第五話 苦いおそろい③(★)
次の日、体育館の隅。いつもの「並べ」の時間。体育館シューズの底がきゅっ、きゅっと鳴って、数人分の足音が近づいてくる。
「一年、並べー!」
ぶっきらぼうな声が飛ぶと、練習を切り上げた一年が、ずらりとロープ側に一列に並んだ。
「右から順番に腹、五発ずつなー。効いてない顔、ちゃんとしろよ。声出せよ」
いつもの決まり文句。いつもの「儀式」。……の、はずだったが。陸は列の途中で、ふと右側の空白に気づいた。
(……あ)
昨日まで、ここにいたはずの同級生。「ありがとうございました」と震える声で言っていた彼が、きょうはどこにもいない。
(やっぱり、やめたんだな……)
誰も口には出さない。でも、全員、知っている。
「陸、何ぼさっとしてんだ。さっさと詰めろ」
後ろから押されて、陸は半歩前に出る。空いたスペースに、自分の肩がすっぽり収まった。
上級生が目の前に立つ。グローブを陸の腹に軽く当てながら笑う。
「ほら、じゃあ期待の一年からいくか?」
周りの一年が、ちら、と陸を見る。誰も笑ってはいないが、空気がすこしだけざわついた。
(期待の一年……)
そう呼ばれると、胃のあたりが冷たくなる。上級生がゆっくりと構える。
「準備できてんのか? ほら、構えろ」
いつもの構え。腕を後ろに回し、腹筋に力を入れる。
「……お願いします」
(五発。いつも通り。それだけなら、耐えられる)
心の中で、そっと数える準備をする。上級生はにやりと笑い、一歩踏み込んだ。
ドンッ。
一発目から、容赦がなかった。ひゅっと肺の空気が抜ける。喉が勝手に、うめき声を出しそうになる。
(声、出すな)
顎を引いて、歯を食いしばる。表情だけは、変えないように。
ドゴッ、ドン、ドスッ──。
重い音が、腹の奥に染み込んでいく。上級生は陸の顔をなめるように見る。
「表情変えねぇな、お前。さすがだな?」
まわりから、乾いた笑い声が起きる。陸は、眉がぴくりと動きそうになるのを必死にこらえた。
五発目が終わる。
(……五。終わり)
本来なら、「ありがとうございました」と声を出して一歩下がれば終わる。いつもの流れだ。
でも、どうしても──喉が動かない。
(ありがとうございましたって、何に対して?)
沈黙。上級生が、目を細める。
「……おい、陸。どうした、ありがとうございましたは?」
(言えない)
そう思った瞬間、表情を保つのが、いきなり難しくなった。
「効いてねぇんだろ? お前」
上級生が、もう一度、ぐい、と間合いを詰める。
陸が否定しようとした瞬間――
――ドゴッ。
さっきよりも深く沈み込むような一発。肺から空気が押し出される。
(……っっ!)
息が吸えない。代わりに、ごふっと声が漏れる。上級生が陸の腹に拳を埋めたまま笑う。
「どうした、顔作れよ。まだ余裕ですって顔、得意だろ?」
次の一発。 今度は少し横腹ぎみに入って、重たい鈍痛が腰まで走る。
右、左、右……拳が突き刺さる度に、陸の身体は小さく跳ねる。
陸の中で、カウントの数字がぐちゃぐちゃになる。
(10……12……もう分からない)
「ずいぶん根性あんじゃんか。ありがとうございました、は?」
上級生の声が、やけに遠くに聞こえる。列の端のほう。一年の誰かが、目をそらしたのが見えた。
(泣きたいのは、僕じゃなくて──昨日までここにいた人のほう)
ようやく、一瞬の間が空く。
「ほら、どうしたよ」
陸は、ゆっくりと息を吸った。肺がきしむ。そして、喉の奥から、しぼり出すように言葉を出した。
「……ありがとうございました」
声は、かすれていた。うつむいて、歯を食いしばる。上級生は、ふっと口角を上げる。
「最初から大人しくそう言っときゃよかったんだよ。な?」
背中を、バン、と二度叩かれる。
「分かったか」という合図のように感じられた。
陸は、静かに一礼して、列の奥へと下がる。膝の力が抜けそうになるのをこらえて、壁にもたれそうになる身体を、まっすぐ立たせた。
別の一年に向かって、上級生の拳がまた打ち込まれていく。陸は、自分の両手のひらを見つめた。じわりと汗で濡れている。
(強いって、なんだろう。
泣かないこと? 顔に出さないこと?
人を殴って、倒して、それで残ること?)
(……そんな強さを、俺は本当は欲しかったのかな)
◇◇◇
その日の帰り道。制服の上から触れても、腹には鈍い痛みが残っていた。
家に向かう足は自然と、いつものジム、シュガーの方向へと曲がっていく。
ジムの隅っこのマットの上では、ナオはひとりでピョンピョン跳んでいた。
「……いち、に、さん、し、ご……!」
まだ小さい足が、床を軽く叩くたびに、細い縄がシュッ、シュッと空気を切る。
少し前までは、足に引っかかっては 「もうやだ!」とふくれていたのに、今日は違う。
10回、20回と数が伸びても、縄は足に触らない。
「ナオくん、上手になりましたね」
後ろからかかった声に、ナオはぱっと振り向く。ジムのジャージに着替えた陸が、立っていた。
「りくのお兄さん! みてた? みてた?」
「見てましたよ。すごいじゃないですか」
「さっきね、30回いけたんだよ!」
陸が、ほんの少し目を見開く。
「それは記録更新ですねぇ」
褒められたのが嬉しくて、ナオは陸の手をぎゅっと握った。ナオの小さな指の感触は、驚くほど柔らかくて、ひんやりとしていた。ちょっとだけ、溜めてから。
「……ねぇ、りくのお兄さん」
「はい?」
「なわとび、いっしょにとんでくれる?」
言った瞬間、自分で照れて、目線が床に落ちる。スニーカーのつま先でマットをぐりぐり押しながら、小さな声で付け足す。
「ぼく、れんしゅうした。おそろいでとべるくらい、がんばったから……」
陸は、少しだけ黙った。
――いつも、ナオに「一緒に跳ぼうよ」と言ってきたのは自分だった。
「楽しいから」「リズム大事だから」と、理由をくっつけながら。
でも今日は、逆だ。自分に向けて、「一緒に」と差し出されている。
「もちろん、いいですよ」
ふっと表情がやわらいで、陸は隣に立つ。
「じゃあ、ナオくんが号令係で。『せーの』って言ってください」
「……ほんとに?やっていいの?」
ナオはちょっとだけ胸を張って、ふたりの縄を見比べる。
陸は、いつもの白い縄。ナオは、最近買ってもらった、水色の縄。
「じゃあね――」
息を吸って。
「せーのっ!」
シュッ。
ふたり分の縄が同時に床から浮き上がって、同じタイミングでクルッと回る。
トンッ。足が揃って着地した。
「とべた!!」
ナオがぱっと顔をあげる。視線の先で、陸も軽く笑ってうなずく。
「はい、1回目成功です。今度は10回、目指しましょうか」
「やる!!」
「じゃあ、もう一回号令お願いします」
「せーのっ!」
シュッ、トン。
シュッ、トン。
2回、3回、4回――
両方の縄が、まるで一本の線みたいにリズムを刻む。
途中でズレそうになると、陸がほんの少しだけ速度を合わせる。
そのたびに、ナオは(おそろい……!)と胸の中がふわっと温かくなる。
「……きゅう、じゅう!」
10回目の着地で、ナオは笑いながら膝に手をつく。息が弾んで、頬が赤くなる。
「はぁ……はぁ……りくのお兄さん、ぼく、いっしょにとべた?」
「ええ。ばっちりおそろいでしたよ」
そう言って、陸はナオの髪をくしゃっとなでる。
「ナオくん、立派なボクサーの素質ありますね」
「ぼく、ボクサーになるの?」
「なってもいいですよ。でも、ならなくてもいいです。
ナオくんの楽しい気持ちが続くかぎり、一緒に行きましょう」
「ふふっ……じゃあさ」
ナオは、照れ隠しみたいに縄を振りながら、小さな声で、もう一度だけ言う。
「これからも、ずっとおそろいでとんでね。ともだちだから」
「うん、そうですね、ナオくん。友達だね」
返した声が、自分でも驚くほど震えていた。言葉がじんわり胸に染みる。
「ナオくんが飽きるまで。何回でも、一緒に跳びますよ」
その言葉が、陸の中で、こっそりセーブデータになる。
――あとで何度も、思い出してしまうような、はじまりの約束として。




