第十話 終わらないスパー②
最初の一分は、まだスパーリングに見えた。ジャブで距離。フットワーク。当てて、引いて。陸も相手も、様子を見る。
でも外から声が飛ぶ。
「おいおい、陸、手ぇ出せ!」
「逃げんな!」
――正しくは、手を出せじゃない。先輩を立てる形でうまくやれ、だ。
相手が前に出て、陸が下がる。ロープが近づく。ジャブからのストレート。陸の頭が揺れ、外が沸く。
「いいじゃん!」
「そう、それそれ!」
「もっと行け!」
行け、という声に押されて、相手の二年がまた踏み込む。陸はガードの上から、重い一発をもらう。視界が一瞬ぶれる。でも倒れない。
「効いてねぇな、陸!」
笑い声。
(ああ……表情を作るのって、ほんとに便利だな)
便利な分だけ、地獄が長くなる。
◇◇◇
1ラウンド、二分のはず。でも誰も止めない。
息が苦しくて、腕が重い。汗が目に入って、目が開かない。
「根性出せよー」
部長の声がする。
(顧問、まだ?)
相手の二年の肩も、もう上下が大きい。足が明らかに重くなっている。
二年がふらっと下がり、ロープに当たる。そこで踏み込んでしまう。踏み込みたくないのに、外が怒鳴るから。
ボディ。右フック。相手の息が止まる。
「……っ」
二年生が跪く。ロープに手をかけたまま、その場に落ちるように腰をつく。
「あ、マジかよ……」
リングの外から、誰かが小さく漏らす。
「一年だぞ」と続いた声は、すぐに部長の笑い声にかき消された。
「いいねぇ!」
部長の声が甘い。褒めているみたいで、実際は煽っているだけ。
(褒めてる顔をしておけば、周りは従う。でも本当は、褒めてない。『いいねぇ』の意味は、まだ足りない、だ)
「次、お前、上がれよ」
別の二年生を指差す。
「陸はそのまま。相手だけ変える」
陸の喉が鳴る。
(終わらない)
相手が降りて、別の二年生が上がる。動きの癖が変わる。
でも、殴られることだけは変わらない。
「はい、続き!」
また始まる。始め、じゃなく続き。
陸は、もう始まっている状態から抜けられない。
◇◇◇
何人目か分からなくなる。自分の足だけじゃない。
リングの周りには、さっきまで相手だった二年生たちが、あちこちでうずくまっている。
(……俺、何を見せればいいんだ)
倒れてもダメ、倒れなくてもダメ。勝っても、負けてもダメ。空気を読めの正解がどこにもない。
部長がリングの外からじっと陸を見ている。面白がるような目ではない。
(アイツ、いつ倒れんだよ……)
部長は内心で悪態をつく。
(倒れろよ。せめて、俺の顔を立てろよ。いい子のまま強いの、反則だろ)
――それでも、陸は崩れない。崩れ方を知らないみたいに、形だけは保っている。
(顧問、まだ戻らない?)
時計を見る余裕なんてない。体育館の扉は開かない。リングの外の一年が、ちら、と陸を見る。そしてすぐ目を逸らす。
(……分かってるよ。何も言えないよね)
言ったら今度は自分が、終わらない側になる。誰もなりたくない。
陸は、リングの上でひとりになる。
――嫌われている、というより都合がいい。
泣かない一年。声を上げない一年。
(だから余計に、潰したくなる)
拳を上げ、ガードを作り、足を動かす。身体は勝手に動く。心が少しずつ遅れる。
◇◇◇
そのとき、体育館の扉が開いた。顧問が戻ってくる。同時に、リング下の空気が一斉に“部活の顔”に変わる。
「お、やってるな。スパーか?」
顧問が言う。部長が、さっきまでとは打って変わって明るい声で返す。
「はい! ちょっと一年に実戦感覚つけさせようと思って!」
――空気読もうぜ、はこういうときに最強になる。正しい言葉に見えるから。
顧問はリング上の陸を見て、次に床の汗の量を見て眉をひそめる。
リングのキャンバスには、ところどころ、汗が溜まって小さな水たまりみたいになっていた。
ロープの外にも、滴った汗の跡が点々と光っている。
「……ずっと、月代、か?」
顧問がぽつりと言う。陸はロープにもたれかかりながら、必死に呼吸を整えている。それでも膝は、ぎりぎりのところで踏ん張っていた。
「そこまで!降りろよ!」
――終わった。やっと終わった。
陸はロープを掴んで降りようとして、膝が一瞬、抜けた。
(あ、倒れる)
と思った瞬間、誰かが手を伸ばしてくれる――ことはなかった。誰も代わってくれなかったのと同じで、誰も支えてくれない。
顧問はその光景と、まだ辛うじて立っている陸を交互に見て、少しだけ目を細めた。
「……熱くはないが……タフだな。月代」
その一言は、大きな声じゃなかった。でも陸の耳には、ちゃんと届いた。
褒められているのかどうかも分からない。
それでも、何かが胸の奥でちいさく鳴った。
――同時に、リングの外で部長が笑う。
部長の笑顔は明るい。でも、その明るさの奥に、冷たいものが沈む。
陸は自分で立って、降りる。リングの周りには、まだうずくまったままの先輩たち。
その輪の外側に、陸は静かに立ち尽くした。




