第二十六話 終わらない夢①
夜中だった。寮の廊下は静まり返っていて、聞こえるのはたまに誰かの咳払いと、遠くのエレベーターの機械音くらい。
ベッドのなかで、陸はうなされていた。
「……っ、や、……まだ、いけます……」
かすれた声。汗でぐっしょりと濡れたTシャツが、胸と背中に張りついている。両手を無意識に握りしめ、脚はキャンバスを踏みしめるようにぴくぴく動いていた。
頭の中には、あの高校の体育館の天井の色。ロープに追い詰められた感触。終わらないスパー。
『陸、上がれ』
『インターバルなしだ。相手だけ変える』
『倒れるな、根性見せろよ』
先輩たちの笑い声と、グローブが身体にめり込む感触。誰も止めてくれないリング。
(……俺はまだいける)
夢の中で、陸は何度もそう繰り返していた。
「おい、月代」
肩を揺さぶられた。
「……っ!」
陸の目が、ばちんと開く。
視界に飛び込んできたのは、寮の薄暗い天井と、真上から覗き込んでいるイザナの顔だった。
「おはよー、じゃねぇけど。起きた?」
「……黒瀬、先輩?」
息が荒く、胸が上下している。口の中には、うっすら血の味の幻が残っていた。
イザナは、片膝をベッドに乗せた姿勢で陸を見下ろす。
「うなされてた。昼間のスパー、殴りすぎたかなってちょっと反省中」
軽く肩をすくめて、大きな手のひらをそのまま陸の額にあてる。
「熱とか、ねぇ?」
ひんやり、でも重さのある手。子どものころ、熱をはかったときの感覚が一瞬よみがえって、陸は咄嗟に顔をそむけた。
「……子どもじゃないんで、やめてくださいよ」
いつもの敬語のままなのに、声の奥に微妙なトゲが混じる。イザナの口の端がゆっくり上がった。
「お、寝起きでご機嫌ななめか?」
手のひらはどかない。むしろ、指先を前髪をかき上げるように動かして、額の真ん中を上手になぞる。
陸は、自分の手がまだ握りこぶしになっているのに気づいて、慌てて開いた。
「……いえ、すみません。起こしましたか」
「起きたってか、うるさくて落ち着かねぇから起こした」
言葉はぶっきらぼうだが、手は陸の額に置いたまま。イザナは、額に貼りついた前髪を、ぐしゃっと後ろに撫で上げた。
「俺、夢の中にまで行ってた? 立てよとか、向かってこいとか言ってた?」
「いえ……高校のときの」
「なーんだ。じゃあ俺の出番じゃなかったな」
わざとらしく残念そうに言ってから、イザナは、ふっと表情を和らげてベッドに腰掛ける。
「なんか、あった?」
その一言で、陸の喉がきゅっとなる。窓の外の非常灯が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。陸は上を見たまま、小さく息を吐いた。
「高校一年のとき……部長を、倒してしまって」
「しまって?」
陸は、ゆっくりと言葉を探しながら続けた。
「それで、なんというか……空気が変わって。
先輩たちも同級生も、俺に話しかけてこなくなって」
あの体育館の匂いが、鼻の奥に蘇る気がした。
「顧問の先生がいないとき、部長が『陸、スパーするぞ』って言って。先輩の相手を次から次へとさせられて。
インターバルもなくて、相手だけ変わって……」
言いながら、無意識に自分のわき腹に手をあてる。
「倒れたら、笑われると思って。……ずっと、立ってました」
イザナは、黙って聞いていた。
「みんな、しんどそうにしてるの、見えてました。やりたくないのにやらされてるのも分かってて」
「……」
「まだいける、倒れたらダメだって自分に言い聞かせてました。終わったあとも、誰も何も言わなくて」
そこまで話して、陸は苦笑いを浮かべた。
「今も、たまに見るんです。あの終わらないスパーの夢」
イザナが息を吸う音がした。
「くだらねぇ」
ぽつりと落ちる言葉。陸は、びくっと肩を揺らした。




