第十一話 ナオのはじめて(★)
休日の午後のジム。リングの上では、まだ小学生同士の小さな体が向き合っていた。
ヘッドギアが少しずれて、グローブが大きく見えるくらいの年齢。
「ナオくん、力まないで。はじめはジャブだけでいいですよ」
セコンドについているのは、高校生の陸。声はやさしいけれど、緊張している。
対面しているのは、同い年くらいの男の子。ナオより少しだけ背が高くて、動きも慣れている。
「軽くな、軽く!」いつもは軽い調子のコーチも真剣な表情。
ゴング。
ナオは、ぎゅっと肩に力を入れて前に出た。
いつものミットでは何度も練習したジャブ。でも、目の前の相手が殴り返してくる、というだけで全部が飛ぶ。
ひゅっ、と風を切る音。
ごっ、とヘッドギアの上からでも響く衝撃。視界の端がちらちらする。
「っ……!」
鼻の奥がツンとして、涙がにじむ。反射的に後ずさったところに、またストレートが伸びてきて、ロープに背中が当たる。ギュッと丸くなるナオ。パンパンとヘッドギアの上から叩かれる音。
「そこまで!」
軽いスパーなので、すぐにコーチが止めに入った。
ゴングが鳴って、相手の子がヘッドギアを脱ぎながら、「ごめん、大丈夫?」と慌てて言う。
ナオは「へいき」と答えようとして、声が震えてしまう。リングを降りると同時に、ぽたぽたと涙がこぼれ始めた。
◇◇◇
リングの外。マウスピースとヘッドギアを外したナオは、とうとうこらえきれなくなる。
「……っ、う、うえ……」
「ナオくん、こっち来ましょうか」
陸がしゃがんで視線を合わせる。汗を拭いてやろうとするが、涙といっしょになってうまく拭けない。
「や、やだった……」
ナオは鼻をすすりながら、言葉を絞り出す。
「やだった……ぜんぜんパンチ出ないし、痛いし……っ」
「初めてですからね。あれだけ前に出ただけでも立派ですよ」
「りっ、陸のお兄さんは、いつもやってるって……だから、僕も……やってみたいって……」
グスグスとしゃくりあげながら、子どもらしい理屈になっていない理屈をぶつけてくる。
「僕もできるかなって……なのに負けた……っ、やだ……っ、かっこわるい……」
言いながら、自分で自分が恥ずかしくてまた泣けてくる。
陸は少しだけ困ったように笑って、手のひらをそっとナオの頭に乗せた。
「ナオくん」
「……なに……」
「スパーは、絶対にしなきゃいけないものじゃないですよ」
ナオが、ぽかんと涙目で見上げる。
「え……でも……」
「なわとびだけでも、シャドーだけでも、ミットだけでもいい。
スパーは、やってみたいって思ったときに、やればいいんです」
「僕……いま、やってみたくない……」
「それでいいんですよ」
陸の声は、叱るでもなく、甘やかすでもなく、本当に淡々としていた。
「やってみて、嫌だった。痛かった。怖かった。
――それが分かっただけで、今日は十分がんばりました、ですよ」
「……がんばったの?」
「がんばりました」
陸はナオの頭をわしゃわしゃと撫でる。
「俺がやってたから、やってみたいって思ってくれたのも、嬉しかったです。
でも、今は嫌って気持ちも大事にしてください」
ナオの呼吸が、少しずつ落ち着いてくる。
しゃくりあげは残っているけど、さっきまでの大泣きではない。
「涙が止まったら――」
陸はすこしだけ笑って、ナオの額に落ちた前髪を指先でどかす。
「またミットからやりましょう。スパーは、ナオくんがもう一回やってみたいって思ったときでいいです」
「……もう、やらなくてもいい?」
「一生やらないって決めなくてもいいんですよ」
陸は肩をすくめる。
「やりたくなったら、やる。やりたくない日は、やらない。
――それぐらい、ゆるくていいです」
ナオはしばらく黙って、タオルの端をぎゅっと握る。
「……じゃあ……きょうは、もうやらない」
「分かりました。じゃあ今日はここまで。よくがんばりました」
陸が立ち上がって手を差し出すと、ナオはそれをぎゅっと握る。
ここから、何年も続く二人のボクシングが始まる――と、陸はそのときまだ知らない。




