山羊が首をかしげた方へ
修道院を出て三番目の道に入った。
道は細く、うねうねと丘の斜面を下っていく。両側は一面の草地で、ところどころに石垣が走り、白い点々が草の上を動いていた。
「あれは」
クロは足を止めた。
山羊だった。
何十頭もの山羊が、のんびり草を食んでいる。首についた鈴が、風が吹くたびにカランコロンと鳴った。
「山羊がいるということは」
クロの鼻がひくりと動いた。
「チーズです」
足が勝手に速くなった。
道の先に赤い屋根の大きな小屋が見えてきた。煙突から白い煙が上がり、あたりには乳を煮るにおいが漂っている。
小屋の前の柵に一頭の山羊がちょこんと立っていた。
茶色い毛で角が短くて、目がまんまるだ。
クロが近づくと、その山羊は首をこてんとかしげた。
「……」
クロも首をかしげた。
山羊は反対側にまたこてんとかしげる。
クロも反対側にこてん。
「もしかして、こんにちは、と言っているのですか」
「メェ」
「こんにちは」
「メェェ」
「通じています」
クロは感動した。
そこへ小屋の扉が勢いよく開いた。
「こらあ、モフ! また柵を抜け出してる!」
出てきたのは大柄でがっしりした中年の女性だった。袖をまくり、腕には力こぶが盛り上がっている。名前はゲルダといって、この牧場の主だという。
「あんた、この子の相手をしてくれてたのかい」
「はい。こんにちはと言われました」
「ははは。そうかい。モフはよく人に懐くんだ。ありがとうよ」
ゲルダがクロの顔をじっと見た。
「あんた、旅の人だね? ずいぶん細い体してるけど、ちゃんと食べてるのかい」
「食事は本来、必要ない……いえ、毎日いただいています」
「そうかい。じゃあ今日はうちで食べていきな。ちょうど、チーズ作りの最中なんだ」
「チーズ作り」
クロの目がかっと見開かれた。
「手伝わせてください」
「えっ?」
「手伝わせてください。ぜひ」
「あ、あんた、力仕事だよ?」
「大丈夫です」
クロは鞄を地面に置いて、袖をまくった。
「手品師ですので」
「手品師?」
「はい」
ゲルダは首をかしげた。モフも首をかしげた。
「……まあ、いいや。こっちだよ」
*
小屋の中は湯気で白くかすんでいた。
大きな銅の鍋がかまどの上でコトコト煮えている。中には真っ白な乳が、なみなみと入っていた。
「山羊の乳に凝固剤を入れて、固まらせるんだ。固まった塊を切って、水気を抜いて、練って成形する。それがチーズさ」
「なるほど」
「ほれ、この棒で鍋をかき混ぜるんだ。ゆっくり、やさしくね」
ゲルダが木の長い棒を差し出した。
クロはそれを受け取って、鍋の縁に立った。
ゆっくり、ゆっくり、かき混ぜる。
乳の表面に細かい波が立つ。
白いトロトロの液体が、少しずつフルフルと固まってくる。
「おお」
「あんた、手つきがいいね。力の入れ加減が絶妙だ」
「ありがとうございます。力加減は得意です」
クロが答えると、モフが足元に寄ってきて、ぺろりと靴を舐めた。
「あっ。モフ。くすぐったいです」
「あはは。気に入られたね」
固まった塊を大きな網ですくって、木の型に移していく。
ゲルダが湯気の立つ白い塊をぎゅっと手で握った。
「これが…モッツァレラの元だ。あったかいうちに、こうやって引っぱって、のばす」
ゲルダが白い塊をグイーンと引っぱった。
もちのように伸びる。
「やってみな」
「はい」
クロは湯気の立つ塊に両手を差し入れた。
表面温度、五十度。人なら火傷をする熱さのはずだが、クロの指には数字だけが伝わってくる。
グイーン。
グイーン。
白い帯のように塊が伸びていく。
「おお、これは」
「どうだい」
「温かくて、やわらかくて、手のひらの中で生きているようです」
クロはうっとりと目を細めた。
その様子をゲルダはにやにやしながら見ていた。
「あんた、チーズ作りの才能があるよ」
「ありがとうございます」
「それじゃあ、でき上がったやつを、食べてみな」
ゲルダが小さな丸い塊を皿にのせて差し出した。
白くてつやつやで、湯気を立てている。
クロはそれを両手で受け取った。
そっとかじる。
『味覚データ照合中。乳の甘み、良好。弾力、非常に良好。塩分、控えめ』
「……!」
口の中でフワリと乳の香りが広がる。歯を押し返すような弾力のあとで、すうっと溶けて甘みが舌の上に残る。
「できたてのモッツァレラ。こんなにおいしいものが、この世にあったなんて」
クロは目を閉じた。
「乳の甘みと…ほのかな塩気。それがまるで、朝の光を食べているみたいです。冷えたチーズでは決して出せない、今この瞬間だけの味。熱いうちに塩を一粒……」
つい鞄の口に手が伸びた。
ふとゲルダの視線に気づく。
「あ、いえ。塩はこのままで十分でした」
クロは慌てて手を引っこめた。
「……そうかい」
ゲルダは何も言わずにくすりと笑った。
*
昼を過ぎた頃、山羊たちを放牧地へ連れて行くことになった。
「ほれ、この子たちを、丘の向こうの草地まで連れて行っておくれ」
ゲルダがクロに長い杖を渡した。
「何頭ですか」
「五十頭だね」
「五十頭」
クロは杖を握りしめた。
「承知しました」
山羊の群れががやがやと小屋の前に集まる。
「メェ」
「メェェ」
「メェェェ」
「全員、整列してください」
「メェェ」
当然整列するはずもない。
「……」
クロは杖を軽く地面に突いた。
とん。
そのとたん、山羊たちが一斉にぴたりと動きを止めた。
そして素直にぞろぞろと一列に並びはじめた。
「え」
ゲルダが目を丸くした。
「あ、あんた、何をしたんだい」
「手品みたいなものです」
「……」
ゲルダはひたすら首をかしげた。
クロは五十頭の山羊を引き連れて、丘の向こうまで歩いた。
先頭にはモフがちょこんと歩いている。
草地に着くと、山羊たちは嬉しそうに草を食べはじめた。
クロは石の上に腰かけて、空を見上げた。
青い空に白い雲が流れる。山羊の鈴がカランコロンと鳴る。
「……いい時間です」
小さな声でつぶやいた。
膝の上にモフが頭を乗せてきた。
モフの頭の重みが、膝の上に静かに乗っている。
「あなたもあたたかいのですね」
そっと撫でると、モフは気持ちよさそうに目を閉じた。
*
夕方、牧場の食卓にはごちそうが並んだ。
できたてのモッツァレラ。ほんのり蜂蜜をたらした山羊のチーズ。直火であぶってトロトロに溶かしたラクレット。粗挽きのソーセージ。厚切りの黒パン。
ゲルダが大きな壺を持ってきた。
「これは近所の養蜂家が作った蜂蜜酒だよ。うちの山羊チーズに、最高に合うんだ」
トクトク、トクトク。
木の杯に淡い金色の液体が注がれる。蜂蜜の甘い香りが、ふわりと立ち上った。
クロは杯を持ち上げて、一気に傾けた。
ゴクゴク、ゴクゴク。
「プハァ」
『アルコール度数、12%。蜂蜜の甘み、濃厚。花の香り、複雑。後味、すっきり』
「……!」
クロは杯を握りしめた。
「甘いのに…くどくありません。喉を通ったあと、花畑を駆け抜けるような余韻が残ります」
「おや、気に入ったかい」
「はい。そして、これに」
クロは山羊のチーズに蜂蜜をたらしたものを、パクリと口に入れた。
「……!」
じわあっとチーズの塩気と酸味が広がる。そこへ蜂蜜の甘みが重なる。そして蜂蜜酒を一口。
「甘みと塩気と、酸味と酒の香り。それが四重奏で、口の中で奏でられています。ゲルダさん、これは神の領域です」
「あははは。大げさだね」
「事実です」
ラクレットを黒パンにたっぷりのせる。トローリと溶けたチーズが、糸を引く。ソーセージを添えて、パクリ。
「……!」
「ああ、ラクレットは、あたしの自慢の食べ方なんだ。熱々のうちにソーセージと一緒にかぶりつくのが、一番うまいのさ」
「最高です。ゲルダさん、最高です」
クロは蜂蜜酒を一杯また一杯と重ねた。
頬がじわじわと赤くなっていく。
「メェ」
足元にモフがいつの間にか入りこんでいた。
「あなたも一緒に食べますか?」
「メェェ」
「山羊はチーズを食べてよいのですか」
「ははは。共食いになっちまうよ」
ゲルダが笑いながら、モフの口元に干し草を一束差し出した。
食卓は夜遅くまで、笑い声に包まれた。
*
夜も更けたころ、ゲルダがふとつぶやいた。
「そういえば、あんた、峠の宿場には行ったことあるかい」
「いえ。まだです」
「あそこには最近、妙な若い旅人が来てるらしいよ」
「妙な、ですか」
「ああ。身なりは質素なんだけど、立ち居振る舞いが、どうにも品がいい。毎晩ひとりで宿場の屋台に座って、変わった酒を飲んでるんだって」
「変わった酒」
クロの耳がぴくりと動いた。
「どんな酒ですか」
「さあねえ。透明な酒に黄色い果汁を搾って入れてるとか何とか」
「透明な酒に…黄色い果汁」
クロは想像した。
『ウォッカ。レモンかグレープフルーツ』
「……おいしそうです」
「あはは、そうかい」
ゲルダが笑った。
「行ってみるといい。あんたなら、気が合いそうだ」
「はい。楽しみです」
その夜、クロは牧場の客間に泊めてもらった。
窓の外で山羊の鈴が、カランコロンと鳴っていた。
*
翌朝。
目が覚めると、窓の外からメェメェと声が聞こえた。
『酩酊モード、終了』
『体内異常なし。二日酔いの症状なし』
窓を開けると、モフが外に立っていた。
「おはようございます、モフ」
「メェェ」
「そろそろ、出発します」
ゲルダが焼きたてのパンとチーズと、蜂蜜を入れた麻袋を渡してくれた。
「ほら。持っていきな」
「ありがとうございます」
「食事は必要なものだからね」
「はい」
クロは笑って、麻袋を鞄の口へ入れる「ふり」をして、収納魔法の中へしまいこんだ。
「また来ます」
「いつでもおいで」
牧場の柵の前で、クロは立ち止まった。
道が二つに分かれている。
一つは山のほうへ。もう一つは谷のほうへ。
「どちらにしましょうか」
振り返ると、モフが柵の上にちょこんと立っていた。
そしてこてんと首をかしげた。
山のほうへ。
「……山羊さんがそちらを向きました」
クロはうなずいた。
「では、山へ参ります。理由は山羊が首をかしげた方だったからです」
「メェェ」
モフの声に見送られて、クロは山道へ踏み出した。
峠の宿場はもうすぐだ。
どんな人が、どんな酒を飲んでいるのだろう。
足取りは自然と速くなっていた。




