縁に塩を、ひとつまみ
山の道を登りきったころ、日は西に傾いていた。
峠の頂上はひらけた台地になっていた。そこに石造りの宿が数軒、寄り添うように建っている。街道の分かれ道に開いた小さな宿場町だった。
通りの両側には屋台が並んでいる。
炭火の煙と、肉の焼けるにおいと、揚げ油のにおいが、夜の山の空気に混じって立ちのぼっていた。
「ここが…峠の宿場」
クロはすうっと息を吸いこんだ。
「においが多いです」
足元がうずうずして、胃の奥が鳴る。
「焼き鳥のにおいがします。それも塩焼きの」
迷いのない足取りで、一番煙の多い屋台へ向かった。
*
その屋台は長いカウンターの前に、丸椅子が十ほど並んでいる小さな店だった。
親父は、短く刈りこんだ白髪頭の、陽気な顔の男だった。炭火の上で串を器用に回している。
「いらっしゃい! 空いてる席、そこでいいよ!」
指さされたのは一番奥の席だった。
隣には一人の旅人が座っていた。
背が高く、細身で、質素な麻の外套を羽織っている。フードを少し後ろへ下げていて、金茶色の髪が炭火の明かりに柔らかく光っていた。
横顔が見えた。
整った鼻筋。穏やかそうな口元。杯を見つめる瞳は琥珀のような色をしていた。
「……」
感じのよさそうな人だとクロは思った。
それだけ思って、その隣の丸椅子に腰を下ろした。
「あ、すみません。席を詰めますね」
旅人がにこりと笑って、椅子を少しだけ横にずらした。
声は低くてやわらかかった。
「ありがとうございます」
クロはぺこりと頭を下げた。
「焼き鳥を…お願いします。塩で。ねぎまと皮と、ハツとつくねを二本ずつ」
「あいよ! 嬢ちゃん、いい注文だ!」
親父が嬉しそうに串を並べはじめた。
「それと、枝豆と手羽先の塩焼きと、塩ゆでの落花生と、揚げパンも」
「すごい量だね」
隣の旅人がくすっと笑った。
「全部、食べるの?」
「はい」
「たいした食欲だ」
「食事は必要なものですので」
「ははは。その通りだね」
旅人はさらりと笑った。
*
カウンターの上には旅人の杯が置かれていた。
ガラスの杯で、中には淡い黄色の液体が入っている。縁には白い粒がびっしりとついていた。
そして杯からはさわやかな柑橘のにおいがした。
「……」
クロの鼻がひくひくと動く。
『グレープフルーツ。蒸留酒。ウォッカ。塩』
「あの」
「うん?」
「それは何を飲んでいらっしゃるのですか」
「ああ、これ」
旅人は杯を軽く持ち上げた。
「ソルティドッグといってね。故郷の名産のウォッカと、グレープフルーツの果汁を合わせて、杯の縁に塩をつけた飲み物なんだ」
「ソルティドッグ」
クロは口の中で繰り返した。
「塩を杯の縁に」
「そう。口をつけるときに、塩が唇に触れる。その塩気がグレープフルーツの酸味と苦味を引き立てて、ウォッカの香りをまとめあげる。本来はそういう飲み物のはずなんだ」
「本来は」
「うん」
旅人は少しだけ眉を下げた。
「ただ、この辺りの塩では、なかなかうまくいかなくてね」
親父が焼き鳥を皿に載せながら、苦笑いした。
「兄ちゃんには悪いんだがなあ。うちにある塩は岩塩を砕いた粗塩だけなんだ。あれじゃあ、舌に刺さっちまうだろ?」
「いや、親父さんのせいじゃないよ。どこの町でも同じなんだ」
旅人は杯をそっとカウンターに戻した。
「僕はこの酒に合う、最高の塩を探して旅をしているんだ」
「最高の塩」
クロの耳がぴくりと動いた。
「そう。故郷ではこのソルティドッグが、国を代表する酒なんだけどね。海の塩も岩塩も山の泉の塩も、全部試したけど、どうしてもぴったりくるものがなくて」
「なるほど」
「噂には聞いたんだ。最近、各地のギルドに、とんでもなく上等な塩が卸されはじめたって」
「……」
クロは何食わぬ顔で、焼き鳥を待っていた。
「左党の塩、というらしい」
「……」
「でも、ギルドは誰が卸しているのか、教えてくれなくてね。買うこともできない。金貨と同じ重さで、金持ちの貴族に流れてしまうらしくて」
「そうですか」
「だから、こうして、旅を続けているんだ」
旅人は苦笑いした。
「見つかるといいのだけど」
「……」
クロはうつむいた。
ちらりと鞄の口を見た。
そこには小袋が入っている。
秘密にすると決めた。誰にも言ってはいけない。
けれど目の前の人はとても真剣に塩を探していた。
「……」
クロは焼き鳥が来るまでの間、指先でそっと鞄の口をなぞった。
*
焼きたての串が皿に並べられた。
ねぎまの脂がパチパチと弾けている。皮はこんがりと焼けて、飴色に光っていた。
クロはねぎまを一本取って、かぶりついた。
『味覚データ照合中。鶏肉の甘み、良好。ねぎの香り、良好。塩分、強め。粗塩の粒、舌に刺さる』
「……」
「どうしたの?」
「おいしいです。ですが」
クロは串をそっと皿に置いた。
「塩が…少し、強いです」
「だろう?」
旅人は嬉しそうに笑った。
「あなたもそう思うかい。この辺りの塩は全部そうなんだ。素材の味を塩が押しのけてしまう」
「はい。素材の甘みが塩の粒に隠れてしまいます」
「そうそう、そうなんだ。やっぱり、分かる人には分かるんだね」
旅人は目を輝かせた。
「あなたは味に詳しいのかな」
「食いしん坊です」
「あはは」
旅人が肩を揺らして笑った。
「それは頼もしい」
クロは決めた。
「あの」
「うん?」
「杯を…少しだけ、お借りしてもよろしいですか」
「え?」
「縁の塩を直したいのです」
「直す?」
旅人はきょとんとした。
「実は、別の町で、たまたま手に入れた上等な塩の残りがあります」
クロはしれっと答えた。
「塩?」
「はい。ほんの少しですが」
鞄の口に手を入れる。
「ふり」ではなく、今度は本当に、収納魔法の中から小袋を一つ取り出して、鞄から出したように見せた。
白い布に包まれた小さな袋。
「たまたま、持っていました」
「たまたま、か」
「たまたま、です」
クロは旅人の杯を手に取った。
縁にこびりついた粗塩を、一部分だけ指先でそっとぬぐい取る。
小袋からひとつまみ。
雪のように白い粒を杯の縁にふわりと振りかけた。
きらきらと縁を飾る。
「……できました」
クロは杯を旅人の前に戻した。
「どうぞ」
「……」
旅人は杯をじっと見つめていた。
縁の塩がさっきとまるで違う。雪のように細かく、角が丸く、炭火の明かりを受けて、ほのかに光っている。
「……」
おそるおそる杯に口をつけた。
縁の塩に唇が触れる。
ゴクン。
「……!」
旅人の目が見開かれた。
琥珀色の瞳が大きく揺れた。
「な、なんだ、これは」
声が少し震えていた。
「塩が舌に刺さらない。それなのに旨味が、ある。グレープフルーツの苦味が、まるで丸くまろやかに」
もう一口。
「ウォッカの香りが、これまで感じたことのないほど、くっきり浮かび上がる。酸味と苦味と塩気とアルコールが、一本の線で結ばれて」
「……」
「これだ」
旅人は杯を握りしめたまま顔を上げた。
「これが…僕の探していた味だ」
「別の町で手に入れた、塩の効果です」
「別の町……って、まさか」
旅人ははっとした。
「それは噂の左党の塩では」
「さあ。ラベルがなかったので、分かりません」
クロはしれっと答えた。
「ほんとうにたまたまなのです」
「たまたま、そんなものが」
「たまたま、です」
「どの町で」
「忘れました」
「忘れた」
「はい。特産のお酒のことなら、覚えているのですが」
「……」
旅人はしばらく、クロの顔をじっと見ていた。
それからふっと肩の力を抜いて笑った。
「……そうか。たまたま、か」
「はい」
「分かった。無理には聞かない」
旅人は少しだけ残念そうに笑った。
「でも、ありがとう。今夜は人生で一番おいしいソルティドッグが飲めた」
「それはよかったです」
クロはほっと息をついた。
「ああ、そうだ。名乗っていなかった」
旅人は杯を置いて、改めてクロのほうを向いた。
「アサヒ、という。旅をしているんだ」
「クロです。旅の食いしん坊です」
「クロ。いい名前だ」
アサヒはにこっと笑った。
その笑顔は炭火の明かりよりもずっと明るかった。
*
その夜はふたり並んで杯を重ねた。
焼き鳥。枝豆。手羽先の塩焼き。塩ゆでの落花生。揚げパンの砂糖がけ。
クロはアサヒと同じソルティドッグを頼んだ。
アサヒが「縁にはこの塩をつけてくれ」と親父に言いながら渡した塩を見て、親父は目を丸くした。
「兄ちゃん、その塩、どうしたんだ」
「いや、通りすがりの食いしん坊が、分けてくれたんだ」
「食いしん坊」
親父はクロを見て、さらに目を丸くした。
クロは真顔でうなずいた。
「食いしん坊です」
「へええ」
縁に左党の塩が付けられたソルティドッグが、クロの前に置かれた。
クロは杯を持ち上げて、一気に傾けた。
ゴクゴク、ゴクゴク。
「プハァ」
『アルコール度数、12%。グレープフルーツの苦味、爽快。ウォッカの香り、澄んでいる。塩の旨味、調和』
「……!」
クロは目を丸くして、杯を握りしめた。
「これはすごい飲み物です」
「でしょう?」
アサヒが嬉しそうに言った。
「グレープフルーツの苦味が最初、舌に触れて、それから塩気がフワッと広がって、そのあとウォッカの香りが鼻に抜けていきます。そして最後にまた苦味が静かに戻ってくる。四つの味が順番にやってきて、順番に去っていく。まるで四季のようです」
早口になっていた。
アサヒはぽかんとしたあと、くすくすと笑いだした。
「すごいな。あなた、本当に味を言葉にするのが上手なんだね」
「食いしん坊ですので」
「それ、何度目の台詞かな」
「……」
クロは頬を押さえた。
「そうでした」
「あはは」
「ですが事実です」
「うん。事実だ」
アサヒは静かに笑って、杯を傾けた。
クロは焼き鳥の最後の一本をゆっくりかじった。
*
夜が更けても、アサヒは屋台の人たちに慕われていた。
「アサヒの兄ちゃん、今日も来てくれたんだねえ」
「兄ちゃん、うちの娘が、また作った焼き菓子を持ってきたよ」
「あの、アサヒさん。この前教えてもらった、薬草の使い方、効きました!」
親父や近所の人たちが、次々と声をかけてくる。アサヒはひとりひとりにやわらかい笑顔で答えていた。
「……」
クロは小さく感心した。
この人はどこへ行ってもみんなに好かれている。
不思議と納得できた。
「アサヒさんは人気者ですね」
「そんなことはないよ。ただ、皆さんが、やさしいだけさ」
「いえ、アサヒさんが、やさしいからです」
「……」
アサヒは一瞬言葉に詰まって、それから照れたように笑った。
「そう言ってもらえるのは、うれしいな」
「事実です」
「ありがとう」
ふたりは顔を見合わせて、同時に杯を傾けた。
星が瞬き、炭火がはぜた。
夜はゆっくりと更けていった。
*
翌朝。
宿の窓から朝の光が差しこんできた。
『酩酊モード、終了』
『体内異常なし。二日酔いの症状なし』
クロはゆっくりと身を起こした。
窓の外を見ると、宿場の通りでアサヒが荷物をまとめていた。
「……」
宿を出ると、アサヒがちょうどこちらを振り返った。
「おはよう、クロ」
「おはようございます、アサヒさん」
「昨夜はありがとう」
「いえ。こちらこそ」
「また、会えるかな」
「……」
クロは少し考えた。
「分かりません。私は行き先を、適当に決めるので」
「ははは。適当に」
「はい。今日は宿の看板に描かれた猫の絵が、右を向いていたので、右へ行きます」
「猫の絵。いい理由だね」
アサヒは楽しそうに笑った。
「じゃあ、僕は左へ行こう。もし、また会えたら、それはきっと縁だ」
「はい」
「それじゃあ、元気で」
「アサヒさんもお元気で」
ふたりは小さく手を振り合った。
アサヒは左の道へ。クロは右の道へ。
背中を向けて歩きだして、クロはふと立ち止まった。
振り返ると、アサヒの背中はもう峠の向こうに消えかけていた。
「ソルティドッグ、いいお酒でした。彼の故郷ではもっと美味しいのでしょうか」
クロは小さくうなずいて、鞄の紐を握り直した。
歩きだす足取りはいつもどおりだった。




