第十九話 ナオのマラソン大会①
シュガーの前の細い道。まだ少しひんやりした風が吹いていて、春の終わりの匂いがした。
陸の呼吸は少しだけ軽かった。大学の寮に入ってからも、週末になると気づけばここへ来ていた。
誰に言われたわけでもない。週末の昼下がりのシュガーは、大学の部室より静かで、余計なことを考えずにすむ。ここでは、強く見せなくてもいい。何かを試されている気もしない。
でも、ナオは、いつになく暗い顔で体育座りしている。
「……マラソン大会、あるんだってさ」
ぽつり、と床に向かって落とすような声。陸は、そっと近づいて膝をつく。
「学校の、ですか?」
「うん。校庭と外ぐるぐるするやつ」
そこで、むぅっとほっぺをふくらませる。
「長いし、つまんないし、しんどいし。走っても走ってもゴールこないし。
なんで毎年やるの…?」
子どもなりの全否定がきれいに詰まっている。陸は、ふっと笑いそうになるのをこらえて、真面目な顔でうなずいた。
「長い距離を走るの、苦手なんですね」
「大キライ。なわとびは、ぴょんぴょんで終われるのに」
「そうですね。なわとびは止まっても、誰も怒りませんからね」
「マラソンは、みんなの前で歩いたら『がんばれー』って言われるし。
あれ、言われるともっとやだ」
「……あぁ」
陸の目に、一瞬だけ「分かる」という色がよぎる。
(がんばれ、の声が時々、責められているみたいに聞こえるやつだ)
「ナオくんは、何番くらいでゴールしてるんですか?」
「ビリから……3番目? くらい」
三本指を立てる。
「でも先生は、最後まで走りましたねってほめる。ほんとは途中でやめたいのに」
そこで、ちらりと陸を見上げる。
「陸のお兄さんは、マラソン好き?」
少し考えてから、陸は正直に答える。
「得意か苦手かで言えば……苦手です」
「えっ、そうなの?!」
ヒーローの意外な弱点を見つけた喜びで、ぱっと顔が明るくなるナオ。
「はい。長い距離は今でもしんどいですよ。高一の頃はひたすらグラウンド走らされてました」
「えー、やだぁ。走らされるのやだぁ」
「ですよね」
くすっと笑ってから、陸は続ける。
「でも、試合の最後まで動けないといけないので……いまも、ちょっとずつ走ってます」
「……ちょっとずつ?」
「はい。これくらいならがんばれるかなって距離を、少しずつ」
ナオは、なわとびの持ち手をいじりながら、じっと聞いている。
「マラソン大会、何キロ走るんですか?」
「えっとね……2キロくらいだったかな……。先生はがんばったらすぐだよーって言ってた。すぐじゃないよね?」
「すぐじゃないですね」
即答。ナオの口元が、ちょっとだけゆるむ。
「2キロを、いきなり一人で走ろうとすると、すごく長く感じます。だから、もしよかったら──」
陸は立ち上がって、入り口の方向を指す。
「マラソン大会までの間、一緒に練習しませんか?」
「……練習?」
「はい。シュガーの周りを、ぐるっと回りましょう。
最初は、歩くの多めでもいいです。 少しずつ、走る時間を増やしていくんです」
「やだ……」
即答。
「やっぱ走るのキライ。走るって聞くだけで、なんかお腹痛くなるもん」
「そうですよね」
否定せずに、うん、と受ける。
「じゃあ、マラソンのための練習っていうのはやめましょうか。ナオくん、なわとびは好きですよね?」
「うん。陸のお兄さんほめてくれるから」
「じゃあ、おしゃべりしながらお散歩ランにしましょう」
「おしゃべり……?」
「はい。走るスピードじゃなくて、しゃべれる速さで。途中で止まってもいいです。
この辺まで来たねって二人で笑って終わり」
「それ、練習になるの?」
「なりますよ。最後まで一人でがんばるんじゃなくて、誰かと一緒に、ちょっと進んだっていう練習です」
言いながら、自分にも言い聞かせるような声になる。
「ふーん」
ナオは、しばらく考えてから、ちょっとだけ身を乗り出す。
「陸のお兄さんも、一緒に走る?」
「もちろんです」
「ゼェゼェなる?」
「たぶん、なります」
「ふふっ」ようやく笑い声がこぼれた。
「じゃあさ……マラソンの練習じゃなくて、陸のお兄さんとしゃべる会だったら、走ってもいい」
「いい名前ですね」
「学校のマラソンはキライだけど……
ここでなら、ちょっとくらいなら、がんばってもいい」
きゅっと手を握りしめて、ナオが立ち上がる。
「今日からやる?」
「はい、少しだけやってみましょうか」
陸は微笑んで、入り口の方へ歩き出す。ナオはトコトコとついて行きながら、ふと思い出したように聞く。
「マラソン大会の日もさ、スタートの前に、陸のお兄さんのこと思い出してもいい?」
「もちろんです」
「ゼェゼェ言ってる顔、思い出して走る」
「それは……あまりかっこよくないですね」
「じゃあ、かっこいいとこ見せてよ。走ってるとこ、今度、ナオが見る」
「がんばってみます」
ドアを開けると、外は少し肌寒い。ふたりは並んで、ゆっくりと歩き出す。
「じゃあ今日は、ゼェゼェ言わない速さでいきましょう」
「うん。でも、ちょっとだけならゼェゼェしてもいいよ?」
「それは……ありがたいですね」
学校のマラソン大会は、きっとしんどい。それでも、ここからスタートするお散歩ランの記憶が、いつかナオの中で「勇気」の方に少しだけ重なる。




