第七話 僕が倒す①
放課後のシュガー、いつもの時間。ロープの跳ねる音と、サンドバッグの鈍い音が混じるなかで、ドアが開く。
制服姿の陸が「こんにちは」と頭を下げて入ってくると、髭のコーチは一瞬、その笑顔の奥にあるものに眉をひそめた。
──今日も顔、ちょっと腫れてんな。
目の下にはうっすらアザ、ほお骨のあたりには赤み。
「陸のお兄さん!」
ロッカーの影から、ナオがぴょん、と飛び出してくる。ようやくランドセルが似合い始めた、半ズボンの小さな身体。
「今日もコンビネーションする?」
「うん。ナオくんさえよければ、いくらでも付き合いますよ」
短い会話のあと、二人で準備体操をはじめる。コーチはタオルを手に、なんとなく見守っていた。
◇◇◇
ロープとシャドーが終わって、陸にグローブをつけてもらうナオ。ふいに正面からじっと陸を見つめる。
「……陸のお兄さん、いじめられてる?」
その言葉に、空気がぴたりと止まる。陸の笑顔が、一瞬だけ固まった。コーチは思わず手にしていたタオルを握りしめる。
「どうして、そう思うの?」
努めて穏やかに尋ねる陸に、ナオはむっとした顔で言う。
「だって……この前来たとき、ほっぺた真っ赤だった。今日も目の下、青い。転んだ怪我じゃないよ。
学校の人が、陸のお兄さんにひどいことしてるでしょ」
まっすぐすぎる視線に、陸はほんの少し目を泳がせた。喉の奥で、なにか重いものがつかえる。
──見られてるなぁ。子どもの目って、本当にごまかせない。
それでも、彼はいつもの笑顔を引っ張り出す。
「違うんだよ。これはね、鍛えてもらってるだけっていうか……」
口元だけで笑おうとして、頬の打撲が軽く痛む。ナオの眉が、さらにぎゅっと寄った。
「きたえるって言って、叩くのはひどい。
陸のお兄さんいじめる人、全員、僕が倒す……」
小さな拳をぎゅっと握り、むすっとしたまま言い切るナオ。
「……ナオくん」
陸は思わず笑ってしまう。でも、その笑いには少しだけ滲むものがある。
「心配してくれてありがとう。俺が、もっと強くなるから。
ナオくんは楽しいボクシングだけしてて」
コーチは、ぐっと視線をそらす。
(まーたそうやって、一人でかかえこむ……)
ここに来ると、「いじめられてる?」と心配してくれる子がいて。「鍛えてもらってるだけ」と誤魔化そうとするたびに、その嘘の上から、絆創膏を剥がすみたいに本音を衝いてくる。
ナオは、ほっぺたをぷくっと膨らませて考えている。
「やだ」
拗ねるように、ぽつり。
「僕、陸のお兄さんが楽しくないの、イヤ。
お兄さんも楽しいって言ってほしい」
「……ありがとね、ナオくん」
陸は、ナオの頭にそっと手を置いた。
「じゃあ、俺、ナオくんのためにも強くなる。
いつか、ナオくんが倒したい人ができたら、そのときは一緒に考えましょう」
ナオはしばらく考えてから、やっとうなずく。
「うん。じゃあ今日は、陸のお兄さんが楽しくなるコンビネーションしよ。僕、がんばる」
にっと笑って、ミットを取りに走る。その背中を見送りながら、コーチはため息をついた。
「……陸」
「はい?」
「お前、鍛えてもらってるって言うときの顔、全然面白くねぇぞ」
「ええっ」
陸は、苦笑いを浮かべた。その笑顔の端で、ナオが「いくよー!ワンツーから!」と声を張る。
「はいはい、今行きますから」
陸はナオの方に向かう。ミットに最初のワンツーが吸い込まれた瞬間、ようやく今日初めて、本物の笑顔がこぼれた。
◇◇◇
その日の練習も、きつかった。国体候補だのなんだのと期待されている分、「かわいがり」はもっぱら陸に集中する。
ロープにもたれてキャンバスにずるずる倒れ込む、陸。
「まぁ、こんなもんか」
目の前にはミドル級の部長。部長の拳は今日も、指導の名のもとに陸にめりこんでいた。
──鍛えてもらってるだけ、ね。
そう言い聞かせてきた言葉を、頭の中のナオの顔が静かに否定する。
『陸のお兄さんいじめる人、全員僕が倒す……』
あの小さな拳。「俺が強くなるから」と返した自分。
(だったら、俺が殴り返さないと、嘘だよな)
うずくまったまま、小さくつぶやく。陸はゆっくり立ち上がる。
「……部長、まだいけます」
「は?」
「すみません。もう1ラウンド、お願いします。
今度は、俺からも、ちゃんと返したいです」
「お前から?めずらしいな」
部長は口角を上げる。
「いいぜ。ボコられ足りないらしいな。後輩に現実教えるのも、先輩の役目。よし、構えろ、陸」
顧問が少し眉をひそめるが、結局タイマーの準備に入る。
周りがざわつく。さっきまでヘロヘロだった一年。自分から、もう1ラウンドなんて、聞いたことがない。
部員たちが、リングの周りに円を作った。




