第十三話 僕のヒーロー②
「じゃあ、もう一回」
ナオが、すぐに言った。陸が瞬きをして、頬を伝う汗を拭う間もなく聞き返す。
「もう一回、ですか?」
「うん。いまの、かっこよかったから。もう一回見たい」
言い方は素直で、罪悪感がゼロ。ナオの目はきらきらしている。
陸は、困ったように笑ってしまった。
「いいですよ。じゃあ――何番にします?」
「……5!」
迷わない。
ナオが指を立てると、陸はすぐ構えた。
ジャブ、左ボディ、ワンツー。
さっきと同じ流れ。さっきと同じ綺麗さ。
「……もう一回!」
「はいはい」
「次、3!」
「了解です」
ジャブ、ジャブ、ワンツー。
ナオは、だんだん遊び始める。
自分が番号を言うだけで“技”が出るのが、面白くて仕方がない。
陸も、最初は笑って合わせていた。
でも、五回、六回、と続くころには、額に薄く汗が浮いてきた。シャドーなのに、息が少し上がっている。
(……あれ?)
ナオはその変化に気づいたけれど、気づかないふりをした。面白い気持ちが勝ってしまう。
「次、5!また5をもう一回やって!」
「5、連続……」
腰に手を当てて、陸が小さく笑う。
「ナオくん、それ、けっこうきついメニューです」
「でも陸のお兄さん、できるもん」
ナオが言うと、陸は「そうですね」とだけ答えて、もう一度、5を出した。
ジャブ、左ボディ、ワンツー。息を吐く音が、さっきより少しだけ大きい。
そこに、横から呆れた声が割って入った。
「おいナオ」
髭のコーチだった。腕を組んだまま、眉を上げている。
「いいかげんにしといてやれ。あいつ今、地味に地獄だぞ。お前のワガママ、あいつは絶対に断らねぇんだからな」
ナオがきょとんとする。
「え……でも、陸のお兄さん、平気って……」
視線を向けると、陸は汗をぬぐいながら、いつもの柔らかな微笑を崩さない。
「平気です。俺がやりましょうって言ったので。……それに、ナオくんが楽しそうなの、嬉しいですし」
その真っ直ぐすぎる言葉に、コーチは大きなため息をついた。
「だからって無限に付き合うな。お前、いい人のまま壊れるタイプだろ」
「壊れませんよ」
陸は笑って、また構える。
「ナオくん、次、何番ですか?」
ナオの胸が、じわっと熱くなる。
(……ほんとに、僕のために動いてる)
嬉しい。嬉しすぎて、困る。でも同時に、コーチの言葉が気になる。
ナオは、ちょっとだけ迷ってから――いちばん欲張りなことを言った。
「……3、5、2、1!」
自分でも分かっている。これはもう、無茶ぶりだ。
陸が一瞬目を丸くして、それから「了解です、ナオくん」と真顔で頷いた。
3:ジャブ、ジャブ、ワンツー。
5:ジャブ、左ボディ、ワンツー。
2:ワンツー。
1:ジャブ。
流れはきれいで、途切れない。でも最後のジャブを出した瞬間、陸の足が――
きゅっ。
床を踏んだはずの足裏が、自分の汗で、ほんの少しだけ滑った。
「……っ」
陸の体が、ふっと横にぶれる。転びはしない。
でも、いままで一度も崩れなかったフォームが、ほんの一瞬だけ崩れた。
ナオの心臓が、どくん、と鳴る。
「り、陸のお兄さん?」
陸はすぐに体勢を立て直し、無理に笑って手をひらひら振った。
「大丈夫です。……ちょっと、汗ですね」
額から汗がぽたぽたと滴る。陸はタオルで雑に拭うけれど、拭っても拭っても追いつかない。
コーチが、溜め息まじりに言った。
「ほら見ろ。平気って言う前に水飲め。ナオ、お前も。ヒーローは充電しねぇと動かねぇ」
「じゅうでん……」
ナオが小さく呟くと、陸は苦笑してベンチにどさりと腰を下ろした。
「じゃあ、充電タイムにしましょうか」
ナオは、まだドキドキが止まらないまま、陸の隣にちょこんと座った。
(……ヒーローも、すべるんだ)
当たり前のことなのに、それが少しだけ怖くて、少しだけ――嬉しかった。だって、すべるのは、人間だからだ。
ナオは、陸のTシャツの裾をつまんで小さく言う。
「……ごめんなさい。いっぱい言いすぎた」
陸が驚いたように目を丸くする。それから、少しだけ気恥ずかしそうに目を細めると、ナオの頭を優しく撫でた。
「謝らないでください。ナオくんが真剣に選んでくれた番号だから、俺も真剣になれたんです。……ちゃんと見てくれて、ありがとう」
ナオの胸の奥に、またひとつ、セーブデータが増える。
――ヒーローは、無限じゃない。すぐ無理をする。だから、僕が大切にする。
ナオは、次に番号を言うとき、少しだけ優しくなれる気がした。




