第八話 僕が倒す②
ゴングが鳴る。いつも通りなら、陸は様子を見る。ジャブをもらって距離を測り、我慢して、耐える。
(今回は違う)
部長の最初のワンツーを、ギリギリのところでスウェーして外す。頬にかすかに当たる風圧。それでも、足は止めない。
「おっ?」
部長がわずかに目を細める直前──ジャブで視線を上に持っていき、ストレートの軌道で相手のガードを上げさせ、その下を、もう一歩踏み込んでボディでえぐる。
「……ぐっ!」
そこから、教科書通りのワンツーではなく、ナオとの練習で何百回も繰り返したコンビネーションを叩き込む。
ジャブ、ボディ、アッパー。いつもは鉛みたいに重い腕が、今だけは軽い。
(俺は、ナオくんに『いじめられてる?』って聞かれたくない)
「調子に乗んなよ、一年!」
すぐさま返ってくるのは、ミドル級のカウンター。
ガードの上からでも、腕ごと持っていかれそうな重さだ。
視界が一瞬、白くなる。鼻の奥で血の味がした。ぐらつく膝を、足裏で踏みとどまる。
(ここで折れたら、いつまでも同じだ)
ロープに詰まりかけたところを、サイドステップでぎりぎり抜けて、今度は右回りに大きく回る。部長が追いかける。荒い息遣い。
「チョロチョロ逃げるな」と唸る声。
「逃げてません」
陸は、小さく呟いて、踏み込みのタイミングを計る。
部長の右が伸びる。さっきまでなら、もらっていた間合い。そこで陸は、半歩だけ中に入った。
拳が頭の横をかすめ、その反動で部長の上体がわずかに前に流れる。空いた肋骨の下に、全力の左ボディ。
「っが……!」
聞いたことのない声が、部長の口から漏れた。
そこからは、積み重ねてきたコンビネーションの総動員だった。
ナオと一緒に「ゲームみたい」と笑いながら覚えた連打。
シュガーの静かなリングで、何度も何度も「ナイス」と言ったパターン。
今度は、その全部を自分のために使う。
ジャブで顔を揺らし、同じ箇所にボディを打ち込み、上体が折れたところに、ショートアッパーをねじ込む。
ゴッ、と重い音。部長の頭が大きく仰け反る。
「ストップ、ストップ!」
顧問の声が飛ぶのと、部長の膝がガクンと落ちるのは、ほとんど同時だった。
体育館が、静まり返った。
(俺が強くなるって言ったから。もう、黙って耐えるのは終わり)
拳をそっと握る。鍛えてもらってるだけという嘘には、戻らない。
その日、体育館のリングの上でようやく、陸はナオへの「約束」を、一歩だけ果たしたのだった。
◇◇◇
ジムのドアは、いつもより重く感じた。
「こんにちはー……」
声は普通に出た。けれど入ってきた陸の顔を見て、フロントにいたコーチが露骨に目を丸くする。
「……お前さぁ」
一拍おいて、ため息まじりに言う。
「限界じゃね?」
片目は青く腫れ、ほほ骨のあたりは赤紫。血の滲む口元には絆創膏。
どう見ても、鍛えられましたで済む顔じゃない。
それでも陸は、へへ、と笑った。
「手当てはしてきましたから。それに今日は──」
言い終える前に、奥からドドドッと音がして、ナオが走ってくる。
「陸のお兄さん!!」
勢いよく目の前で止まり、ぱっと顔をのぞきこんで、表情が固まった。
「……やられてるじゃん」
すぐに眉間にしわが寄る。
「また悪者にやられたの?やっつけに行く? 場所どこ? 名前は? 僕もグローブ持ってく」
その目は本気で怒っている。コーチが、思わず吹き出しそうになるのをこらえて横を向く。
陸は、ふふ、と喉の奥で笑って首を振る。
「ありがとう、ナオくん。今日はね……ちょっと、違うんですよ」
リング脇のベンチに腰を下ろしながら、グローブを抱えたままゆっくり話し始める。
高一の頃からのこと。指導という名のいじめが、ずっと続いていたこと。
今日、初めて自分から立ち上がって、ナオに教えていたコンビネーションを、ぜんぶ自分の拳で叩き込んだこと。
ボロボロになりながらも、最後に部長を倒したこと。
話しているうちに、さっきまでは爽快感と疲労だけだった胸の奥が、じわじわと熱くなっていく。
「──で、勝ったんですよ。ちゃんと、立ったまま、倒して」
そこまで言ったところで、頬を伝う感触に気づいた。ぽたり、と膝の上に落ちる。
「……あれ」
情けないなぁ、と笑おうとしたのに、うまく形にならない。
「なんか、やっと……返せた気がして。
ナオくんに、俺が強くなるからって言ったから……」
視界がぼやける。ナオの顔が二重にゆれて見えた。
「全然、大丈夫じゃ……なかったんですね、俺」
震える声で、陸は正直にこぼす。
ナオは、しばらく黙って陸を見ていた。ぎゅっと奥歯をかみしめて、ゆっくりと陸の隣に座る。
「……よかった」
ぽつり、と小さく言った。
「やっつけられたんじゃなくて、ちゃんと返せたって聞いて……僕、ちょっと安心した」
陸が驚いてナオを見ると、ナオは少しだけ照れたように笑って、タオルで陸の頬の涙を拭く。
「陸のお兄さん、ケガで泣いてるんじゃないなら、いいよ。がまんしないで」
「……ナオくん」
「だってさ、ずっと心配してたんだよ? 陸のお兄さんばっか叩かれて、強くなるからって笑ってるの、つらいでしょ」
言いながら、そっと陸の背中をポンポンと叩く。
さっきまでの「やっつけに行く?」の物騒さは消えていて、そこにいるのは、いつものナオだった。
「だから、ナイス。はなまる。満点」
陸の胸の奥で、何かがふっと軽くなる。涙はまだ止まらないのに、自然と笑いがこみ上げてくる。
「ナオくんに……『ナイス』って言われるの、なんか、とっても嬉しいですね」
「でしょ?」
にへへ、と笑うナオ。
少し離れたところで様子を見ていたコーチは、サンドバッグの陰に隠れながら、そっと目頭を押さえた。




