第二十五話 ナオのやきもち
土曜日のシュガー。ミット打ちも一段落したころ。
「ふぅ……」
汗をぬぐいながらリングを降りた陸が、ベンチに腰を下ろす。その瞬間を待っていたみたいに、ナオがぴょこん、と隣に座り込んだ。
「陸のお兄さん!」
「はいはい、ナオくん。今日も元気ですね」
「大学、どう? 寮って楽しい?」
目がきらきらしている。ヒゲのコーチがカウンターの奥から、ペットボトルを二本持ってきて、無言で二人の近くに置いた。
「ありがとうございます」
「サンキュー、コーチ!」
陸とナオが同時に頭を下げる。コーチは「おう」とだけ言って、近くのサンドバッグを整えながら耳だけこっちに向けていた。
「大学は……そうですね。講義も多いですし、思ってたより大変ですよ」
ペットボトルのフタを開けながら、陸が苦笑する。
「朝はランニングしてから講義行って、空きコマに課題やって、夕方は部活で……。夜は、寮に戻ってからまたトレーニングしたり」
「うわぁ……」
ナオは素直に目を丸くする。
「でも、楽しそう!」
「楽しいかどうかは……半分くらい?」
冗談めかして肩をすくめる。
「同じ部屋の先輩がボクシング部で。練習も、生活も、いろいろ教えてくれるんですよ。練習メニュー、一緒に考えてくれたり」
ナオの眉が、きゅっと寄る。
「同じ部屋なの? その先輩と?」
「はい。一年は上級生と相部屋なんです。俺はその先輩と」
「え~~~~~~~~~!!」
ジム中に響きそうな声が出た。コーチが思わず振り向く。
「いいなぁぁぁ……」
ナオはぺたん、と座りなおして、両手で自分の頬をむにむにしながら、恨めしそうに陸を見上げる。
「陸のお兄さんと同じ部屋なんて、絶対楽しいもん。
起きたら一緒、寝る前も一緒、練習メニューも一緒、コンビネーションも相談できるし……ずるい……」
「ず、ずるいって」
陸は困ったように笑う。
「でも、そんなに楽なことばかりじゃないですよ。走れって言われますし。サボってると、すぐバレますから」
「いいよそれくらい! 僕、走る!」
ナオはぐいっと身を乗り出す。
「いいなぁ、その先輩。陸のお兄さんと一緒の部屋なんて、めっちゃラッキーじゃん。僕も行きたい! 大学の寮、住む!!」
「ナオくんはまだ小学生ですから」
「中学になったら!」
「それでもダメですね」
「じゃあ高校になったら!!」
「そのころには、僕もう寮出てると思いますよ……」
「えぇぇぇぇ……!」
床にひっくり返りそうな勢いで落ち込むナオ。コーチが、ため息をひとつ落とした。
「お前なぁ……」
「だってさぁ! 知らない人と同じ部屋でしょ? 怖くないの?」
ナオは起き上がって、真剣な顔になる。陸は、少しだけ考えてから言葉を選ぶ。
「その先輩、きびしいですけど……ちゃんと教えてくれますし。
怒るだけじゃなくて、終わったあと、ちゃんと話もしてくれますから」
「ふーん……」
ナオはまだ疑い深い顔のまま、ジュースをごくんと飲む。
「優しい?」
「優しいかどうかは……うーん……」
陸は曖昧に笑って、少し視線を落とした。
「きびしい、です。でも、強くしようとしてくれてるのは分かります。だから、俺もついていこうかなって」
ナオはじーっと陸の横顔を見つめる。そして、急にむすっとした。
「やだ」
はっきり言う。
「陸のお兄さん、どっか連れてかれちゃいそうでやだ。
なんか、その先輩に取られたみたいでやだ」
「取られてないですよ」
陸は慌てて笑う。
「ちゃんと毎週ここ来てるじゃないですか。
ナオくんのコンビネーションも、一緒に考えてるでしょう?」
「それはそうだけど!」
ナオはぷくっと頬を膨らませる。
「僕も寮行きたい! 同じ部屋がいい! 勉強とか宿題とかやるから。荷物運ぶのも手伝うから!」
「さすがに寮は無理ですよ……」
困り顔の陸を見て、コーチがとうとう口を挟んだ。
「ナオ、気持ちは分かるけどな」
コーチはタオルを肩にかけ、ふたりの前にドカッと座る。
「部の寮ってのは、修行みたいなもんだ。中の空気もあるし、ルールもある。
お前の出番は──シュガーで十分だ」
「……修行……」
ナオは難しい顔をして、ジュースをいじる。
「陸のお兄さん、そこで……大丈夫?」
「はい、ナオくんがここで待っててくれるなら、がんばれますから。土曜はちゃんと帰ってきますし」
陸がもう一度、笑う。その笑顔は、シュガーに来たときの、いつもの柔らかい顔だ。
「うん……」
ナオはまだ不満そうだが、それでも小さく頷いた。
「じゃあ、僕、もっと強くなる。陸のお兄さんが、変な先輩にいじめられても、いつか助けに行けるくらい」
「変な先輩って……」
苦笑する陸の背中を、コーチはちらっと見てから、ふっと目を細める。
(……やべぇな)
タオルで、ごし、と自分の首筋の汗をぬぐう。
(話に出てくるその、きびしくて、教えてくれて、全部見てくれる先輩ってやつ。スポーツの世界でいちばん危ないタイプだぞ)
強くしようとするのと、全部預けさせようとするのは、似てるようで違う。
(まぁ……)
コーチは、ナオと陸を見比べる。
(こいつは、簡単には染まんねぇだろうけどな)
シュガーでミットを受けているときの陸の顔。ナオのコンビネーションを「いいですね」とほめるときの、やさしい目つき。
あれは、多分、大学では出てこない。
(それでもまあ、なんか悪い奴に目ぇ付けられてんな……)
心の中でだけ、低くつぶやく。
「……じゃあ、そろそろもう1ラウンド、ミット行きますか」
陸が立ち上がると、ナオもぱっと飛び上がる。
「うん! さっきの続き! 3番と4番!」
「はいはい。じゃあ、もう一回おさらいしましょうか」
ふたりがリングに向かって走っていくのを見送りながら、コーチは、サンドバッグをぽん、と軽く叩いた。
(……誰か知らねぇけどよ。簡単に持ってかれるほど、陸も安くねぇからな)
心の中でだけ見知らぬ、やべぇ先輩に向かって、そんな牽制を投げていた。




