第二十三話 門限破り(★)
夜中、ふっと目が覚めた。寮の部屋の時計は、日付がとっくに変わった時間を指している。
(トイレ……)
喉も少し渇いていた。陸はベッドからソッと足を降ろす。隣のベッドは空っぽ。
(どこをほっつき歩いてるんだか)
ため息をひとつ吐いてから、ドアを開ける。
廊下は、昼と違う匂いがした。古い床のワックスと、寝静まった人間の気配。
その中に――少しだけ、場違いな匂いが混じっている。
(……甘い。香水?)
階段のほうから、甘ったるい香りと、ほんのり煙草の焦げた匂いが漂ってくる。
陸が首をかしげた瞬間、下から靴音がゆっくり上がってきた。
顔を上げると、そこにいた。
「……イザナさん」
黒瀬イザナは、階段を上がってくるところだった。部のジャージじゃない。見慣れない私服。
襟元の、かすかなシワと乱れ。甘い香水の匂いは、たぶん、その名残だ。
「おかえりなさいって……言っていいんですかね、これ」
思わずそんなことを言ってしまう自分に、陸は少し驚く。
「門限、とっくに過ぎてますよ。見つかったら──」
最後まで言い切る前に、イザナの手のひらが、ふいに陸の口元にかぶさった。
ぐっと押さえられる。喉の奥で言葉が止まり、息だけがくぐもった音になる。
驚いて見上げると、すぐ目の前にイザナの顔があった。近い。昼間のスパーの距離とは全然違う近さ。
「うるせーよ、優等生」
低く笑いながら、耳元ぎりぎりに口を寄せられる。次の瞬間、イザナの指が陸の唇の輪郭をゆっくりとなぞった。
「こんな時間に門限とか言ってくんの、お前くらいだわ。黙ってろ。バレるだろ」
囁き声なのに、鼓膜に直接触ってくるみたいな声だった。
甘い香水と煙草の匂いと、夜の外気の冷たさが、一度にふっと鼻を刺す。
(……女の人の匂い、かな)
そう思った瞬間、胸の奥が、ちくりと刺されるように痛んだ。自分でも理由がよく分からない種類の痛み。
「……イザナさんこそ、声、でかいですよ」
小声で抗議すると、イザナはおもしろそうに口角を上げた。
「心配してくれんの?優等生」
「違います。同部屋の連帯責任になったら困りますし」
「はいはい。そういうとこ、マジで月代って感じ」
片手でポケットを探りながら、もう片方の手で陸の肩をぽん、と軽く叩く。
「で?お前はなに。夜中に俺待ち?」
「待ってないです」
即答したのに、自分の声が思ったより小さいことに陸は気づく。
イザナは「ふーん」と笑って、陸の脇をすり抜けるように廊下に足を踏み入れる。すれ違う一瞬、肩が軽く触れた。
服の布越しにも、甘さと煙っぽさが混ざったイザナの体温が伝わってくる。
「……女の人と会ってたんですか」
聞くつもりなんてなかった言葉が、勝手に口からこぼれた。言ってから、しまったと思う。妙なところで子どもっぽいことを聞いている。
イザナは立ち止まらない。そのまま歩きながら、肩越しに軽く振り返った。瞳だけが濡れたように光っている。
「さあ? どう思う?月代」
囁きながら、鼻先が触れそうなほど顔を寄せられる。イザナの吐息から、ほんのりとアルコールの匂いがして、陸は眩暈がする。
肯定もしないし、否定もしない。
でも、その「どう思う?」に込められた余裕が、明らかに陸を試しているのが分かって、胸がざわつく。
「……門限破りは、よくないと思います」
やっとひねり出した言葉は、やっぱり優等生じみていた。
「だろうな」
イザナはくすっと笑う。
「だから、お前には言えねーんだよ。ちゃんとしてる顔で、俺見んなよ」
その声は、どこか楽しそうで、どこか苛立っていて、陸にだけ向いているような温度だった。
「……じゃ、寝ろよ。明日、スパー入れるから」
「えっ」
「夜更かしにはお仕置き。リングで清算、な」
ひらひらと手を振って、部屋へ向かっていく背中。ジャージじゃないシルエットが、廊下の非常灯にすらっと伸びる。
甘くて、煙くて、ろくでもない匂い。なのに、なぜか鼻の奥から抜けてくれない。
(……最低だな、この人)
そう思うのに。
(でも、明日のスパー、ちょっとだけ楽しみって思ってる俺も、だいぶ終わってる)
自嘲しながら、陸はイザナの背中を追いかける。イザナの手でふさがれた口の感触だけが、妙にリアルに残っていた。




