第二十一話 マラソン大会の後
寮の門をくぐったころには、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。
シュガーの帰り道。汗はとっくに乾いて、代わりにほのかな洗剤の匂いがシャツに残っている。
(今日は、だいぶ走ったな……)
ナオのぜえぜえ言う声を思い出して、陸は小さく笑った。やたらとテンションが高かった。
「陸のお兄さんのおかげだよ!」
そう言って胸を張っていた顔が、まだ瞼の裏に残っている。
寮の玄関前。自転車置き場のあたりに、見慣れた背中がひょいと寄りかかっていた。
黒瀬イザナ。短髪に、ジャージの上着をだらしなく羽織って、片手でペットボトルを持っている。
「……あ」
陸が思わず立ち止まると、イザナは口の端だけ上げた。
「おつかれ。……どこいってた?」
「ちょっと、個人的な用事で」
陸が曖昧に笑って誤魔化そうとすると、イザナはじろっと陸を睨み――かと思うと、不意に首をかしげた。
「お前さ。後ろ、なんかついてる」
「……え?」
陸はきょとんとしたまま固まった。シャツの裾をつまんで見ても、もちろん自分では背中は見えない。
イザナが、ため息まじりに近づいてくる。距離が一気に詰まる。背中に、ぺた、と何かが軽く触れた。
「これ」
イザナは剥がしたものを、指先でひらひらさせた。小さな、金色の花びらのシール。真ん中に太字で、こう書いてある。
――「よくがんばりました」。
陸は、ワンテンポ置いてから「あ」と声を漏らした。
(ナオくん……)
マラソン大会の話をしていたとき、「これ、僕の宝物なんだけどね」と言いながら見せてきた、あのシール。
「陸のお兄さんも、よくがんばりました、だから」と、いつの間にか背中に貼られていたのだろう。
イザナは鼻で笑った。
「なにこれ。小学生かよ」
「小学生、ですねぇ……」
陸は苦笑した。笑いながらも目線はシールから離せない。イザナは指先でシールをつまんだまま、じっと陸の表情を眺める。
「外、これ貼ったまま歩いてたの、だいぶヤバいぞ、お前」
からかう声。でも陸は、「捨ててください」と言わなかった。数秒の沈黙のあと、おずおずと手を差し出す。
「……それ、俺の、です」
イザナの眉が、少しだけ動く。
「は?」
「……くれたので。俺に」
声は相変わらず静かだけど、どこか、頑なな響きが混ざっている。イザナは、指先の金色のシールを見つめる。安っぽい紙と、ぺらぺらの光沢。
(よくがんばりました、ね)
ふっと鼻で笑う。
「……マジで大事にすんなよ、こういうの」
口ではそう言いながら、イザナはシールを指先でくるりと返し、ぺたり、と陸の胸元――ジャージの左側に、もう一度貼りつけた。
心臓の少し上。「よくがんばりました」の文字が、陸の胸のど真ん中に乗る。
「背中よりマシだろ」
そう言って、イザナはやや乱暴にぺたぺたと押さえつけた。
「……ありがとうございます」
陸は、自分でもよく分からない感情のまま、シールの表面にそっと指を添えた。そこだけ、やけにあたたかい。
「なんだよ、その顔」
イザナが、少しムッとしたように目を細める。
「そんな嬉しい?金のシールごときで」
陸は、少しだけ考えてから、小さく笑った。
「……はい。嬉しいです」
素直に言うと、イザナは露骨に舌打ちした。
「つくづく、つまんねぇ奴」
そう言いながら、隣に並んで寮の中に歩き出す。階段を上がる途中、ふと横目で陸の胸元を見る。金色の「よくがんばりました」が、蛍光灯の白い光をちかっと跳ね返した。
(……誰の、がんばりました、だよ)
イザナは、心の中でだけ、そう毒づいた。




