第二話 十年後に(★)
ジムの夕方。外は暗くなってきたのに、ジムのなかはライトが灯っていて、そこだけぽっかりと明るい。
なわとびを終えたナオが、タオルで顔をふきふきしながら顔を上げる。
「あ」
リングの向こう、ベンチに腰かけた陸の顔。頬骨のあたりが、うっすら赤くふくらんでいる。
ナオは、じーっと見つめてから小走りで近づく。
◇◇◇
「ねえ、りくのお兄ちゃん」
「はい?」
ノートに何かメモしていた手を止めて、陸が穏やかに顔を上げる。
「ケガどうしたの?ころんじゃったの?」
ナオにとって、誰かに殴られるという選択肢はまだ現実の世界にはない。ケガ=転ぶかぶつけるか、くらいの発想しかない。
陸は一瞬、返事に詰まる。
「うーん……そうだなあ」
ちょっと考えるように視線を泳がせて、それから笑う。
「高校で年上のお兄さんとね、コンビネーションを打ち合ったんだ」
「コンビネーション?」
「そう。ワンツーとか、ワン・ツー・スリーとか。
お互いに決め合えるように、ちょっとだけ強めに」
「それって、大丈夫なの?」
ナオの目がまんまるになる。打ち合うという言葉に、ほんの少しだけ不安が滲む。
陸さんは、照れくさそうに頬をかいた。
「うん、大丈夫。……俺のはね、不発。ぜんぜん当たらなくて」
ちょっと情けないように、笑って目を伏せる。
ナオはじーっと陸の顔を見る。 赤くなっているところ。絆創膏。転んだのとは、なんか違う気がする。
なにかをうまく言葉にできないまま、ぽすっと陸のお腹に抱きついた。
「……ナオくん?」
「今日は、りくのお兄ちゃんのれんしゅうしよ?」
上を見上げて、真剣な顔。
「ぼく、ミットもつ。りくのお兄ちゃん、パンチあたるようにしよ?」
一瞬、ジムがしんと静かになる。サンドバッグの音だけが遠くから聞こえる。
陸は軽く目を瞬かせてから、思わず笑ってしまった。
「俺のミットをナオくんに持ってもらうなんて……」
少しだけ、遠くを見るような目になる。
「なんか、いろんな意味で十年早い気がします」
「じゅうねん?」
ナオは首をかしげる。
「そうなの?」
神妙に答える陸。
「はい、恐れ多くて、とてもとても」
陸さんは、そっとナオの頭をぽん、と叩く。
「だから今日は、ミットは俺が持ちます。 ナオくんは、いつも通りコンビネーション。代わりに――」
「代わりに?」
「ナオくんが飽きずに続けてくれたら、いつか俺のパンチも当たる気がします」
「ふーん……よく分かんないけど」
ナオは、にっと笑った。
「じゃあ、今日もコンビネーションやる。いっぱい当てる」
「はい。いっぱい当ててください」
陸が立ち上がる。ミットをはめる腕は、さっきより少しだけ軽い。
なわとびで温まった足で、ナオがリングに駆けていく。小さい背中を見送りながら、陸はふっと息を吐いた。
(俺のは不発で、ナオくんのだけ当たる。……それでいいや。今は、まだ)
「じゃあ、どうぞ。まずはワンツーから」
「おっけー!」
ぱん、ぱん、と小さい拳が、気持ちいい音を立ててミットに当たる。
そのたびに、「ナイスです」「はい、いいですね」と声をかける陸の顔は、少しだけ誇らしげに見えた。




