第十五話 最悪の出会い
夕方の体育館。ミットの音がまばらになって、大学生達の空気が少しだけゆるんだころ。リングの近くでストレッチをしていた二年生・黒瀬イザナに、顧問が声をかけた。
「黒瀬。お前、あいつと一回やってみてくれ」
顎でさされた先には、高校生の面影の残る青年。ゆるいパーマに、色の薄い顔立ち。ジャージの上からでも、しっかり作られた体は分かるのに、雰囲気は完全に「優等生」。
(春から入学予定の奴……真面目君、ね)
イザナは内心あくびをかみ殺す。
「月代ー」
顧問が声をかけると、陸はすっと顔を上げる。
「はい。月代 陸です。よろしくお願いします、先輩」
きっちり腰を折ったお辞儀。声も、控えめな態度も、教科書通り。
(先生ウケ、良さそうだな。……一番、面白くねぇタイプ)
そう思いながらも、顧問の手前、ロープをまたいでリングに上がる。
「あー、俺、2年の黒瀬 誘。軽くな」
「はい」
ゴングが鳴る。最初の一歩で、イザナは「やっぱりな」と思った。
ジャブはまっすぐ。ステップも軽く、悪いクセはない。距離の取り方も、高校できっちり叩き込まれてきたのが分かる。
(キレイ。でも、殴るって感じじゃねぇな)
イザナはガードを固めたまま、あえて額でジャブを受けてみる。ストッ、と綺麗に当たる。けれど、そこで終わってしまう拳。
(当てるまでがゴールの拳。打ち抜くつもりも、勝ち切るつもりもない)
軽くワンツーを返すと、陸はちゃんとガードして、すぐ距離を取る。表情は、ほとんど変わらない。
「スパーリングは慣れてんの?」
「高校では……そこそこ、させてもらってました」
「させてもらってました、ね」
言葉も、角がない。外から見れば、素直で真面目で扱いやすい後輩。
(まあ、好き勝手に鍛えられてきたんだろうな)
イザナは、顧問の視線が外れた瞬間、ほんのすこしだけギアを上げた。
前足からグッと踏み込む。さっきと同じタイミングで陸がジャブを出すが、その外をすり抜けて、ガードごと左フック、ショートの右、抉るようなボディ。
「っ……」
喉の奥から漏れた声を、陸は噛み殺す。後ろに下がる足をどうにか動かすけれど、ロープがすぐそこにある。
「下がんな。当てて終わりなら、サンドバッグで十分だろ」
ロープに寄りかかった瞬間、イザナの右ストレートがガードの上からめり込んだ。
陸の視界が、一瞬白くはじける。足元がぐらっと揺れて、そのままキャンバスが近づいた。
ドサ、と膝がつく。
「そこまで!」
顧問が慌てて声をかける。イザナは一歩さがって、陸を見下ろした。
「立てる?」
「……はい」
ロープをつかんで、陸は自分の足でゆっくり立ち上がる。顔は、やっぱりほとんど崩れていない。悔しいのも、情けないのも、全部飲み込んだ「いい子の顔」。
顧問がうなずく。
「黒瀬、どうだ?」
タオルで汗を拭きながら、イザナは肩をすくめる。
「基礎はあります。タフだし。……優等生っすね」
「そうだろ。期待してるんだ」
顧問が満足そうに言ってから離れ、練習は元のざわめきに戻る。
退屈な仕事は終わった。イザナがロープをくぐり、リングから降りようとすると――背後から声。
「黒瀬先輩」
「ん?」
「……もう1ラウンド、お願いできますか」
呼吸はまだ荒い。膝も少し震えている。それでも、目だけはまっすぐイザナを見ていた。
(へぇ)
イザナの口の端が、勝手に上がる。
「お前、さっきの一発でだいぶ効いてただろ」
「……効きました。だから、返したいです」
ほんのわずかに悔しさの混じった声。それでも、言葉は整っている。
(倒され慣れてねぇ顔。『今日はありがとうございました』で楽なのに、わざわざこういうこと言う)
「また今度な」
イザナはロープに腕を乗せて、あっさり言った。
「入学前だろ、お前。落ち着いてから、もう一回来いよ」
「……はい」
素直に頭を下げる陸。その姿を見ながら、イザナは心の中でニヤリと笑う。
(おもしれーの、入ってきたな。優等生の顔の下、どんなの隠してんのか。
……俺が全部、剥がしてやりてぇな)




