第一話 ナイスってなに?(★)
ジムのドアが開いた瞬間、今まで聞いたことのない音が天束ナオの耳に飛び込んだ。
リングの上では、大人たちがパンチを打ち合っている。
ロープにぶつかる音、ミットにめり込む鈍い音、「ワン・ツー!」と飛ぶ声。
いつも画面の中でしか見ない、格闘ゲームみたいな音が、全部、本物の音になっていた。
奥からコーチが出てくる。髭の大男。シャツから、はじけそうなほどの筋肉が見えて、ナオはさらに一歩、後ろへ引く。
「お、見学と体験の子ですよね?」
「お世話になります。ゲームばっかりで。ちょっと運動でもさせないとって。ナオ、ご挨拶して」
隣で母親に肩を押されるが、ナオは母親のスカートの裾をぎゅっとにぎったまま後ろに隠れている。
「……やだ、こわい」
いやいや、するように首をふる。
(幼稚園くらいか……嫌われたなあ)と髭のコーチ。それから、ふっと視線を奥に投げた。
「おーい、陸」
呼びかけると、奥から、「はーい」と返事がして、高校生くらいの少年が顔を出す。
ジャージ姿。髪はふわふわ。妙にお兄ちゃん感のある人懐っこい笑顔。
「悪い。怖がってる。相手してやってくれる?」
コーチは巨体を縮めて、陸の耳元でささやく。
「コーチ、またですか?あとでジュースおごり」
陸が、からかうみたいに言う。コーチは頼むわ、とでも言うように片手を上げた。
少年――陸は、ナオの前まで来ると、しゃがみこんで目線を合わせる。ポーチからのぞくゲーム機に目をやる。
「はじめまして、僕、陸っていいます。ゲーム、好きなんですね」
ナオはこくん、とだけうなずく。
髭のおじさんも、サンドバッグの音も怖くて、目線を上げられない。
「ここね、リアル格闘ゲームみたいな場所なんですけど」
陸は、にこっと笑ってリングを指さす。
ナオの眉がぴくっと動く。ゲーム、という言葉に反応するのが、自分でも分かった。
「いきなりバトルはしません。まずはチュートリアルからやりましょうか。なわとび、やったことあります?」
「……ある」
小さい声で答えると、陸は嬉しそうに手を打った。
「じゃあ、レベル1クリアできますね。
お母さんは、そこで見ててください。危ないことはしませんから」
なわとびができるスペース。
床に落ちていた縄をくるりと回して見せながら、陸は言う。
「一緒にやりましょう。僕も練習なんで」
ぴょん、ぴょん、と陸が軽く跳ぶ。
ナオも、真似して跳んでみる。びゅっ、と縄が足に引っかかって止まる。
「あっ……」
陸はにっこり笑う。
「うん、いいですよ。足にひっかかるってことは、ちゃんと回せてるってことですから。
ゼロよりずっといいんですよ。もう1回、やってみましょうか」
もう一度、縄を回す。 今度は2回跳んで、3回目でつまずいた。すぐ横から、柔らかい声が飛んできた。
「ナイス」
ナオは思わず顔を上げる。
「……ないすって、なに?」
お兄ちゃんは少し考えてから、優しく言う。
「とっても上手にできました、はなまる、を短くした言葉です」
「もう一回やってみる」と張り切るナオに、うんうんと頷く陸。転びそうになると、腕を支えられる。
続いたら「ナイス」さっきと同じ声。
ナオの胸のあたりが、じわっとあたたかくなる。
気づけば、怖くて見られなかったリングも、さっきより少しだけましに感じた。
◇◇◇
しばらくなわとびをしたあと、陸がパンチングミットを手に取る。
「ちょっとだけ、パンチしてみます? ゲームみたいに、ボタンを押す感覚で」
「……よわいよ?」
「大丈夫です。弱いパンチ、歓迎です」
ナオの手に子ども用のグローブをはめて、陸が膝をつく。目線がまた、同じ高さ。
「ここを、こつんって押してみましょう。思いっきりじゃなくていいので」
おそるおそる、小さな拳を伸ばす。
ぺち、と当たる。
「ナイス!」
さっきよりも、少し大きな声。
ナオは思わず、もう一発。こんどは、さっきよりちょっとだけ強く。
「ナイス。今の、すごくよかったです」
何がどうよかったのかは、分からない。
でも、ゲームでコンボがつながったときの音みたいな嬉しさが、胸のなかでぽん、と弾んだ。
ナオは小さな声で言った。
「……もういっかい」
陸は目を細めて笑う。
「もちろん。いくらでも。コンボ、つなげましょう」
◇◇◇
帰る時間になって、母親が声をかけにくる。
「ナオ、そろそろ帰ろうか。ご迷惑じゃなかったですか?」
陸は、汗をぬぐいながら母親に向き直る。
「全然です。僕も練習になりましたし」
そう言うと、今度はナオに微笑みかける。
「また一緒にやりましょう。ボクシング、嫌じゃなかったですか?」
ナオは、今度は陸のジャージの裾をぎゅっと握りしめながら、顔を見上げる。
「……りくのお兄ちゃんと、もっといっしょにやる」
母親があわてて笑う。
「ごめんなさいね、あなたも練習中なのに、こんなに付き合わせて」
「いいんですよ」
陸は、少しだけ照れた声で答える。
「ボクシング、好きになってもらえたら、それが一番嬉しいですから」
ジムを出るとき、パンチの音はまだ続いていた。
でもさっきより少しだけ、怖くなかった。
「ナイス」って言ってくれる声が、ちゃんと耳に残っていたから。




