第十二話 僕のヒーロー①
ジムの隅っこ。リングの横の、子ども用の小さいスペース。そこでナオと陸が向かい合っていた。
近くのホワイトボードには、丸っこい字でこう書いてある。
1:ジャブ
2:ワンツー
3:ジャブ → ジャブ → ワンツー
4:フェイントジャブ → ステップイン → ワンツー
5:ジャブ → 左ボディ → ワンツー
これまで、ナオが覚えたパンチと動き。まだ、フックやアッパーはない。
「……ねぇ、これ全部覚えるの?」
グローブをつけたまま、ナオがむくれ顔でホワイトボードを見上げる。
「ぜったいムリだよ。だって、4とか、もう長いもん」
「長いですか?」
陸は少し困った顔で笑った。彼の字でびっしり書かれたボードは、たしかに子どもの目には、ぎゅうぎゅうに見える。
「でも、ひとつずつは、もうナオくんできる動きですよ。1個1個やるんじゃなくて――『3番』って言ったら、3番のナオくんが出てくる感じです」
「……なんか、ゲームっぽく言ってごまかそうとしてない?」
「あ、バレましたか」
正直に認めて、陸は苦笑した。
「ゲームみたいにしたら、ちょっと楽になるかなって思ったんです」
ナオはホワイトボードと陸の顔を交互に見て、さらに口をへの字にする。
「……でもさ。僕にはムリでも、陸のお兄さんはできるんでしょ」
「俺ですか?」
「できるから、言ってるんでしょ。じゃあ、陸のお兄さん、ほんとにできるか見たい」
めずらしく、ナオの声に小さく挑戦の色が混じる。
陸は一瞬、きょとんとして、それから目を細めた。
「いいですよ。やってみます」
「え?」
「せっかくですし。じゃあ、ナオくんが番号係、やりますか?」
ナオの目がぱっと丸くなる。
「……僕が、言っていいの?」
「はい。俺がナオくん役をやりますから」
冗談みたいなことを、真顔で言う。ナオは少し考えて、こくりと頷いた。
「じゃあ……ほんとにやるからね? いじわるな順番にしても、怒らないでね」
「本気でお願いします」
陸は空いたスペースに立った。軽く膝をゆるめて、くいっと顎を引く。普段の、優しい陸のお兄さんの顔じゃなくて――リングの上の、選手の顔。
ナオは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……じゃあ、いくね。えっと……1!」
ピッ、と小さな指を立てる。
同時に、陸の左手が、すっと伸びた。音は軽いのに、フォームはきれいなジャブ。
「2!」
ナオが続けて言った瞬間、ジャブから自然にワンツーのリズムへつながる。
「じゃあ……3!」
ちょっと難しいやつを選んでみる。
ナオの声に合わせて、陸は一歩進み、ジャブ、もう一発ジャブ――それからワンツー。
流れがまったく途切れない。最初から「3」というひとつの生き物みたいに動く。
(……ほんとに、僕の言う通りにできてる)
ナオの胸が、どきっと鳴った。
「5!」
思わず長いやつを言っていた。陸は、わずかに頷いてから動く。
ジャブで距離を測って――そこからふっと重心を下げて左ボディ。
その反動をすべて拳に乗せて、最後の右ストレートが空気を切り裂く。そこに相手がいるみたいな、陸のシャドー。
ナオは、しばらく口を開けたまま固まっていた。
陸は呼吸を整えながら、ナオのほうを見て、いつもの柔らかい笑みを浮かべる。
「……どうでしょう」
「……すご」
ナオの口から、素直な感想がぽろっと出た。
「いま、5って言った瞬間に、もう5番の動きになってた」
「それが、番号をつけるってことです。一個一個じゃなくて、かたまりで覚える。心より先に、身体が思い出してくれるんです」
ナオはじっと陸を見つめた。
(……なんか、ゲームのキャラみたいだ)
ボタンひとつで、かっこいい技が出るキャラクター。だけど、実際には、その一個の技の中に、見えないたくさんの動きが詰まってる。
(陸のお兄さん、ぜんぶ、入ってるんだ)
ジャブの打ち方も、ステップも、距離の測り方も。さっき一瞬で出てきたボディの角度も。全部、もう入ってて、「3」って言われたら「3」の陸お兄さんが出てくる。
胸の奥が、じわっと熱くなった。
「……ヒーローじゃん」
つい、本音が漏れていた。
陸が瞬きする。
「だって、番号を言っただけで、全部、かっこよくやってくれる」
ナオは、照れくさそうに足先で床をこする。
「ぼくが1って言ったら、1がちゃんと出てきて……5って言ったら、5がちゃんと出てきて……なんか、僕専用のヒーローみたい」
陸は、一瞬だけ固まって――ふっと目を細めた。どこかくすぐったそうに、でも嬉しそうに言う。
「専用、ですか」
「だって、番号、僕が言ってるもん。僕だけの合図だもん」
「そうですね」
陸は、膝をついてナオの目線に合わせ、きちんと頷いた。
「ナオくんの“1”で動いて、ナオくんの“5”で動きました」
ナオの胸の中が、さらに熱くなる。
コンビネーションの番号は、その日から、ナオの中でただの暗記用の記号じゃなくて―― 自分のヒーローと繋がる“魔法の番号”になった。
……はずだったのに。




