第十八話 殴って、食わせて
スパーが終わったあとも、頬の熱はなかなか引かなかった。
タオルでざっと汗を拭いて、グローブを外して、バンテージを解いて。鏡を見ると、頬の片側がうっすら赤い。
「――よし、行くぞ。月代」
イザナがロッカー室の入り口で、タオルを肩にかけたまま振り返った。
「どこに、ですか」
「決まってんだろ。メシ」
当たり前、みたいな顔で言う。
「いや、俺、今日はその……」
「先に言っとく、断る権利ないから」
片眉だけ上げて笑う。有無を言わせない感じに、陸は苦笑してシューズを履いた。
◇◇◇
大学近くの定食屋は、練習後の学生でいっぱいだった。出汁と油の匂いが、妙に落ち着く。
「とりあえず、こいつに唐揚げ定食と──あと、生姜焼き」
注文を済ませながら、イザナは何の迷いもなく二人分のメニューを決めていく。
「先輩、俺、自分のは……」
「いいから黙っとけ」
メニューを閉じたあと、イザナはふっと笑って言った。
「ここはおごり。殴ったあとで飯食わすの、好きなんだよね、俺」
「……趣味悪いですね」
つい本音が口をついた。イザナは「お、言うじゃん」と楽しそうに笑う。
「でもまぁ、ちょうどいいだろ。
お前、食わないと保たねぇタイプっぽいし」
また勝手に決めつける……と心の中でつぶやきながら、陸は黙って冷たいお茶を飲んだ。
財布の中身を思い出す。今月の残りの日数と、残高。
(……おごりなら、ありがたく食べるしかない)
料理が運ばれてくる。湯気の立つ唐揚げ、照りのある生姜焼き。腹が、正直に鳴った。
「ほら」
イザナは唐揚げ定食を陸の前に、もう一方を自分の前に置いた。
「いただきます、は?」
「……いただきます」
「よろしい」
一口食べた瞬間、もう何も言えなくなる。衣がカリッとしていて、中は熱い。胃のあたりからすっと熱が落ちてくる感じがして、陸は黙々と口に運び続けた。
「やっぱ、お前、食うときの顔もいいわ」
「どんな顔ですか」
「生きてるって顔」
サラッとそう言って、イザナは自分の生姜焼きに箸をつける。ふと気づくと、さっきからあまり量が減っていない。
「先輩、食べないんですか」
「減量あるから、あんま食えねぇんだよ」
言いながら、イザナは生姜焼きの皿を少しこっちへ押しやった。
「俺の分、お前にやるわ」
「え?」
「殴ったあとにさ、ちゃんと食ってる顔見るの、結構好きなんだわ、俺」
そう言って、イザナは一切れの肉を箸でつまんで、陸の皿の上ではなく――そのまま、陸の前に差し出した。
「はい、口」
「……いや、自分で取りますから」
「お前、反抗期? いいから開けろよ」
「違います」
「じゃ、ほら。あーん」
からかうように言いながらも、箸は微動だにしない。
店のざわめきの中で、その一本だけが、やたらくっきり視界に刺さる。
(……最悪だな、本当に)
そう思いながらも、陸は観念して、少し身を乗り出した。
「……いただきます」
そっと噛むと、生姜の甘辛い味が口いっぱいに広がる。殴られて熱を帯びた頬の内側に染みて、少しだけ熱くなる。
「どう? 染みる?」
「……うまいです」
答えると、イザナは満足そうに笑った。
「だろ?」
箸の先で、陸の頬のあたりを、ふわっと指す。
「お前にはちゃんと、殴った分食ってもらわねーとな」
「……因果がひどいです」
「殴られて、飯食って、強くなる。シンプルで良くね?」
最悪だ。獲物に餌を与える捕食者みたいな理屈だ。
でも、胃の底に落ちていくこの温かさは、どうしようもなく現実だ。
箸を持つ指先に、まだバンテージの跡がうっすら残っている。
真正面から向かってこい、と何度も言われた拳の感触が、まだ腕に残っている。
(……この人に殴られて、この人に飯食わされて、それで強くなっていくのか、俺)
自分でもよく分からない感情が、喉の奥でぐるぐるした。
陸は、その全部に名前をつけないまま、とりあえず、再び差し出されたしょうが焼きに噛みついた。
「よし、いい子」
ぽん、と頭を軽く叩かれる。
「俺が殴って、食わせる。……全部、俺のコースな」
さらっと言うその言い方が、ひどく勝手で、ひどく甘い。
「考えるなよ、月代。頭ん中で全部きれいにしようとすんな。痛かった、悔しかった、美味かった、くらいでいい」
(……考えなくていい。全部、自分で整理しなくていい)
高校のリングでは、一人でスイッチを切って、一人で耐えて、一人で終わらせるしかなかった。
「……黒瀬先輩」
気づけば、陸の口からこぼれていた。
「また次も、お願いします」
イザナが、ニヤリと笑う。
「お。もう予約かよ」
しょうが焼きをひとつ口に放り込み、乱暴に咀嚼しながら言う。
「お前がお願いしますって言った分だけ、ちゃんと見てやる。……逃げんなよ、月代」
殴られて、悔しくて、泣きそうになって、それでも「またお願いします」と言ってしまう自分に、陸はまだ気づいていなかった。
ここで始まりかけた「鎖」の意味を。
それでも、あの高校のリングよりは、ずっと呼吸がしやすい、ということも。




