鋼の殻には、アヒージョを
峠を下りきると、道は細い川沿いに出た。
水は澄んでいて、浅瀬に銀色の魚影がきらりと走る。川幅は人が飛び越えられるほどで、せせらぎが一定の拍子を刻んでいた。
「川です」
クロは足を止めた。
「魚がいます」
水に手を入れるまでもなかった。川鱒が三匹、自分から手のひらに跳ね上がってきた。
「ありがとうございます。いただきます」
手を合わせてから河原の石でかまどを組む。
枯れ枝を集めて火をおこし、串に刺した魚をじっくりと炙った。
ジュウッと皮が弾ける。
左党の塩をひとつまみ。
かじる。
『川魚の甘み、良好。塩、調和。皮の香ばしさ、最高』
「……」
クロはうっとりと目を閉じた。
「これです。これが川魚の正解です」
誰もいない河原で、満足げにうなずいた。
それからふと、手の中の串を見つめた。
「ですが」
「……」
「何度食べてもおいしいのですが」
クロは串をパクリと食べ終えて、川の流れを見つめた。
「そろそろ、海の幸が食べたくなってきました」
水はゆっくりと東へ流れていた。
その先に広い海があるはずだった。
「川を下って、海へ向かいましょう」
そう決めた。
*
数週間の旅だった。
川沿いの道は思ったよりも長かった。
途中、いくつかの町を通った。ある町では屋台のコロッケに感動した。ある町では宿の主人が出してくれたビーフシチューに涙した。ある町では広場で振る舞われたトウモロコシの丸焼きを、三本食べた。
町に着くたびにギルドへ足を運んだ。
木札を見せると受付係が奥へ引っこんで、ギルド長が慌てて出てくる。
「左党の塩の件ですね。金貨二十枚分、承ります」
「お願いします」
秤の片方に金貨。片方に塩。
吊り合う。
金貨二十枚がクロの鞄の中へ消える。
そしてその日の夜は、金貨一枚ぶんほどが酒と料理で消えた。
「予算を決めたのです」
「その予算の三倍は使っておるぞ」
宿で隣の席になった行商人が、あきれ顔で言った。
「善処します」
「お前さんの『善処』は、信用ならんのだが」
どこかで聞いた台詞だった。
そしてひと月も経たないうちに、東の空の端に、白い海鳥が飛びはじめた。
潮のにおいが風に混じるようになった。
「海が近いです」
クロの足が軽くなった。
峠を出て数週間。川の幅はいつの間にか広くなり、やがて視界いっぱいに青い水平線が広がった。
「……!」
クロは息を呑んだ。
目の前に広大な海が広がっていた。
*
港町はもう少し先らしかった。
けれどクロは海を見た瞬間、足を止めた。
崖の下に小さな入り江がある。三方を岩に囲まれた静かな浜だ。
波の音がザァ、ザァと響く。
潮だまりに小魚が泳いでいる。
「ここで…一休みしましょう」
荷物を下ろして浜へ降りる。
ブーツを脱いだクロの素足に、湿った砂が触れた。
ふと浜の端に目をやる。
岩場に人だかりができていた。
漁師らしい男たちが、十人ほど。みな青ざめた顔をしている。
「どうなさったのですか」
「ああ、旅の嬢ちゃん。近づくな」
年配の漁師が手を振った。
「あそこに化け物がいる」
「化け物」
クロの耳がぴくりと動いた。
岩場の向こう、浅瀬の中に巨大な影が揺れていた。
全長は馬車ほどもある。
鎧のような黒光りする殻。長く伸びた髭。どっしりとした尾。そしてはさみの代わりに鋭い槍のような爪。
「……」
クロの目がすっと細くなった。
『甲殻類。鋼殻海老。一万年前の分類で、食用上級。殻の硬度、鋼鉄に匹敵』
「やっぱり」
「やっぱりって、あんた」
漁師が顔を青くした。
「あれは三日前に、湾に迷いこんできたんだ。網は全部破られ、銃弾も大砲の弾も跳ね返される。誰も近づけねえ」
「そうなのですか」
「ああ。あのままじゃ、漁ができねえ。町の漁船もみんな出られなくなっちまった」
「それは困りますね」
クロは浅瀬のほうへ歩きだした。
「お、おい、嬢ちゃん!」
「大丈夫です」
クロは振り返らずに答えた。
「ちょっとご飯にしてきます」
「ご、ご飯!?」
漁師たちが口をぽかんと開けた。
*
鋼殻海老は浅瀬の岩に堂々と居座っていた。
近づくと、巨大な目がぎょろりと動いた。
長い髭がぴしゃりと水面を叩く。
槍のような爪がクロめがけて振り下ろされた。
ごん。
クロの肩に爪が直撃した。
けれどびくともしない。爪のほうがぽきりと折れた。
「……」
海老がびくりと動きを止めた。
「失礼しました。折れてしまいましたね」
クロは律儀に頭を下げた。
それから手のひらを海老の顔に向けた。
『昏倒ガスを、対象の呼吸器周辺にのみ発生。持続、約三十分。後遺症なし』
ふっと息を吹くように手を広げる。
海老の目がとろんと閉じた。
巨体がゆっくりと傾いて、浅瀬にどすんと横たわった。
波がザァと引いた。
静寂が戻った。
「……」
岩場の上で漁師たちが固まっていた。
「い、今、何を」
「手品みたいなものです」
クロは振り返って、にこりと笑った。
「眠っていただきました。苦しまないように」
「……」
漁師の一人ががくりと膝をついた。
別の漁師が涙を流した。
「ありがとう、ありがとう、嬢ちゃん。これで町の漁が再開できる」
「お礼には及びません。ご飯にしましょう」
「ご飯?」
「はい。この海老をみんなでいただきましょう」
「これを…食うのか?」
「はい。おいしいです。私の故郷では食べていました」
クロは胸に手を当てた。
「いただきます」
深く、頭を下げた。
それは命への挨拶だった。
*
火おこしは漁師たちが手伝ってくれた。
浜の石を並べて大きなかまどを作る。流木を山と積んで、盛大に火を焚く。
鋼殻海老はクロが一人で軽々と浜まで引きずってきた。
「手品みたいなものです」
「何度言われても納得できねえ」
殻をバキ、バキと割る。
中から真っ白な身が、つやつやと光りながら現れた。
大きな身をいくつもの塊に切り分ける。
海老味噌は別の皿に取り分けた。
一つ目の鍋にオリーブ油とにんにくと唐辛子を入れる。グツグツと煮立った油の中に海老の身をそっと沈める。
パチパチ、パチパチ。
香りが浜いっぱいに広がった。
「アヒージョです」
クロは胸を張った。
二つ目は殻のまま炭火で焼く。
バキっと殻が弾けて、中の身がホカホカと湯気を立てる。そこに左党の塩をひとつまみ。
「こちらは塩焼きです」
三つ目はガーリックを塗ったバゲットを炙る。
四つ目は海老味噌をバゲットに塗る。
次々に料理が並んでいく。
漁師たちは息を呑んで見守っていた。
「で、できました」
クロは白ワインの瓶を取り出した。
道中の町で手に入れた一本だった。
トクトク、トクトク。
「それでは、いただきます」
杯を持ち上げて一気に傾ける。
ゴクゴク、ゴクゴク。
「プハァ」
『アルコール度数、12%。柑橘の香り、爽快。酸味、鋭い。海産物との相性、最高』
「……!」
そしてアヒージョをパクリ。
ジュワッと海老の身が、舌の上でほどけた。
噛めば噛むほど甘みが広がる。にんにくの香りが、鼻に抜ける。唐辛子の辛味が舌をぴりりと刺激する。
そこへ冷たい白ワインを一口。
「……!!」
クロの目からぽろりと涙がこぼれた。
「おいしい……」
声が震えていた。
漁師たちは黙って聞いていた。
「身が甘い。殻の香りが油に溶けて。これがアヒージョの極意です。にんにくの香りが海老の甘みを包みこんで、辛味が後ろから、そっと背中を押すのです。それなのに白ワインの酸味が、全部をすっと整えてくれる。すごいです。この組み合わせは時代が変わっても、変わらず楽しまれるものでしょう」
早口になっていた。
涙も止まらなかった。
漁師の一人が静かに言った。
「……嬢ちゃん、あんた、なんだか不思議な人だな」
「通りすがりの食いしん坊です」
「……食いしん坊」
「はい」
漁師たちはお互いに顔を見合わせて、それから笑いだした。
「よし、俺たちも食うぞ!」
「うおお、うまそうだ!」
浜はあっという間ににぎやかな宴会場になった。
*
その時だった。
崖の上から足音が降りてきた。
「いいにおいがすると思ったら」
聞き覚えのある声だった。
クロは杯を持ったまま顔を上げた。
崖を降りてくるのは、質素な麻の外套を羽織った背の高い青年。
金茶の髪が夕日に光っている。
「……アサヒさん」
「クロ!」
アサヒは嬉しそうに笑った。
「こんなところで会えるなんて。やっぱり、縁だね」
「そうですね」
クロは杯を置いた。
「アサヒさんはどうしてここに」
「海の塩をもう一度試してみようと思って、港町へ向かう途中だったんだ。そうしたら、おいしそうな煙が見えて」
「そうでしたか」
「これは鋼殻海老かい? まさか、本当に」
アサヒは目を丸くして、焚き火のほうを見た。
「漁師のみなさんが困っていたので、いただくことにしました」
「いただくこと……にした?」
「はい」
「……」
アサヒはしばらく黙っていた。
それからくすっと笑った。
「やっぱり、あなたは面白い人だ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてないよ」
「そうでしたか」
「いや、褒めているよ」
「どちらでしょうか」
「両方だね」
ふたりは顔を見合わせて、笑った。
「どうぞ、アサヒさんも」
クロはアヒージョの皿を差し出した。
「ありがとう。いただくよ」
アサヒは海老の身を口に運んだ。
「……!」
「どうでしょうか」
「……おいしい」
アサヒは目を閉じた。
「こんなにおいしい海老を、食べたことがない」
「でしょう」
クロは胸を張った。
「そして、白ワインを」
トクトク、トクトク。
アサヒの杯に白ワインが注がれる。
ふたりは杯を軽く合わせた。
カチン。
小さな音が波の音に溶けた。
「乾杯」
「乾杯です」
夕日が海に沈んでいく。
浜辺に焚き火の炎が揺れる。
漁師たちの笑い声が、波の音に重なる。
「……いい夜だね」
「はい。いい夜です」
クロは杯を傾けた。
その横顔をアサヒが、静かに見つめていた。
けれどクロは気づかなかった。
*
翌朝。
浜辺に朝の光が差していた。
『酩酊モード、終了』
『体内異常なし。二日酔いの症状なし』
起き上がると、アサヒが焚き火の跡の前で荷物をまとめていた。
「おはよう、クロ」
「おはようございます、アサヒさん」
「僕は港町のほうへ向かうよ。あなたは」
「私も港町へ行きます」
「それは奇遇だね」
アサヒは嬉しそうに笑った。
「一緒に…行く?」
「……」
クロは少し考えた。
「いえ。私は今日は道端の貝殻の向きで行き先を決めようと思います」
「貝殻の向き」
「はい」
足元に小さな巻貝が落ちていた。
その先端が港町のほうを向いていた。
「あ、同じ方向です」
「ははは。やっぱり、縁だね」
結局、ふたりは別々に歩きはじめた。
けれどふたりの背中は同じ方向に向かっていた。
遠くで海鳥が鳴いた。
港町はすぐそこだった。




