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臆病な僕と、リングの約束 ーBパート ジムサイドー  作者: 叶畑シュウ
第二章

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第十六話 春、ふたたび

 春休みの終わり。薄曇りの午後、大学ボクシング部の寮。


 一年の入寮日は、午前中からごった返していた。段ボールとスーツケースの山、親と一緒に来ている新入生もいれば、一人で来て淡々と手続きを済ませる者もいる。

 陸は、後者だった。


「月代くんね。はい、これが鍵」


 事務室で、職員からキーを受け取る。


「うちのルール知ってる? 一年は基本、上級生と相部屋。──まぁ、面倒見のいい先輩が多いから、安心して」


「はい。お世話になります」


 鍵に付いたプレートには、部屋番号「202-B」の文字。

その横に、小さく書かれた名前が目に入る。


202-B 黒瀬


(……黒瀬)


 心臓が、一拍だけ強く打つ。数週間前の、あのスパーの記憶が蘇る。


 入学前の挨拶を兼ねた体験練習。「ちょっとやってみる?」と顧問にリングに上げられた先で、笑っていた二年生。

 距離が近くて、重くて。立てない、と思うところまで追い込まれて、悔しさで胸が焼けた相手。


(まさか……)


 スーツケースを引きながら、指定された二階の廊下に上がる。ドアにはすでに片方の名前が貼られていて、その中で誰かが腰かけてスマホをいじっていた。


 黒いジャージ。短髪。日焼けした腕。


「──あ」


 先に気づいたのは、向こうだった。


「おつかれ、新入生」


 顔を上げた黒瀬イザナが、気怠げに笑いかける。


「……黒瀬先輩」


 陸が思わず立ち止まると、イザナは椅子代わりにしていた段ボールから腰を上げた。


「覚えてんじゃん。月代だっけ」


「はい。先日は、スパーありがとうございました」


 いつもの癖で、自然と頭が下がる。その丁寧すぎる礼に、イザナは「うわ、優等生」と笑いながら、ドアを親指で指した。


「で。ここ、お前の部屋。──と、俺の部屋」


「……え?」


 鍵を見る。プレートを見る。「黒瀬」と「月代」の名前が、並んでいる。


「ここの決まり。一年は上級生と相部屋」


 イザナが、わざとらしく肩をすくめる。


「誰と誰を組ませるかは、まあ……上の裁量ってやつ?」

「……もしかして、先輩が、決めたんですか?」


 一瞬だけ、イザナの口角が上がる。


「さぁ? 『月代、俺が見ます』って顧問に言った覚えはあるけど」


 さらっと言ってのけてから、にやっと笑う。


「これから全部、面倒見てやるから。ボクシングも、寮の暮らしも。──逃げんなよ?」


 言いながら、ひょいっと陸のスーツケースを取って勝手に部屋に運び込む。


「いえ、自分で──」

「いいから。こういうのは先輩の仕事」


 部屋の中はすでに半分、イザナの陣地になっていた。

 片側のベッドには、無造作に置かれたタオルとグローブ。壁には国体のポスターや、表彰台の写真。

 もう片側のベッドは、まだ何も置かれていない、まっさらな布団。


「こっちがお前ね」


 当然のように指さされる。


「荷物、そこ置いて。あー、その棚は上段俺、下段お前な」


 言いながら、イザナは陸のバッグをベッドの上にぽんと置いた。


「それと」


 近づいてきて、軽く陸の肩を叩く。


「体験のときの続き。

 もう一回お願いしますって言ってきたら、いつでもスパー付き合ってやるよ」


(あのときの……)


 悔しさでにじんだ視界の中で、「また今度な」と笑った顔が浮かぶ。


「……本当に、いいんですか」


 気づけば、口から出ていた。


「あんだけタフなら、教えがいあるし」


 イザナは軽く笑ってから、目だけ少し細めた。


「でも俺、けっこうきびしいよ?」

「……構いません」


 自分でも驚くくらい、すぐに出た言葉だった。


(この人に教わったら、もっと強くなれる。

 あの高校のリングとは、違う何かがあるかもしれない)


 そんな期待と、言葉にならないざわつきが、同時に胸の奥を撫でる。


「よろしい」


 イザナは満足そうに頷くと、陸の額を指でコツンと弾いた。


「じゃ、決まり。今日から、お前の世界は一旦、ここ」


「ここ……?」


「この部屋と、リングと、俺。他は一回忘れろよ、月代」


 軽口みたいに言いながら、その声にはどこか決定事項みたいな重さがある。陸は、かすかに眉を寄せた。


(他は、忘れろ……?)


 ナオの顔。シュガーのリング。コーチの「ほどほどにしろよ」という声。全部、頭の中をよぎる。


「……全部は、忘れられませんよ」


 気付いたら、そう返していた。自分でも少し驚くくらいの小さな抵抗。

 イザナが一瞬、「へぇ」と面白そうに目を細める。


「優等生のくせに、口の利き方、ちょっといいじゃん」


 くつくつと笑ってから、陸の肩に腕を回す。


「まぁ、いいや。どうせそのうち、ここが一番落ち着くようにしてやるから」

「一番、落ち着く……」

「そう。ここに帰ってきたら、『あー考えなくていい』って思えるように」


 その言葉の危うさを、このときの陸はまだ分かっていない。

 ただ、初めての寮生活への不安と、ボクシング部の厳しさへの緊張と、「面倒見てやる」と言われた安心感が、ぐちゃぐちゃに混ざって。


「……よろしくお願いします」


 素直に頭を下げた。


 廊下から聞こえる他の一年の声。「誰と同部屋?」「どんな先輩?」と、わいわいと騒ぐ音。


 その中で、202-Bのドアが静かに閉まる。

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