第九話 終わらないスパー①
体育館のリングは、いつもより少しだけ暗かった。窓の外はまだ明るいのに、ここだけ時間が淀んでいるみたいに。
顧問が来客対応で席を外した。
「すぐ戻るから、ロープだけやって待ってろよ」
そう言い残して、体育館の扉が閉まる。
扉が閉まった瞬間、空気の温度が変わった。いつもの部活の顔が剥がれて、下にあるものが出てくる。
(顧問がいない時間は、部長の時間だ)
(部長の機嫌イコール部の空気)
「よし」
部長が声を出す。その声は、顧問に向ける声と違う。もっと低くて、乱暴で、決定事項みたいな声。
「ロープ飽きたわ。スパーするぞ」
ざわ、と周りが動く。陸はロープを持ったまま、指先が冷えるのを感じた。
(あ、始まる)
嫌な予感じゃない。予感というより、予定。部長の視線が陸に止まる。
「陸」
名前を呼ばれた瞬間、胃がきゅっと縮む。誰にも分からないくらい小さく、息を吸う。
「上がれ」
「……はい」
返事をする声は、驚くほど落ち着いていた。そうしないと、余計に面倒が増えると知っているから。
リングに上がる。ロープをまたぐ足が、ほんの少しだけもつれる。それを見逃さない目が、外にいくつもある。
空気を読めって言葉は、誰も口にしない。でもここでは、言われなくても分かる。
――先輩を立てろ。
「お前さぁ」
部長が腕を組んだまま笑う。
「俺を倒しといて、かっこつけてんじゃねーよ。なんか反応薄いんだよ」
何の話か、陸には分かった。勝っても騒がない顔。先輩の理不尽に、声を荒げない態度。
――面白くない。
そう言われている。部長の機嫌を取る、という競技で陸だけがルールを知らないみたいに。
「根性あるのかねえのか、どっちなんだよ。
いい子ぶってんのが一番ムカつくんだよな」
周りから、乾いた笑いが起きる。笑い声は、部長への同調だ。
――笑わないやつは、次に上げられる。
陸は、笑わない。笑うと、もっと嫌われる。笑わないと、また嫌われる。
(……じゃあ、どっちでもいい)
陸はグローブをつけながら尋ねる。
「相手は誰ですか?」
部長が、適当に手で指す。
「お前。上がれ」
呼ばれた二年が、ちら、と陸を見る。ほんの一瞬、目が合う。その目がすぐ逸れる。
(あ、やりたくないんだ)
分かる。自分だって、やりたくない。でも、断れない。断ったら空気がもっと悪くなる。
二年がリングに上がり、小声で言う。
「……月代、悪い。俺、ほんとは――」
「先輩、よろしくお願いします」
さえぎるように陸は先に言ってしまう。部長の声。
「インターバル? なし。交代は気分」
口の中が、からりと乾く。
(なし、って言った。終わりはない、ってことか)
「はい、始め!」
ゴングは鳴らない。合図は声だけ。体育館の外の世界に届かない音。




