第二十四話 お仕置きとペットボトル
リングの中央。グローブを合わせた瞬間、イザナがにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「言ったろ。夜更かししてた悪い子には、お仕置きって」
昨夜の、甘い匂いがフラッシュバックする。陸は、ガードを上げながら少しだけムッとして口を開いた。
「門限破りをしていたのは、先輩のほうじゃ──」
陸が最後まで言い切るより早く。イザナの左ジャブが、言葉を切るように飛んできた。
「っ!」
咄嗟にガードした腕が、ビリッと痺れる。それを皮切りに、ゴングの音すら置き去りにするようなラッシュが始まった。
「口答えすんなよ、優等生」
笑いを含んだ声と一緒に、ワンツー、フック、アッパー。息をつく間もなく、陸の反論を強制的に飲み込ませる。
(理不尽すぎる……っ!)
「はい、下がんな。ロープ、使わねぇよ今日は」
そう言ったくせに、気づけば陸の背中にはすでに硬い感触が張り付いていた。四角いリングの最も奥。コーナーポストが、シャツ越しに当たって、ギシッと冷たく嫌な音を立てる。
(また、逃げ道を潰された……)
完全に退路を断たれた隅。イザナの肩が、わざとらしいくらい揺れて、陸の視界を真っ暗に塞ぐ。
ドンッ、と鳩尾に重い一発がめり込んだ。
「……ッ、」
腹の奥がきしむ。息が漏れそうになるのを、奥歯で噛み殺す。
「お」
獲物を味わうように、イザナの目が細められる。
「腹、締まってきたじゃん、月代。……殴りがい、出てきたわ」
勝手な言葉と同じタイミングで、また一発。今度は反対側。ガードの隙間から、迷いのない拳がえぐり込んでくる。
「っ……!」
背中がもう一度、ポストに強く打ちつけられる。リングの外から、誰かの小さな声。
「えぐ……」「黒瀬先輩、容赦ねー」
聞こえているけど、拾っている余裕はない。
視界の中でくっきりしているのは、自分より少しだけ背の高い先輩の肩と、胸と、その奥にある黒い瞳だけ。
「目ぇ、こっちだ。下、見てんじゃねぇよ」
グローブ越しの強い力で、乱暴に顎を跳ね上げられる。額同士がぶつかりそうな距離で、イザナの笑い声が落ちてくる。
「怒ってんだろ? もっと感情出せよ。まだ余裕ある顔してんじゃねぇか、優等生」
(余裕なんて、あるわけないでしょうが)
そう言い返す息すら、もう残っていない。
左ボディ、右ボディ。ときどき、あばらの上をなぞるようなショートアッパー。ガードの上からでも、肺が揺れる衝撃。圧倒的で理不尽なお仕置き。
何発目か分からないところで、陸の脚が一瞬、ふわりと浮いた気がした。キャンバスが遠のきかける。それでも膝を折らないように、足に力を込める。
(倒れたら、終わる)
それは、意地に近かった。この距離で、イザナのパンチをもらっても、最後まで立っていられたら――自分とこの人の間の何かが、変わる気がしていた。
「……っ、は、あ……っ」
肩で激しく息をする陸を見下ろして、イザナはふっと、満足そうに口角を上げた。
「いいねぇ、その顔」
最低な言い方なのに、なぜか嬉しそうだ。
「でも、まだ終わんねぇよ。コーナー背負ってんの、そっちだからな」
さらに一歩、踏み込まれる。逃げられない距離から、胸のすぐ下に、ドスッと決定的な一発が突き刺さった。
「——、っ!」
視界が弾け、一瞬完全に真っ白になる。喉の奥から何かがこみ上げるのを、必死に飲みこんだ。膝が、勝手に折れそうになるのをこらえる。
遠くで、何かが鳴る音がした。それが終了の合図だと認識できるまで、数拍かかった。
「はい、そこまでー!」
外からの声で、陸はほんの少し遅れてガードを下ろした。
腕が、鉛みたいに重い。息を吸おうとして、肺がうまく動かないことに気づく。
(……倒れなかった)
それだけは、分かった。ふら、と前に傾いだところで、イザナの腕が当然のように陸の肩をつかんだ。
「おーおー、最後まで立ったじゃん。すげーな、お前。ここまで持ったの、初めてだわ」
言いながら、真上から手が伸びてくる。乱れた髪をくしゃ、と大きな手がなで回した。
「いい子、いい子。……よく耐えたな、陸」
そう呼ばれるのは、高校では窒息しそうなくらい嫌だったのに。今はその言葉が少し違って聞こえる自分がいて、陸は自分の感覚に戸惑う。
「ほら、口、開けろ」
リングサイドからペットボトルを取ってきたイザナが、何のためらいもなく、陸の顎を指で押し下げる。
拒む間もなく、マウスピースを外したばかりの唇に、イザナの親指がぐいと割り込んできた。歯列をなぞるような指の感触。無理やり口内を開かされ、冷たい水が注ぎこまれる。
「……んぐ、っ、は……ぁっ」
飲み込みきれなかった水が口の端から溢れ、陸の鎖骨を伝っていく。それを拭うこともせず、イザナはただ「もっと飲め」と、逃げ場を塞ぐようにボトルを押し当てた。
むせて咳き込みそうになったところで、ようやくボトルが離れ、背中をぽんぽんと軽くさすられる。
「はいはい、ゆっくり。お前、今マジで体の水分飛んでっから」
その様子を見ていた別の先輩が、あきれたように笑う。
「……いや、黒瀬さぁ。温度差エグすぎない? さっきまであんだけボコっといて」
「あ? だって——」
イザナは当然の顔で肩をすくめる。
「こいつ、今俺のだし。世話すんの当たり前じゃね?」
リングの下から「出たよ」「始まった」と小さな呆れた笑い声。黒瀬のやべぇスイッチ入った、という空気。
(俺の……)
その一言が、妙に胸に引っかかる。イザナは気にした様子もなく、陸の髪にもう一度てきとうに手を突っ込む。
「ほら、さっさとシャワー行け。最後まで倒れなかったご褒美に、今日はこの後のメニュー、なしにしてやる」
「……それ、先に言ってほしかったですね」
冗談めかして返すと、イザナは「言わねーよ」と悪びれずに笑う。
「言ったら、甘えんだろ。ギリギリまで追い込んでから、撫でてやるのがいいんじゃん」
最低だな、と思う。
(でも、最後まで——倒れなかったって、たぶんこの人が一番、ちゃんと見てた)
そう思ってしまう自分に驚く。
リングを降りるとき、足がまだ少し震えていた。ロープをまたぐ瞬間、ペットボトルを返す。
「……ありがとうございました、イザナさん」
「おう。今度は、さっきのとこちゃんと殴り返してこいよ」
どこのことか、ちゃんと分かっている言い方だった。
更衣室へ向かう途中。ふと、昨日の光景が蘇る。甘い香水の匂い。
(彼女……いるんだよな、この人)
思い出すだけで、喉の奥にさっきのスポーツドリンクとは違う苦さが広がる。
(……俺の、って)
あんなふうに、みんなの前で言うくせに。
(本当はあなたこそ、誰のものなんですか)
シャワー室の扉を押す手に、ほんの少しだけ力がこもった。




