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哭島列車と五骸童子 ―死者を悼む歌の見立て殺人―  作者: 神谷利休|アコンプリス


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第四章 押した手は崖へ

 灯台から旧迎賓館へ戻る道は、行きよりも長く感じられた。

 雨が強くなっていた。

 横殴りの風が、黒いレインコートの裾をばたつかせる。足元の泥は柔らかくなり、踏むたびに靴底を掴んだ。崖下から波の音が上がってくる。暗い海が、島の腹を叩いているようだった。

 真壁彰は、最後尾を歩きながら灯台を振り返った。

 光は消えたままだった。

 白い塔は雨に霞み、輪郭だけが闇に立っている。あの上で、牧野奏子が死んでいる。右耳を奪われ、古いレンズの下に布包みを置かれ、壁に言葉を残された。

 いや、残したのは牧野ではない。

 誰かが、彼女の死に意味を貼りつけた。

 聞こえなかった耳は灯へ。

 五骸童子。

 その言葉は、島の雨よりもしつこく真壁の意識にまとわりついていた。

 前を歩く九条雅紀は、無言だった。

 九条はいつも無口というわけではない。必要な時には喋る。だが、死体を見た後の沈黙には、他人を寄せつけない硬さがあった。頭の中で、見たものを分解しているのだろう。死体の向き、血の量、切断面、血文字、鍵、時間、足跡。それらを一つずつ、感情から引き剥がして並べている。

 その作業が必要なことは、真壁にもわかっていた。

 だが、それが周囲の人間にどう見えるかもわかっていた。

 冷静すぎる。

 知りすぎている。

 死に慣れている。

 そして、左利き。

 犯人が九条を怪しく見せたいなら、材料は揃い始めている。

 二階堂壮也が、真壁の横に並んだ。

「現場、悪すぎるな」

「ああ」

「鍵は常盤さんが持っていた。けど、古い予備鍵の可能性がある。白井さんは鍵台帳を知っている。牧野さんはトイレに行くと言って消えた。死体の状態からすると、移動経路も時間もおかしい」

「おかしいことだらけだ」

「一番おかしいのは?」

 真壁は少し考えた。

「牧野さんは、死ぬ前に話しすぎた」

 二階堂がこちらを見る。

「話しすぎたから殺された?」

「かもしれない。だが、犯人がその場で予定を変えたとは思えない。牧野さんを殺す順番は最初から決まっていた」

「耳だから?」

「聞かなかった人間、という役を与えられていた」

 二階堂は顔をしかめた。

「嫌な芝居だな」

「ああ」

「で、次は?」

 真壁は答えなかった。

 言う必要はなかった。

 童歌は、もう車内で全員が見ている。

 ひとつ、嘘つき舌を海へ。

 ふたつ、聞かぬ耳を灯へ。

 その後に続く言葉を、誰もが思い出している。

 みっつ、押した手を崖へ。

 旧迎賓館へ戻ると、食堂は騒然としていた。

 牧野の死を告げると、由良一華は椅子に崩れ落ちた。宗像恵は口元を押さえ、泣くでもなく、怒るでもなく、ただ一点を見ていた。久我山峻介は顔を真っ赤にして、常盤怜を責めた。灯台の管理が甘い、鍵の管理が甘い、そもそも施設確認を止めたのが間違いだった、と。

 常盤は黙っていた。

 反論しなかった。

 それがかえって久我山を苛立たせた。

「鍵を預かる立場なら、責任を持て」

「責任は感じています」

「感じるだけでは足りん」

 二階堂が間に入った。

「久我山さん、今責めても何も進みません」

「進めるべき時に止めたのはあなたでしょう。灯台に早く向かっていれば、牧野さんは助かったかもしれない」

「その可能性は低いです」

 九条が静かに言った。

 全員の視線が向いた。

 二階堂が、また余計なことを言うなという顔をしたが、九条は止まらなかった。

「牧野さんは、食堂を出た後すぐに殺されたわけじゃない。少なくとも灯台に着いた時点で、血の状態はおかしかった。彼女が自力で灯室まで歩いたかどうかも疑わしい」

「では、誰かが運んだと?」

 久我山が言った。

「可能性はある」

「黒い雨具なら、誰でも同じに見える。あなたも着ていた」

 二階堂の表情が変わった。

「久我山さん」

「違いますか。現場へ最初に入ったのはあなた方だ。死体を見る前から、九条先生は何かを知っていたように見えた」

 九条は久我山を見た。

「私は死体を見てから話しています」

「その死体の見方が異常なんです」

 食堂に沈黙が落ちた。

 久我山の言葉は、あまりに露骨だった。だが、それを完全に否定できる者は少なかった。汐崎の死体の前でも、牧野の死体の前でも、九条は冷静すぎた。さらに、血文字は左手で書いたように見え、九条は左利きだった。

 九条本人が何もしなくても、周囲の不安は勝手に形を取る。

 それが犯人の狙いだと、真壁は思った。

 だが、それを今ここで言えば、かえって九条を庇っているように見える。

「久我山さん」

 真壁は低く言った。

「九条が犯人だと言いたいのか」

 久我山は真壁を見た。

「私は可能性の話をしている」

「なら、他の可能性も見てくれ」

「見ていますよ。だからこそ、専門知識のある人間を無視できないと言っている」

 深町静真が、その言葉に反応した。

 わずかに肩が動いた。

 真壁は見逃さなかった。

 専門知識。

 その言葉は、九条だけに向いたものではない。深町も元医師だ。十七年前、哭島の診療所にいた男。汐崎の死に関しても、喉を気にしていたと指摘した。牧野の前で名前を出されることを嫌がった。

 深町は、自分が見られていることに気づいたらしい。

「私を見るのはやめていただきたい」

 真壁は答えた。

「見られたくない理由が?」

「私はもう医師ではありません」

「元医師ではある」

「それが何だというのです」

「十七年前、この島の診療所にいた」

 深町の顔が白くなった。

 食堂の空気が、また変わった。

 白井透子は資料ファイルを抱えたまま、深町を見ている。彼女の表情はほとんど動かない。だが、目だけが冷えていた。

 牧野は死ぬ前に言っていた。

 深町先生は、診療所には誰も来なかったと言った。

 それが本当なら、深町は十七年前の公式記録に関わっている。

 五人が海へ向かった。

 診療所には誰も来なかった。

 島内に異常はなかった。

 その証言の積み重ねが、五人の死を事故にした。

 そして、もしかすると、六人目の存在を消した。

 真壁は深町へ一歩近づいた。

「牧野さんは、あなたの名前を出した。十七年前、診療所には誰も来なかったと証言したと」

「事実です」

 深町は即答した。

「本当に誰も来なかった?」

「来ていません」

「怪我人も?」

「来ていません」

「子どもも?」

 深町の瞼がわずかに震えた。

「来ていない」

 真壁はその震えを見た。

 嘘を見破ったと言えるほどではない。だが、今の問いだけが深町の中の別の場所に触れたのは確かだった。

「なぜ子どもと聞く」

 深町が言った。

「牧野さんが子どもの証言の話をしたからです」

「私は知らない」

「何を?」

「その子どものことです」

 早い。

 知らないと言うのが早すぎる。

 真壁は言葉を止めた。

 問い詰めるには早い。人が二人死んでいる。ここで一人を追い込めば、場が壊れる。それに、犯人はこの混乱を利用している。誰かが感情的に動けば、それだけで新しい死角が生まれる。

 二階堂が場を整えるように言った。

「全員、食堂から出ないでください。トイレに行く場合も三人以上で。常盤さん、灯台以外の鍵はすべてこちらで預かります」

 常盤は一瞬迷ったが、鍵束を外した。

「灯台の管理上、私が持っていないと困るものもあります」

「命より優先する鍵はありません」

 二階堂は鍵束を受け取った。

 金属の束が、重い音を立てた。

 その音を、深町が見ていた。

 鍵ではない。

 真壁には、そう見えた。

 深町は鍵束ではなく、その中の一本を見ている。古い真鍮色の鍵。小さな紙札がついていて、文字は雨で滲んでいた。

 倉庫。

 そう読めた。

 旧迎賓館の裏手にある倉庫だろうか。

「深町さん」

 真壁が声をかけると、深町は目を逸らした。

「何ですか」

「倉庫に何かあるんですか」

「知りません」

「まだ、どの倉庫とも言っていない」

 深町は黙った。

 久我山が割って入る。

「いい加減にしなさい。静真先生を責める理由がどこにある」

「静真先生?」

 九条が静かに言った。

 久我山が口を閉じた。

 九条は深町を見ている。

「久我山さんは深町さんを、下の名前で呼んでいるのですか」

「昔からの癖だ。先代の和夫先生と呼び分けるために」

「十七年前から?」

「そうだ」

「なら、十七年前の関係は今も切れていない」

 九条の声は平坦だった。

「だから何だ」

 久我山の声が荒くなる。

「別に」

 九条は答えた。

「関係が残っている場所に、証言も残ると思っただけです」

 また沈黙が落ちた。

 九条は時々、人の胸を真っ直ぐ刺す。

 しかも、刺したことに自覚がないような顔をする。

 白井透子が、資料ファイルを抱え直した。

「失礼します」

 その声は、静かすぎるほど静かだった。

 二階堂が反応する。

「どこへ」

「倉庫の鍵台帳と、旧迎賓館裏手の古地図を確認してきます」

「今ですか」

「今だからです。灯台の鍵の件もあります。保存会の管理台帳と、資料館の古い写しが食い違っている可能性があります」

 二階堂は腕時計を見た。

「三分です」

「五分ください」

「三分です。扉は開けたまま。廊下から見える位置にいてください」

 白井はわずかに目を伏せた。

「わかりました」

「一人では困ります」

「廊下の向こうの資料室です。扉はここから見えます」

 白井は食堂の入口を示した。

 確かに、廊下を挟んだ向こう側に資料室らしき扉がある。距離は近い。だが、食堂から完全に中までは見えない。

 二階堂は一瞬迷った。

 その時、久我山が声を荒げた。

「また資料か。あなたはいつもそうだ。資料、資料と、紙切れの方が生きている人間より大事なのか」

 白井は久我山を見た。

「生きている人間が、紙を破るからです」

 久我山の顔色が変わった。

「何だと」

「何でもありません」

 二階堂が二人の間に入った。

「白井さん、資料室へ行くなら扉を開けたままにしてください。五分以内に戻ってください」

「わかりました」

 白井は頭を下げ、食堂を出た。

 真壁はその背中を目で追った。

 黒いレインコートの裾が、廊下の角で一度だけ揺れた。

 資料室の扉が開く音がした。

 その直後、深町静真が椅子から立ち上がった。

「少し、気分が悪い」

 二階堂が即座に反応した。

「一人では出られません」

「トイレです。誰かに見張られながら用を足せと?」

「今はそういう状況です」

 深町は顔を歪めた。

「私は容疑者ですか」

「全員です」

 二階堂は言った。

「全員、可能性があります」

 深町はその言葉に反論しようとしたが、飲み込んだ。

 結局、八尋と常盤が付き添うことになった。二階堂は迷ったが、食堂に残る人数を考えて、真壁に目配せした。

 真壁は頷いた。

 深町、八尋、常盤。

 三人が食堂を出る。

 その背中を、真壁は見ていた。

 白井がまだ戻っていないことが、妙に引っかかった。

 五分。

 そう二階堂は言った。

 だが、この島では五分あれば、人は視界から消える。

 廊下の奥で、資料室の扉が少しだけ軋んだ。

 真壁がそちらを見た時、白井透子がファイルを抱えて戻ってきた。

「台帳はありませんでした」

 二階堂が腕時計を見た。

「四分四十秒」

 白井は一瞬、返事に詰まった。

「……そんなに経っていましたか」

「ええ」

「資料室の棚が崩れていました。今、探すよりも皆さんのそばにいるべきだと判断しました」

 白井はそう言って、食堂の壁際に立った。

 真壁は一歩距離を詰めた。

「白井さん」

「はい」

「十七年前、深町さんはどんな立場だったんですか」

「診療所の医師です」

「それだけですか」

 白井は少しだけ目を伏せた。

「島にとっては、それ以上でした」

「どういう意味です」

「当時の哭島には、医療機関と呼べる場所が診療所しかありませんでした。怪我人が出れば、まず深町先生のところへ運ばれます。死亡確認も、応急処置も、記録も、ほとんどあの方が担っていた」

「記録」

「はい」

「その記録は残っているんですか」

「一部は」

「一部だけ?」

「嵐の夜の記録は、欠落しています」

 真壁は白井を見た。

「欠落」

「雨漏りで損傷した、と説明されています」

「誰が説明した」

「保存会です」

 白井の視線が久我山へ向いた。

 久我山は、二階堂と何か話しているふりをしていた。だが、こちらの会話を聞いているのは明らかだった。

「白井さん」

 真壁はさらに声を低くした。

「あなたは、何を知っている」

 白井は真壁を見た。

 その目には、疲れがあった。

 怒りではない。

 悲しみでもない。

 十七年かけて何かを飲み込み続けた人間の目だった。

「資料に残っていることだけです」

「資料は、そのまま出せば真実になるわけではない、と言っていましたね」

「ええ」

「では、残っていないものは?」

 白井は答えなかった。

 その時、廊下の奥で何かが倒れる音がした。

 全員が顔を上げる。

 二階堂が走った。

 真壁も続く。

 廊下の突き当たり、洗面所の前で八尋美緒が膝をついていた。顔面が蒼白だった。常盤怜が彼女を支えている。

「どうした」

 二階堂が聞く。

 八尋は震える手で廊下の先を指した。

「深町さんが……」

「どこへ行った」

「洗面所から出たあと、気分が悪いから少し風に当たりたいって。私たちは止めたんです。でも、裏口の方へ……」

「一人にしたのか」

 二階堂の声が鋭くなる。

 常盤が答えた。

「一人にはしていません。私が追いました。ですが、外で誰かに呼ばれたように見えて」

「誰か?」

「黒いレインコートの人影が、裏手の方に。倉庫の前を横切ったように見えて……」

 真壁は舌打ちした。

「全員同じ雨具か」

 常盤は頷いた。

「顔は見えませんでした」

「深町さんは?」

「その人影を追うように、裏手へ」

「なぜ止めなかった」

 常盤の顔が強張る。

「止めました。でも、先生が……深町さんが、自分で行くと」

 先生。

 まただ。

 真壁は廊下の窓から外を見た。

 迎賓館の裏手には、低い倉庫棟が見える。その向こうに、崖へ下りる旧道が続いている。雨で輪郭はぼやけているが、黒い人影はもう見えなかった。

 二階堂が食堂へ戻るよう八尋に指示し、常盤にはその場に残れと言った。

「真壁、九条」

「行く」

 九条はすでに廊下に出ていた。

 白井も立っている。

 二階堂が彼女を制した。

「白井さんは食堂に」

「裏手の旧道は危険です。案内が必要なら」

「常盤さんに聞きます」

「常盤さんは、崖下の入り江へ続く道を知らない」

 常盤が顔を上げた。

「なぜそれを」

 白井は彼を見ずに言った。

「古い地図には載っています。今の管理道とは別です」

 二階堂の目が細くなった。

「あなたは知っているんですね」

「資料館で調べました」

「では、あなたも来てください。ただし、勝手に動かない」

 白井は頷いた。

 外へ出た瞬間、風が顔を殴った。

 迎賓館の裏手には、厨房の勝手口と倉庫棟があった。倉庫の扉は閉まっている。雨樋から水が溢れ、地面に細い流れを作っていた。足跡はすぐに崩れていく。だが、泥の上に深い靴跡がいくつか残っていた。

 大人の男のもの。

 それに重なるように、別の足跡。

 真壁はしゃがんだ。

「二人以上いる」

 二階堂が懐中電灯で照らす。

「深町と、黒い雨具の誰かか」

「もしくは、そう見せたい誰か」

 九条が言った。

 白井が倉庫の扉を見ていた。

「ここは何の倉庫です」

 真壁が聞く。

「昔は医療品や防災備品を入れていた場所です。今は清掃道具と予備の雨具、古い展示台が入っているはずです」

「医療品」

 九条が反応した。

「古いものです。今は使われていません」

 二階堂が鍵を出した。

 常盤から預かった鍵束の中に、「倉庫」と書かれた札の鍵がある。鍵穴に差し込む。回った。

 扉を開けると、湿った木と古い布の匂いがした。

 中には棚が並んでいる。古い段ボール、清掃用具、壊れた案内板、予備の黒いレインコートが数着。奥には、錆びた金属製の医療箱のようなものもあった。

 真壁は床を見た。

 水滴。

 泥。

 そして、棚の角に赤黒いものがついていた。

「血か」

 二階堂が言う。

 九条が近づく。

「血に見える」

「深町さんのか」

「まだわからない」

 倉庫の奥、床に何かが落ちていた。

 紙片だった。

 雨で濡れてはいない。

 文字が見える。

 ――死体を読む男には気をつけろ。

 二階堂が低く息を吐いた。

「また九条か」

 九条は紙片を見た。

 表情は動かない。

 だが真壁には、その沈黙がさっきより重く見えた。

「これは深町さんの字ですか」

 二階堂が白井に聞いた。

 白井は首を振った。

「わかりません」

「見たことは」

「ありません」

 真壁は紙片を拾わず、位置を確認した。

 わざとらしい。

 あまりに、わざとらしい。

 犯人は、九条に向けて矢印を増やしている。

 医学知識。

 左手風の血文字。

 死体を読む男。

 次に起きる死は、さらに九条へ近づくだろう。

 九条は、棚の下に落ちていた小さな布片を見つけた。

 黒い布だった。

 レインコートの袖口の一部に似ている。

「破れてる」

 二階堂が言った。

「もみ合ったか」

「そう見せたいのかもしれない」

 九条は布片から目を離さずに言った。

 白井は何も言わなかった。

 倉庫の裏口が少し開いていた。

 その先には、細い旧道があった。木々の間を抜け、崖の方へ下っている。管理道ではない。石段は苔むし、手すりは途中で折れている。普通なら使わない道だ。

 白井が言った。

「この先が、崖下の入り江へ続いています」

 真壁は彼女を見た。

「なぜ、そんな道を知っている」

「古い地図に」

「資料館で調べた?」

「はい」

「深町さんも知っていたと思いますか」

 白井は、少しだけ黙った。

「昔の島の人間なら」

 真壁は、その「昔の島の人間」という言い方を覚えた。

 旧道を下り始めると、すぐに足元が悪くなった。

 石段は雨で滑り、片側は斜面、もう片側は木々に覆われている。下から波の音が近づいてくる。灯台へ向かう道よりも狭く、暗い。

 真壁は白井を前に歩かせなかった。先頭は自分。次に二階堂、白井、九条の順にした。背後を九条に任せるのは、今の状況では皮肉だった。だが、九条は足音で人の距離を測るのがうまい。

「真壁」

 九条が後ろから言った。

「何だ」

「この道を、動けない人間を抱えて下りるのは難しい」

「なら深町さんは自分で歩いた?」

「途中までは」

「薬で動けなくしたんじゃないのか」

「完全に動けなくしたら運べない。意識は曖昧、歩行は可能。その程度なら」

 二階堂が振り返った。

「そういう薬の話をさらっとするな」

「必要な話だ」

「必要でも言い方がある」

 九条は黙った。

 白井は、その会話を聞いていた。

 聞いているだけで、何も言わない。

 やがて、道が開けた。

 崖の中腹だった。

 右手に黒い海が見える。下には岩場と小さな入り江がある。波が入り込み、白く砕けていた。旧道はさらに下へ続いているが、その途中に、石造りの古い展望台のような場所があった。

 その欄干に、赤黒い文字が書かれていた。

 ――押した手は崖へ

 ――五骸童子

 真壁は足を止めた。

 文字の下、石の床に血が落ちている。

 量は多くない。

 だが、雨で薄まりながら、海の方へ流れていた。

 二階堂が低く言った。

「深町さんは」

 九条が崖下を見た。

 真壁も身を乗り出す。

 入り江の岩場に、人影があった。

 黒いレインコートが岩に引っかかっている。波が来るたび、裾が浮き上がる。顔は見えない。だが、体格でわかった。

 深町静真だった。

 真壁は奥歯を噛んだ。

「下りるぞ」

 旧道をさらに下る。途中、石段が崩れている箇所があり、二階堂が白井に手を貸した。九条は黙って降りてくる。雨で白い髪が額に張りついていた。

 岩場に着くと、波音が大きすぎて声が聞こえにくかった。

 深町は仰向けに近い形で倒れていた。頭部に傷がある。崖から落ちた時についたものか、落ちる前のものかはわからない。黒いレインコートは半分めくれ、片腕が不自然な角度で伸びていた。

 右手がなかった。

 手首から先が、切り離されている。雨と波に血は流されていたが、袖口の濡れ方だけが不自然に重い。切断面は荒く、医療器具で整えたものではない。技術があるというより、意味だけが先にある切り方だった。

 白井が小さく声を上げ、二階堂が彼女を下がらせる。

 九条が深町のそばに膝をついた。

「死亡確認」

 短い言葉だった。

 そのあと、九条は深町の左手を見た。

 真壁も見た。

 雨で血は流されている。だが、傷は荒い。医療器具で整えたものではない。技術があるというより、目的だけがある傷だった。

「どうだ」

 真壁が聞く。

 九条は少しの間、黙っていた。

「崖から落ちた後に切られたんじゃない」

「落ちる前か」

「おそらく。少なくとも、転落前にかなり出血している」

「死因は転落?」

「断定できない。頭部外傷はある。ただ、落ち方のわりに傷のつき方が単純すぎる」

「どういう意味だ」

「崖から落ちたなら、もっと全身に傷が散る。岩に当たった傷、擦過傷、骨折の出方が増えるはずだ。でも深町さんの損傷は、妙に偏っている」

 九条は雨に濡れたレインコートの裾を見た。

「それに、濡れ方が変だ」

「雨じゃないのか」

「雨だけじゃない。海水を吸った跡がある」

 二階堂が顔をしかめた。

「また薬か」

「深町さんは、ここまで自力で歩いたようには見える。でも足取りが乱れている。倉庫で何かを摂取させられたか、吸入した可能性もある」

「吸入?」

「倉庫に古い医療箱があった。薬品の残留があってもおかしくない」

 白井が小さく言った。

「昔の診療所から移したものです」

 真壁は彼女を見た。

「なぜそれを知っている」

「移設記録にありました。展示品として使えるものがないか、以前確認したことがあります」

「記録には、ずいぶん詳しいんですね」

「仕事ですから」

 真壁の声に棘が出た。

 白井は目を伏せた。

 二階堂が、岩場の周囲を懐中電灯で照らした。

 岩の隙間には、波に揉まれた発泡材の欠片や、古いロープの切れ端が引っかかっている。海が荒れた後の入り江では珍しくないものなのだろう。二階堂は一瞬それを照らしたが、すぐに遺体の方へ光を戻した。

「右手は」

 見当たらない。

 波にさらわれたのか。

 どこかに置かれているのか。

 崖上の血文字は言っている。

 押した手は崖へ。

 なら、奪われた手は崖に返されたことになる。

 あるいは、そう見せたい。

 九条が、深町の左手を見たまま言った。

「これは医学の手じゃない」

 二階堂が振り向く。

「どういう意味だ」

「切ることが目的じゃない。治療でも解剖でもない。見せるための損壊だ」

 九条は雨の中で、静かに言った。

「これは医学の手じゃない。儀式の手だ」

 その言葉に、白井の指がわずかに動いた。

 真壁は見た。

 今、彼女は何に反応した。

 儀式。

 それとも、手。

 九条は続けた。

「深町さんを殺すために手を傷つけたんじゃない。殺す前に、意味を完成させるために手を傷つけている」

「五骸童子のために?」

 二階堂が言った。

「五骸童子なんてものが、いるならな」

 九条の声は冷たかった。

 白井が口を開いた。

「昔の伝承では、失われた骸を返すことで、死者は安らぐとされています」

 真壁は彼女を見た。

「今、その説明が必要ですか」

 白井は一瞬だけ言葉を失った。

「すみません」

「謝る相手が違う」

 真壁は深町の遺体を見た。

 十七年前、診療所には誰も来なかった。

 そう証言した男。

 その男が今、手を傷つけられ、崖下に落ちている。

 押した手は崖へ。

 だが、何を押したのか。

 誰を押したのか。

 いや、もしかすると、誰かの手を押し返したのか。

 助けを求める手を。

 真壁は、深町の顔を見た。

 雨に濡れた顔は、驚いているようにも、怯えているようにも見えた。

 汐崎もそうだった。

 牧野もそうだった。

 死の直前、人は自分が何をされたのか理解できない顔をする。

 犯人は、その顔に意味を与える。

 嘘つき。

 聞かなかった。

 押した。

 人間を、一つの罪に変える。

「戻るぞ」

 二階堂が言った。

「ここは危険だ。波も上がってる」

 真壁は頷いた。

 遺体を動かすことはできない。警察が来るまで現場を守るしかない。だが、この雨と波では、守れるものは限られている。

 崖上へ戻る途中、九条が足を止めた。

「どうした」

 真壁が聞く。

 九条は石段の脇を見ていた。

 苔の上に、白いものが引っかかっている。

 布ではない。

 紙だった。

 雨に濡れ、半分崩れている。

 そこには、短い文字が残っていた。

 ――診療記録なし。

 それだけだった。

 白井が近づこうとした。

 真壁は手で制した。

「触るな」

 白井は立ち止まった。

 九条が言った。

「十七年前の記録か」

「誰かが置いた」

 二階堂が答える。

「また、読ませるために」

 真壁は紙片を見た。

 診療記録なし。

 深町は、誰も来ていないと言った。

 だから記録はない。

 しかし本当に来ていないのなら、なぜ今、その言葉がここにある。

 旧迎賓館へ戻ると、食堂の空気はさらに壊れていた。

 深町の死を告げる前から、全員が何かを察していた。二階堂の顔、真壁の濡れた袖、九条の沈黙、白井の青ざめた頬。それだけで十分だった。

 宗像恵が小さく言った。

「三つ目……」

 誰も否定しなかった。

 舌。

 耳。

 手。

 童歌は進んでいる。

 久我山が椅子を蹴るように立ち上がった。

「馬鹿な。こんなことがあっていいはずがない」

「よくはありません」

 二階堂が言った。

「だから全員、ここから動かないでください」

「動かなければ殺されない保証があるのか」

「動けば殺される可能性が上がります」

「言葉遊びだ」

 久我山は怒鳴った。

「あなた方が来てからだ。あなた方が来てから、人が死に始めた」

 その言葉は、食堂の空気を切った。

 真壁はゆっくり久我山を見た。

「今、誰を指している」

「わかっているでしょう」

 久我山の視線は九条に向いていた。

 まただ。

 また、視線が寄る。

 九条は濡れた髪をそのままに、食堂の入口に立っていた。左手をポケットに入れ、右手だけを外に出している。その姿が、かえって不自然だった。

 本人も、自分の左手が見られていることをわかっている。

 だが隠せば、隠したことが疑われる。

 出せば、左利きだと見られる。

 犯人は、九条の身体そのものを証拠にしようとしている。

 二階堂が言った。

「久我山さん、言葉には気をつけてください」

「気をつけている場合ですか。汐崎さん、牧野さん、深町先生。三人です。三人も死んでいる」

「だからこそです」

「白井さんに聞きましたよ」

「何を」

「九条先生は、深町先生の遺体を見て何と言いましたか。儀式の手だ、でしたか。普通の人間が、そんな言葉をすぐに出しますか」

 九条は久我山を見た。

「普通の人間なら、死体を見慣れていない」

「それを異常だと言っている」

 二階堂が一歩前へ出た。

 真壁も同時に動いた。

 だが、九条が先に言った。

「私を疑うなら、疑えばいい」

 食堂が静まった。

 九条の声は低かった。

 真壁は九条を見た。

 珍しく、怒っている。

 いや、怒っているというより、苛立っているのかもしれない。死体が、犯人の言葉に塗り潰されていくことに。

 外では、雨がやまない。

 灯台は消えたまま。

 崖下には深町の遺体。

 列車には汐崎の遺体。

 灯台には牧野の遺体。

 警察はまだ来ない。

 旧連絡橋は、もう海に沈み始めている。

 真壁は食堂の壁の地図を見た。

 海。

 灯。

 崖。

 三つの点が、島の上に浮かぶ。

 その先に何があるのか。

 祠。

 土。

 そして、おそらくまだ展示されていない言葉。

 九条が、地図を見ていた。

 真壁と同じ場所を見ている。

 二階堂が小声で言った。

「やばいな」

「ああ」

「次を待ってるみたいに見える」

 真壁は答えなかった。

 待っているのは自分たちではない。

 犯人だ。

 犯人は、次を信じさせようとしている。

 順番があるだけで、人は次を信じる。

 ホームで九条が言った言葉が、真壁の中で甦った。

 その時、食堂の電灯がまた揺れた。

 窓の外に、黒い雨が流れている。

 その向こうで、旧迎賓館の二階だけが、暗い箱のように沈んでいた。

 客室の扉が並ぶ場所。

 人が一人ずつ、別々の夜に閉じ込められる場所。

 真壁は、まだ知らなかった。

 次に開かなくなるのは、祠の扉ではない。

 人間の部屋の扉だった。


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