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臆病な僕と、リングの約束 ーBパート ジムサイドー  作者: 叶畑シュウ
第二章

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第二十四話 お仕置きとペットボトル

 リングの中央。グローブを合わせた瞬間、イザナがにやりと人の悪い笑みを浮かべた。


「言ったろ。夜更かししてた悪い子には、お仕置きって」


 昨夜の、甘い匂いがフラッシュバックする。陸は、ガードを上げながら少しだけムッとして口を開いた。


「門限破りをしていたのは、先輩のほうじゃ──」


 陸が最後まで言い切るより早く。イザナの左ジャブが、言葉を切るように飛んできた。


「っ!」


 咄嗟にガードした腕が、ビリッと痺れる。それを皮切りに、ゴングの音すら置き去りにするようなラッシュが始まった。


「口答えすんなよ、優等生」


 笑いを含んだ声と一緒に、ワンツー、フック、アッパー。息をつく間もなく、陸の反論を強制的に飲み込ませる。


(理不尽すぎる……っ!)


「はい、下がんな。ロープ、使わねぇよ今日は」


 そう言ったくせに、気づけば陸の背中にはすでに硬い感触が張り付いていた。四角いリングの最も奥。コーナーポストが、シャツ越しに当たって、ギシッと冷たく嫌な音を立てる。


(また、逃げ道を潰された……)


 完全に退路を断たれた隅。イザナの肩が、わざとらしいくらい揺れて、陸の視界を真っ暗に塞ぐ。

 ドンッ、と鳩尾(みぞおち)に重い一発がめり込んだ。


「……ッ、」


 腹の奥がきしむ。息が漏れそうになるのを、奥歯で噛み殺す。


「お」


 獲物を味わうように、イザナの目が細められる。


「腹、締まってきたじゃん、月代。……殴りがい、出てきたわ」


 勝手な言葉と同じタイミングで、また一発。今度は反対側。ガードの隙間から、迷いのない拳がえぐり込んでくる。


「っ……!」


 背中がもう一度、ポストに強く打ちつけられる。リングの外から、誰かの小さな声。


「えぐ……」「黒瀬先輩、容赦ねー」


 聞こえているけど、拾っている余裕はない。

 視界の中でくっきりしているのは、自分より少しだけ背の高い先輩の肩と、胸と、その奥にある黒い瞳だけ。


「目ぇ、こっちだ。下、見てんじゃねぇよ」


 グローブ越しの強い力で、乱暴に顎を跳ね上げられる。額同士がぶつかりそうな距離で、イザナの笑い声が落ちてくる。


「怒ってんだろ? もっと感情出せよ。まだ余裕ある顔してんじゃねぇか、優等生」


(余裕なんて、あるわけないでしょうが)


 そう言い返す息すら、もう残っていない。

 左ボディ、右ボディ。ときどき、あばらの上をなぞるようなショートアッパー。ガードの上からでも、肺が揺れる衝撃。圧倒的で理不尽なお仕置き。


 何発目か分からないところで、陸の脚が一瞬、ふわりと浮いた気がした。キャンバスが遠のきかける。それでも膝を折らないように、足に力を込める。


(倒れたら、終わる)


 それは、意地に近かった。この距離で、イザナのパンチをもらっても、最後まで立っていられたら――自分とこの人の間の何かが、変わる気がしていた。


「……っ、は、あ……っ」


 肩で激しく息をする陸を見下ろして、イザナはふっと、満足そうに口角を上げた。


「いいねぇ、その顔」


 最低な言い方なのに、なぜか嬉しそうだ。


「でも、まだ終わんねぇよ。コーナー背負ってんの、そっちだからな」


 さらに一歩、踏み込まれる。逃げられない距離から、胸のすぐ下に、ドスッと決定的な一発が突き刺さった。


「——、っ!」


 視界が弾け、一瞬完全に真っ白になる。喉の奥から何かがこみ上げるのを、必死に飲みこんだ。膝が、勝手に折れそうになるのをこらえる。


 遠くで、何かが鳴る音がした。それが終了の合図だと認識できるまで、数拍かかった。


「はい、そこまでー!」


 外からの声で、陸はほんの少し遅れてガードを下ろした。

 腕が、鉛みたいに重い。息を吸おうとして、肺がうまく動かないことに気づく。


(……倒れなかった)


 それだけは、分かった。ふら、と前に(かし)いだところで、イザナの腕が当然のように陸の肩をつかんだ。


「おーおー、最後まで立ったじゃん。すげーな、お前。ここまで持ったの、初めてだわ」


 言いながら、真上から手が伸びてくる。乱れた髪をくしゃ、と大きな手がなで回した。


「いい子、いい子。……よく耐えたな、陸」


 そう呼ばれるのは、高校では窒息しそうなくらい嫌だったのに。今はその言葉が少し違って聞こえる自分がいて、陸は自分の感覚に戸惑う。


「ほら、口、開けろ」


 リングサイドからペットボトルを取ってきたイザナが、何のためらいもなく、陸の顎を指で押し下げる。

 拒む間もなく、マウスピースを外したばかりの唇に、イザナの親指がぐいと割り込んできた。歯列をなぞるような指の感触。無理やり口内を開かされ、冷たい水が注ぎこまれる。


「……んぐ、っ、は……ぁっ」


 飲み込みきれなかった水が口の端から溢れ、陸の鎖骨を伝っていく。それを拭うこともせず、イザナはただ「もっと飲め」と、逃げ場を塞ぐようにボトルを押し当てた。

 むせて咳き込みそうになったところで、ようやくボトルが離れ、背中をぽんぽんと軽くさすられる。


「はいはい、ゆっくり。お前、今マジで体の水分飛んでっから」


 その様子を見ていた別の先輩が、あきれたように笑う。


「……いや、黒瀬さぁ。温度差エグすぎない? さっきまであんだけボコっといて」

「あ? だって——」


 イザナは当然の顔で肩をすくめる。


「こいつ、今俺のだし。世話すんの当たり前じゃね?」


 リングの下から「出たよ」「始まった」と小さな呆れた笑い声。黒瀬のやべぇスイッチ入った、という空気。


(俺の……)


 その一言が、妙に胸に引っかかる。イザナは気にした様子もなく、陸の髪にもう一度てきとうに手を突っ込む。


「ほら、さっさとシャワー行け。最後まで倒れなかったご褒美に、今日はこの後のメニュー、なしにしてやる」

「……それ、先に言ってほしかったですね」


 冗談めかして返すと、イザナは「言わねーよ」と悪びれずに笑う。


「言ったら、甘えんだろ。ギリギリまで追い込んでから、撫でてやるのがいいんじゃん」


 最低だな、と思う。


(でも、最後まで——倒れなかったって、たぶんこの人が一番、ちゃんと見てた)


 そう思ってしまう自分に驚く。

 リングを降りるとき、足がまだ少し震えていた。ロープをまたぐ瞬間、ペットボトルを返す。


「……ありがとうございました、イザナさん」

「おう。今度は、さっきのとこちゃんと殴り返してこいよ」


 どこのことか、ちゃんと分かっている言い方だった。


 更衣室へ向かう途中。ふと、昨日の光景が蘇る。甘い香水の匂い。


(彼女……いるんだよな、この人)


 思い出すだけで、喉の奥にさっきのスポーツドリンクとは違う苦さが広がる。


(……俺の、って)


 あんなふうに、みんなの前で言うくせに。


(本当はあなたこそ、誰のものなんですか)


 シャワー室の扉を押す手に、ほんの少しだけ力がこもった。

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