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臆病な僕と、リングの約束 ーBパート ジムサイドー  作者: 叶畑シュウ
第二章

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第二十五話 ナオのやきもち

 土曜日のシュガー。ミット打ちも一段落したころ。


「ふぅ……」


 汗をぬぐいながらリングを降りた陸が、ベンチに腰を下ろす。その瞬間を待っていたみたいに、ナオがぴょこん、と隣に座り込んだ。


「陸のお兄さん!」

「はいはい、ナオくん。今日も元気ですね」

「大学、どう? 寮って楽しい?」


 目がきらきらしている。ヒゲのコーチがカウンターの奥から、ペットボトルを二本持ってきて、無言で二人の近くに置いた。


「ありがとうございます」

「サンキュー、コーチ!」


 陸とナオが同時に頭を下げる。コーチは「おう」とだけ言って、近くのサンドバッグを整えながら耳だけこっちに向けていた。


「大学は……そうですね。講義も多いですし、思ってたより大変ですよ」


 ペットボトルのフタを開けながら、陸が苦笑する。


「朝はランニングしてから講義行って、空きコマに課題やって、夕方は部活で……。夜は、寮に戻ってからまたトレーニングしたり」

「うわぁ……」


 ナオは素直に目を丸くする。


「でも、楽しそう!」

「楽しいかどうかは……半分くらい?」


 冗談めかして肩をすくめる。


「同じ部屋の先輩がボクシング部で。練習も、生活も、いろいろ教えてくれるんですよ。練習メニュー、一緒に考えてくれたり」


 ナオの眉が、きゅっと寄る。


「同じ部屋なの? その先輩と?」

「はい。一年は上級生と相部屋なんです。俺はその先輩と」


「え~~~~~~~~~!!」


 ジム中に響きそうな声が出た。コーチが思わず振り向く。


「いいなぁぁぁ……」


 ナオはぺたん、と座りなおして、両手で自分の頬をむにむにしながら、恨めしそうに陸を見上げる。


「陸のお兄さんと同じ部屋なんて、絶対楽しいもん。

 起きたら一緒、寝る前も一緒、練習メニューも一緒、コンビネーションも相談できるし……ずるい……」

「ず、ずるいって」


 陸は困ったように笑う。


「でも、そんなに楽なことばかりじゃないですよ。走れって言われますし。サボってると、すぐバレますから」

「いいよそれくらい! 僕、走る!」


 ナオはぐいっと身を乗り出す。


「いいなぁ、その先輩。陸のお兄さんと一緒の部屋なんて、めっちゃラッキーじゃん。僕も行きたい! 大学の寮、住む!!」

「ナオくんはまだ小学生ですから」

「中学になったら!」

「それでもダメですね」

「じゃあ高校になったら!!」


「そのころには、僕もう寮出てると思いますよ……」

「えぇぇぇぇ……!」


 床にひっくり返りそうな勢いで落ち込むナオ。コーチが、ため息をひとつ落とした。


「お前なぁ……」

「だってさぁ! 知らない人と同じ部屋でしょ? 怖くないの?」


 ナオは起き上がって、真剣な顔になる。陸は、少しだけ考えてから言葉を選ぶ。


「その先輩、きびしいですけど……ちゃんと教えてくれますし。

 怒るだけじゃなくて、終わったあと、ちゃんと話もしてくれますから」

「ふーん……」


 ナオはまだ疑い深い顔のまま、ジュースをごくんと飲む。


「優しい?」

「優しいかどうかは……うーん……」


 陸は曖昧に笑って、少し視線を落とした。


「きびしい、です。でも、強くしようとしてくれてるのは分かります。だから、俺もついていこうかなって」


 ナオはじーっと陸の横顔を見つめる。そして、急にむすっとした。


「やだ」


 はっきり言う。


「陸のお兄さん、どっか連れてかれちゃいそうでやだ。

 なんか、その先輩に取られたみたいでやだ」

「取られてないですよ」


 陸は慌てて笑う。


「ちゃんと毎週ここ来てるじゃないですか。

 ナオくんのコンビネーションも、一緒に考えてるでしょう?」

「それはそうだけど!」


 ナオはぷくっと頬を膨らませる。


「僕も寮行きたい! 同じ部屋がいい! 勉強とか宿題とかやるから。荷物運ぶのも手伝うから!」

「さすがに寮は無理ですよ……」


 困り顔の陸を見て、コーチがとうとう口を挟んだ。


「ナオ、気持ちは分かるけどな」

 

 コーチはタオルを肩にかけ、ふたりの前にドカッと座る。


「部の寮ってのは、修行みたいなもんだ。中の空気もあるし、ルールもある。

 お前の出番は──シュガーで十分だ」

「……修行……」


 ナオは難しい顔をして、ジュースをいじる。


「陸のお兄さん、そこで……大丈夫?」

「はい、ナオくんがここで待っててくれるなら、がんばれますから。土曜はちゃんと帰ってきますし」


 陸がもう一度、笑う。その笑顔は、シュガーに来たときの、いつもの柔らかい顔だ。


「うん……」


 ナオはまだ不満そうだが、それでも小さく頷いた。


「じゃあ、僕、もっと強くなる。陸のお兄さんが、変な先輩にいじめられても、いつか助けに行けるくらい」

「変な先輩って……」


 苦笑する陸の背中を、コーチはちらっと見てから、ふっと目を細める。


(……やべぇな)


 タオルで、ごし、と自分の首筋の汗をぬぐう。


(話に出てくるその、きびしくて、教えてくれて、全部見てくれる先輩ってやつ。スポーツの世界でいちばん危ないタイプだぞ)


 強くしようとするのと、全部預けさせようとするのは、似てるようで違う。


(まぁ……)


 コーチは、ナオと陸を見比べる。


(こいつは、簡単には染まんねぇだろうけどな)


 シュガーでミットを受けているときの陸の顔。ナオのコンビネーションを「いいですね」とほめるときの、やさしい目つき。

 あれは、多分、大学では出てこない。


(それでもまあ、なんか悪い奴に目ぇ付けられてんな……)


 心の中でだけ、低くつぶやく。


「……じゃあ、そろそろもう1ラウンド、ミット行きますか」


 陸が立ち上がると、ナオもぱっと飛び上がる。


「うん! さっきの続き! 3番と4番!」

「はいはい。じゃあ、もう一回おさらいしましょうか」


 ふたりがリングに向かって走っていくのを見送りながら、コーチは、サンドバッグをぽん、と軽く叩いた。


(……誰か知らねぇけどよ。簡単に持ってかれるほど、陸も安くねぇからな)


 心の中でだけ見知らぬ、やべぇ先輩に向かって、そんな牽制を投げていた。

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