第十四話 誰の声で
インターハイ、ベスト4。記録だけを見れば、文句のつけようがない成績だった。トーナメント表の上のほうに残り続ける「月代陸」の名前は、確かに彼が強いことの証明だった。
顧問はこう評した。
「月代は、結果を出すやつだ。熱くはないが、折れない」
同級生達は彼を見てこう言った。
「すげぇな」
けれど、その「すげぇな」の響きは、どこか乾いていた。祝福じゃなくて、観察みたいな声。
――近づいていいのか分からない。不用意に触れたら、巻き込まれる気がする。
そんな無言の線を引かれていた。
陸はいつも笑っていた。誰に対しても礼儀正しく、そして、いつもひとりで帰った。部活の輪の中には入らなかったし、皆の笑い声も届いていないみたいだった。
後輩からは、それなりに慕われた。ミット持ってほしいと頼まれる。フォームを見てくれとせがまれる。
「月代先輩、スパー、お願いします」と頭を下げられる。
陸は応え、教え、褒め、直した。
――その完璧さが、同級生との距離をさらに広げていくことも知っていた。
同級生から見た陸は、先輩みたいな同級生だった。先生みたいに正しくて、礼儀があって、強い。
でも、輪の中でふざけない。愚痴も言わない。弱音も吐かない。
弱音を口にすれば、自分の中の張り詰めた何かが崩れ落ちそうで。一度でも膝をついたら、もう立てなくなる気がしていた。
◇◇◇
放課後のジム。シュガーでのいつもの時間。ロープの跳ねる音と、サンドバッグの鈍い音。体育館よりもずっと狭いのに、陸にとっては呼吸がしやすい場所だった。
ドアが開いて、小さな影が元気に飛び込んでくる。
「陸のお兄さん!」
ナオは、まだ小学生。ランドセルの肩紐が大きくて、グローブをつけた拳も、まるでおもちゃのように見える。
「今日、やろ!コンビネーション!」
「はい。今日もやりましょう」
陸は自然と相好を崩した。部活で見せる笑みとは少し違う、体温の通った笑い方だった。
ナオは息を整えて、構える。でも、すぐに眉をひそめた。
「むずい……」
「どうしました?」
「1番から2番、行くとき、ぐちゃってなる。うまくつながらないの」
ナオは悔しそうにグローブを降ろす。大人みたいに肩をすくめるくせに、目は泣きそうだ。
陸はミットをはめたまま、ナオの目の前にしゃがみこんだ。グローブの角度をそっと直し、足先の向きを揃えてやる。
「ナオくん、今……頭で次の動きを追ってますね」
「だって! まちがえたらイヤだもん!」
「うん。分かります」
陸は優しくうなずきながら、少しだけ呼吸を落とす。
「じゃあ、スイッチを入れましょう」
「スイッチ?」
ナオがきょとんとする。陸はナオのグローブに軽く触れて言った。
「俺が1番って言ったら、体が勝手に動くようにしてみてください。
考えなくていい。聞こえた声にだけ反応するんです」
「ゲームのオートモードみたいなかんじ?」
「そう、勝手に動くやつ。最初だけ、スイッチは俺が押しますから」
スイッチ、と口にした瞬間、陸の胸の奥がちくりと痛む。
便利な言い方だ。便利なぶん、何かを切り捨てられる。陸自身が、息の詰まる部活でそうやってきた。
でも、ナオにはそれでいい。今はただ、楽しくつながって、ボクシングが嫌いにならなければいい。
陸は短く声を出す。
「1番」
ナオの拳が弾かれたように出る。ぎこちないけれど、まっすぐ前に飛ぶ。
陸がすかさず、もう一度声を出す。
「次、2番」
ナオの拳が続く。遅れて、ステップを踏む足がついてくる。
ぐちゃっとなりかけて、でも繋がった。
「つながった!」
「繋がりましたね」
陸は自分のことのように嬉しくなって、にっこりと笑う。
ナオはグローブを下ろして、ふいに不思議そうに言った。
「ねぇ。僕、いま、陸のお兄さんの声が聞こえるから動けるんだよね」
「そうですね」
「じゃあさ」
ナオはまっすぐ陸を見上げる。
「陸のお兄さんは、だれの声で動いてるの?」
その無邪気な一言で、陸の呼吸が止まった。
(だれの声?)
そんなの、考えたことがなかった。考えたら、立てなくなる気がして。
頭の奥で記憶の別の場所がよぎる。薄暗い体育館のリング。誰も止めてくれない、終わらないスパーリング。
空気を読め、壊すな。誰も正解は教えてくれない。
陸は笑おうとした。いつもの笑い方で、受け流そうとする。
でもナオの目は、ごまかせなかった。陸は、絞り出すように、やっと言った。
「……自分の、声です」
「自分の声?」
陸はゆっくりうなずく。
「まだいけるって。ここで止まったらだめだって。自分に言ってます」
言葉にすると、胸の奥が少しずつ熱くなる。誇らしいんじゃない。長い間の習慣みたいな痛みが胸を焦がす。
ナオがきゅっと眉を寄せた。
「それってさ」
ぽつり、と落ちた小さな声。
「……ずっと、ひとりじゃん」
陸は、なにも答えられなかった。口を開けば、声が震えてしまうのが分かっていた。泣くほどのことじゃない、と頭のなかで声がする。
不意に、ナオは少しだけ胸を張った。
「じゃあね、今日からは僕が陸のお兄さんに言う」
ナオは照れたみたいに視線をそらしてから、でも力強く言った。
「ナイスって言う」
そのたどたどしい言葉が、陸の胸のど真ん中に落ちた。カチリ、とスイッチの音がした気がした。
――それは、感情を殺してオートモードに入る音じゃない。
オートモードから、現実へ戻ってくるための音だった。
陸は静かに答える。
「……ありがとう、ナオくん」
ナオはにへへ、と笑う。体育館の暗い時間と違う。ここは勝ち負けじゃなくて、続けるための場所だ。
でも陸は、自分の中に根付いた“習慣の声”が、また奥底で動き出すのを感じた。
(大丈夫だ)
(平気だ)
(まだいける)
――この声は、どうして生まれてしまったのか。俺は、一体何を守っているのか。強くなったのか、ただ壊れなかっただけなのか。自分でも分からない。
陸は、迷いを振り切るようにナオに声をかける。
「もう一度、いきましょう。……1番」
ナオが拳を出す。その小さな拳は、陸の声を信じて動く。
ミットで受け止めながら、陸はふと思う。
(俺は本当は、何の声で動いてるんだろう)
(いつか、俺も――誰かの声で動く日が来るんだろうか)
自分を立たせているものの正体も、孤独を埋める声の主も見つけられないまま。
陸は大学という次のステージへと進むことになる。
――彼を救う声の正体に、気付けないまま。




