、古いロープの切れ端が引っかかっている。海が荒れた後の入り江では珍しくないものなのだろう。二階堂は一瞬それを照らしたが、すぐに遺体の方へ光を戻した。
「右手は」
見当たらない。
波にさらわれたのか。
どこかに置かれているのか。
崖上の血文字は言っている。
押した手は崖へ。
なら、奪われた手は崖に返されたことになる。
あるいは、そう見せたい。
九条が、深町の左手を見たまま言った。
「これは医学の手じゃない」
二階堂が振り向く。
「どういう意味だ」
「切ることが目的じゃない。治療でも解剖でもない。見せるための損壊だ」
九条は雨の中で、静かに言った。
「これは医学の手じゃない。儀式の手だ」
その言葉に、白井の指がわずかに動いた。
真壁は見た。
今、彼女は何に反応した。
儀式。
それとも、手。
九条は続けた。
「深町さんを殺すために手を傷つけたんじゃない。殺す前に、意味を完成させるために手を傷つけている」
「五骸童子のために?」
二階堂が言った。
「五骸童子なんてものが、いるならな」
九条の声は冷たかった。
白井が口を開いた。
「昔の伝承では、失われた骸を返すことで、死者は安らぐとされています」
真壁は彼女を見た。
「今、その説明が必要ですか」
白井は一瞬だけ言葉を失った。
「すみません」
「謝る相手が違う」
真壁は深町の遺体を見た。
十七年前、診療所には誰も来なかった。
そう証言した男。
その男が今、手を傷つけられ、崖下に落ちている。
押した手は崖へ。
だが、何を押したのか。
誰を押したのか。
いや、もしかすると、誰かの手を押し返したのか。
助けを求める手を。
真壁は、深町の顔を見た。
雨に濡れた顔は、驚いているようにも、怯えているようにも見えた。
汐崎もそうだった。
牧野もそうだった。
死の直前、人は自分が何をされたのか理解できない顔をする。
犯人は、その顔に意味を与える。
嘘つき。
聞かなかった。
押した。
人間を、一つの罪に変える。
「戻るぞ」
二階堂が言った。
「ここは危険だ。波も上がってる」
真壁は頷いた。
遺体を動かすことはできない。警察が来るまで現場を守るしかない。だが、この雨と波では、守れるものは限られている。
崖上へ戻る途中、九条が足を止めた。
「どうした」
真壁が聞く。
九条は石段の脇を見ていた。
苔の上に、白いものが引っかかっている。
布ではない。
紙だった。
雨に濡れ、半分崩れている。
そこには、短い文字が残っていた。
――診療記録なし。
それだけだった。
白井が近づこうとした。
真壁は手で制した。
「触るな」
白井は立ち止まった。
九条が言った。
「十七年前の記録か」
「誰かが置いた」
二階堂が答える。
「また、読ませるために」
真壁は紙片を見た。
診療記録なし。
深町は、誰も来ていないと言った。
だから記録はない。
しかし本当に来ていないのなら、なぜ今、その言葉がここにある。
旧迎賓館へ戻ると、食堂の空気はさらに壊れていた。
深町の死を告げる前から、全員が何かを察していた。二階堂の顔、真壁の濡れた袖、九条の沈黙、白井の青ざめた頬。それだけで十分だった。
宗像恵が小さく言った。
「三つ目……」
誰も否定しなかった。
舌。
耳。
手。
童歌は進んでいる。
久我山が椅子を蹴るように立ち上がった。
「馬鹿な。こんなことがあっていいはずがない」
「よくはありません」
二階堂が言った。
「だから全員、ここから動かないでください」
「動かなければ殺されない保証があるのか」
「動けば殺される可能性が上がります」
「言葉遊びだ」
久我山は怒鳴った。
「あなた方が来てからだ。あなた方が来てから、人が死に始めた」
その言葉は、食堂の空気を切った。
真壁はゆっくり久我山を見た。
「今、誰を指している」
「わかっているでしょう」
久我山の視線は九条に向いていた。
まただ。
また、視線が寄る。
九条は濡れた髪をそのままに、食堂の入口に立っていた。左手をポケットに入れ、右手だけを外に出している。その姿が、かえって不自然だった。
本人も、自分の左手が見られていることをわかっている。
だが隠せば、隠したことが疑われる。
出せば、左利きだと見られる。
犯人は、九条の身体そのものを証拠にしようとしている。
二階堂が言った。
「久我山さん、言葉には気をつけてください」
「気をつけている場合ですか。汐崎さん、牧野さん、深町先生。三人です。三人も死んでいる」
「だからこそです」
「白井さんに聞きましたよ」
「何を」
「九条先生は、深町先生の遺体を見て何と言いましたか。儀式の手だ、でしたか。普通の人間が、そんな言葉をすぐに出しますか」
九条は久我山を見た。
「普通の人間なら、死体を見慣れていない」
「それを異常だと言っている」
二階堂が一歩前へ出た。
真壁も同時に動いた。
だが、九条が先に言った。
「私を疑うなら、疑えばいい」
食堂が静まった。
九条の声は低かった。
真壁は九条を見た。
珍しく、怒っている。
いや、怒っているというより、苛立っているのかもしれない。死体が、犯人の言葉に塗り潰されていくことに。
外では、雨がやまない。
灯台は消えたまま。
崖下には深町の遺体。
列車には汐崎の遺体。
灯台には牧野の遺体。
警察はまだ来ない。
旧連絡橋は、もう海に沈み始めている。
真壁は食堂の壁の地図を見た。
海。
灯。
崖。
三つの点が、島の上に浮かぶ。
その先に何があるのか。
祠。
土。
そして、おそらくまだ展示されていない言葉。
九条が、地図を見ていた。
真壁と同じ場所を見ている。
二階堂が小声で言った。
「やばいな」
「ああ」
「次を待ってるみたいに見える」
真壁は答えなかった。
待っているのは自分たちではない。
犯人だ。
犯人は、次を信じさせようとしている。
順番があるだけで、人は次を信じる。
ホームで九条が言った言葉が、真壁の中で甦った。
その時、食堂の電灯がまた揺れた。
窓の外に、黒い雨が流れている。
その向こうで、旧迎賓館の二階だけが、暗い箱のように沈んでいた。
客室の扉が並ぶ場所。
人が一人ずつ、別々の夜に閉じ込められる場所。
真壁は、まだ知らなかった。
次に開かなくなるのは、祠の扉ではない。
人間の部屋の扉だった。




