第十七話 二度目のお願い(★)
数日後の放課後。基礎メニューが一通り終わり、上級生たちが各自のメニューに散り始めたころ。ベンチに座って水を飲む黒瀬イザナの前に、静かに影が落ちた。
「黒瀬先輩」
顔を上げると、月代陸がいた。前より、すこしだけ覚悟のある顔をしている。
「スパー、お願いできますか」
イザナは手にしていたペットボトルをゆっくりと離し、見上げる。
「お。自分から来た」
へらっと笑って、わざと軽く言う。
「いいよ。ただ——」
わざと声のトーンを落とした。
「お前が『お願いします』って言ってきたんだからさ。
本当に厳しいけど。いいの?」
一瞬だけ、陸の喉が上下する。それでもすぐ、まっすぐな目でうなずいた。
「……かまいません。お願いします」
その言い方が、どこまでも丁寧なのがおかしくて、イザナは鼻で笑う。
「優等生だなぁ。じゃ、上がれよ」
ゴングが鳴る。
イザナは最初から、距離を潰しにいった。前足からグッと踏み込む。陸のジャブを、首を傾けて外しながら、頭がくっつくぐらいの距離まで入る。
「くっ……!」
陸の目が近い。眉がわずかに寄っている。
(近い距離、慣れてねえな)
イザナは、わざとクリンチ寸前の距離を保ちながら、肩で押し込みつつ、ボディにショートをねじ込む。
「……っ、ぐ」
息が漏れる音。それでも陸は、きちんとガードを上げなおす。長い腕で距離を作ろうと、ジャブを突き放つ。
イザナはそれを腕で払って、さらに一歩中へ。
「殴れよ、向かってこい」
低い声が、耳元で響く。
「当てて終わりじゃねぇ。いい子のパンチなんか、ここいらで捨ててけ」
ボディ、ボディ、ショートアッパー。ガードの上からでも、拳の重さは容赦ない。
陸の足が、ロープに触れる。
「下がるな。優等生やめろ、月代」
「優等生とか……そんな——」
言い返そうとして、その瞬間にボディをえぐられ、陸の言葉が切れる。
腹の奥に火がついたみたいに熱い。痛みとも悔しさともつかない感情が、胸の中でぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
(なんで、こいつに言われなきゃいけない)
(俺がどんな気持ちで殴られてきたかなんて、何も知らないくせに)
イザナのショートアッパーが、ガードのすき間から顎をかすめた。
「あっ」
視界が少しだけぶれる。すぐに陸はガードを上げ直すが、足元がぐらつく。
「……怒った?」
ふいに顎をグローブでクイッと持ち上げられる。至近距離。汗と息が触れそうな距離で、イザナが覗き込む。
陸の目の端は、少し滲んでいた。痛みと、悔しさと、うまく名前のつかない感情で。歯を食いしばる。
「……あなたに、俺のなにが分かるんですか」
先輩に向けて出た言葉に、自分で一瞬、ハッとする。こんな言い方をしたことなんて、一度もない。
リングの周りの空気が、一瞬だけ凍る。イザナは——笑った。
「いいね」
喉の奥でくつくつと笑いながら、ゆっくり顎から手を離す。
「反抗的。そっちのほうが似合ってるわ、お前」
次の瞬間、また距離を詰めてくる。ボディ。ショート。フック。ロープにもたれたまま、陸は必死で耐えるけれど、足が限界を迎える。
ガクン、と膝が落ちる。
「そこまで!」
顧問が慌てて声を飛ばす。イザナは手を止め、ふっと息を吐いてロープにもたれた。
陸は、膝をついたまま、拳だけはまだ握っていた。肩で荒く息をしている。悔しさと、情けなさと、どこかで奇妙な安堵が混ざった顔。
イザナはリングの中央にしゃがみ込んで、その顔を眺める。
「……やっぱお前、面白いわ。これから、面倒みてやるから」
陸の身体が、びくっと小さく揺れた。それから、ほんの少しだけ、抵抗をあきらめたように口元が緩む。
「……お願いします」
やっぱり丁寧な答え。
(——ああ、これで決まりだな)
イザナは内心で笑みをこぼす。基礎はできてる。距離も見えてる。受ける胆力もある。
でも——
(色がねぇ)
勝ちたい、ひっくり返したい、誰かをぶっ壊したい。そういう色が、致命的なまでに薄い。
真面目で、綺麗で、整っている。整いすぎていて、つまらない。
(だったら——)
染めてやればいい。自分の間合いで。言葉で。拳で。
「月代」
イザナは立ち上がった陸の肩に腕を回し、引き寄せる。
「基礎はマジで悪くねぇからさ。安心しろ」
横目でこちらを見る、陸。
「……はい」
「でも、お前、まだ色がないから」
「い、色……?」
「そう。染めがいある」
イザナは、笑った。目の奥だけが、すこし暗い。
「俺の色、似合うと思うけどな。お前」
何のことか分かっていない顔で、「……頑張ります」と返してくる一年。
その素直さが、余計に火をつける。イザナは笑いながら、肩に回した腕に少しだけ力をこめた。離す気は、なかった。
(綺麗なキャンバス用意してくれて、ありがと)
心のなかで、そんな言葉を落とす。




