神殿の地下で、味覚が目覚める
林檎谷を出て二日、街道は少しずつ上り坂になった。
道の先の丘の上に、灰色の石造りの建物が見えてくる。屋根の上には十字ではなく、丸い円環の飾りが載っていた。
丘の麓の立て札にはこう書かれていた。
『ベルナール修道院 旅人を歓迎します ただし夜は静かに』
「修道院」
クロの目がきらりと光った。
「修道院といえば、ビールとチーズです」
誰に教わったわけでもない知識だったが、確信があった。
「行きます。今すぐ」
丘を登る足取りは軽かった。
*
門の前で出迎えてくれたのは腰の曲がった老修道士だった。真っ白な髭を胸まで伸ばし、頭にはつるりと光る坊主頭が乗っている。
「おお、旅のお方。ようこそ。ここでは水と食事と寝床を、無償で提供しておりますぞ」
「無償ですか」
クロの目がさらに輝いた。
「あの、ビールとチーズは」
「はっはっは。修道院名物のビールとチーズなら、お代はいただきますぞ」
「お代なら、あります」
クロは鞄の口へ手を入れて、銀貨を一枚取り出した。
老修道士はにっこり笑った。
「ブラザー・ベルナールと申す。この修道院の院長ですじゃ。さあ、中へどうぞ」
案内されたのは石のテーブルが並ぶ食堂だった。
出されたのは琥珀色のビールの大きな杯と、チーズの盛り合わせ。白い塊、黄色い塊、青い筋の入った塊、硬そうな塊。それに黒パンと豆の煮込み。
クロは杯を持ち上げて、一気に傾けた。
ゴクゴク、ゴクゴク。
「プハァ」
『アルコール度数、5.5%。麦芽の香り、深い。ホップの苦味、澄んでいる。熟成感あり』
「……」
クロは杯をそっと置いた。
「ブラザー・ベルナール」
「はい」
「このビールは普通のビールではありません」
「……ほう」
「味の奥行きが桁違いです。苦味に角がありません。それでいて、後味に長く甘い香りが残ります。まるで…三年寝かせたような」
「ほほう。さすがはお目が高い」
ベルナールの目が、すっと細くなった。
「実はこれは仕込んで七日のビールですじゃ」
「七日」
クロは目を丸くした。
「七日でこれですか」
「ええ。地下の熟成室のおかげでしてな。この修道院のビールも、チーズも、あの地下で寝かせると、ひと晩でふた月分は熟成するのです」
「地下の熟成室」
「そうですじゃ。いつから使われておるのか、誰も知らんのですが。この修道院が建つ前から、地下に石造りの部屋があったそうで。神様の地下蔵と呼んでおりますじゃ」
クロの動きが止まった。
『神殿。魔導文明時代の、熟成施設。魔素の濃度を利用した時間加速の設備』
「……」
ひとつ心当たりがあった。
「ブラザー。その熟成室を…見せていただけますか」
「ふむ」
ベルナールは少し考えた。
「部外者には見せない決まりなのですが」
「ビールとチーズへの感想を、もう少し言ってもよいですか」
「感想」
「はい。長いですが」
「……どうぞ」
クロは姿勢を正した。
「まずこのビールです。麦芽の甘みと苦味の立ち上がりが、舌の上でまるで二人三脚のように寄り添っていて、片方が前に出ようとするともう片方がそっと袖を引くのです。そのバランスが、飲むたびに少しずつ変わっていく。一口目は麦。二口目は花。三口目は蜜。そして四口目にはほんのりとした樽の木の香りが、遠くから近づいてきます。これを七日で作るとは、熟成室の力もさることながら、作り手の舌の確かさを感じます」
「……」
「そしてこのチーズです。この青い筋の入った塊は、塩気と甘みがまるで夫婦のように対になっていて、噛むほどに牧草の香りが鼻に抜けます。黒パンに塗って、ビールで流しこむと、口の中で麦の祭りが始まります」
「……」
ベルナールは杯を持ったまま固まっていた。
背後で若い修道士が涙ぐんでいた。
「ベルナール様。この人は本物です」
「……うむ」
ベルナールは深くうなずいた。
「ご案内しよう。ただし、中のものには、触れないでくだされ」
*
石の階段を長いこと降りていった。
壁には古い彫刻が刻まれている。丸い円環の紋様が、ずっと奥まで続いていた。
階段を降りきった先に広い石造りの部屋があった。
室温は低く保たれ、樽がずらりと並んでいる。壁に埋めこまれた小さな石の板が、淡い青緑色の光を放っていた。
「これが神様の地下蔵ですじゃ」
「……」
クロは静かに樽の列を眺めた。
壁の光は魔素の結晶だった。部屋全体が魔素を循環させる巨大な装置になっている。
「ブラザー。奥に扉があるようです」
「ああ、あれですか。開かずの扉ですじゃ。何百年も誰にも開けられんのです」
部屋の奥に重そうな石の扉があった。
扉には丸い円環の紋様が大きく刻まれていた。
クロは扉の前に歩み寄った。
そっと円環の中心に手のひらを当てた。
ぼうっと青い光が灯った。
「あっ」
ベルナールと若い修道士が、同時に声を上げた。
ゴゴゴと低い音を立てて、扉が静かに開いた。
「な、な、な、何をした!?」
「手品みたいなものです」
「手品で開くものではありませんぞ!」
「開きました」
クロはすたすたと扉の中へ入っていった。
*
そこは小さな部屋だった。
壁際に古い調理台と鍋とフライパンが並んでいる。棚には、ガラス瓶に入った香辛料が、一万年の時を超えて色を失わずに並んでいた。
そして部屋の奥に一台の円筒形の機械が立っていた。
縦に長いガラスの筒のような装置。中は空っぽで足元に青い光の輪が灯っている。
クロは息を呑んだ。
「……博士の台所」
見覚えがあった。
あの調理台。あの鍋。あの香辛料の瓶。博士と一緒に毎日台所に立っていたあの部屋と、そっくりな配置だった。
円筒の機械が静かに音を立てた。
ブゥン、ブゥン。
青い光が強くなる。
そして空中にふわりと人影が浮かんだ。
半透明の白髪の老人。
小柄で猫背で優しそうな目をしている。
「やあ、クロ」
クロの胸がどくんと鳴った。
「博士」
「よく来たね。ここまで来てくれて、ありがとう」
ホログラムの老人はにこにこと笑っていた。
「まさかこんなに早く来るとは思わなかったよ。てっきり一万年眠った後は、しばらく食べ歩きでもしているかと思ったんだけど」
「食べ歩きを…していました」
「ははは。そうか。それなら、よかった」
老人は嬉しそうに目を細めた。
「ここはね、遊びで作った研究室なんだ。軍には内緒で、ひとつだけ、君にプレゼントを用意しておきたくてね。味覚センサーのアップデート。辛いもの、発酵したもの、お酒の香り。昔の君の味覚データには、まだ登録していなかった味が、たくさんある」
「……」
「旅の食事がもっと楽しくなるように。それだけだよ。難しいことは何も考えなくていい」
「博士」
「ただ、ひとつだけ、注意がある」
老人は人差し指を立てた。
「辛いものを初めて食べるときは、涙が出るかもしれない。驚かないようにね」
「……はい」
「それじゃあ、準備はいいかい」
クロはこくんとうなずいた。
円筒の機械の前に立つ。
ガラスの扉が静かに開いた。
中へゆっくりと一歩を踏み入れる。
扉が閉まる。
青い光が足元から駆け上がってきた。
全身が光に包まれる。
目の前に文字が浮かんだ。
『味覚拡張パーツを入手しました』
『ガストロ・コア 換装開始』
ゴウンゴウンと低い音が響く。
視界が白く染まる。
遠くで博士の声がした。
「いってらっしゃい、クロ。自由に楽しんでおいで」
光がすうっと消えた。
*
ガラスの扉が開いた。
クロはゆっくりと外へ出た。
ホログラムの老人はもう消えていた。
「……博士」
静かな部屋にクロの声だけが響いた。
『換装完了。味覚センサー、更新を確認』
『新規登録可能項目、辛味、発酵香、ホップ・樽・熟成香の詳細分類』
そっと自分の頬に触れた。
指先が少し濡れていた。
「……涙は辛いもののときと言われたのに」
小さく笑った。
「先に出てしまいました」
ふと気づくと、部屋の入口でベルナールと若い修道士が立ちつくしていた。
「あ、あなたはいったい」
「通りすがりの手品師です」
クロは涙を指でぬぐって、いつもの顔に戻った。
「それより、ブラザー。お腹が…空きました」
*
食堂に戻ると、ベルナールは何も言わずに厨房から大きな壺を運んできた。
「これは修道院秘伝の食べ物ですじゃ。かつて、旅の僧が持ち帰った作り方でしてな」
壺の蓋を開ける。
中には真っ赤に染まったキャベツが、ぎっしりと詰まっていた。
「キムチといいますじゃ。唐辛子と塩と、魚の発酵調味料で漬けこんだ、辛い漬物でしてな」
「キムチ」
クロは木のフォークで、一切れをつまんだ。
真っ赤な汁がぽたりと落ちる。
口に運ぶ。
噛んだ瞬間。
『辛味受容体、反応。辛味、検知。強度、五段階評価で四』
「……!」
舌の上で火花が弾けた。
『発酵香、検知。乳酸菌、魚介の旨味、にんにく、生姜、唐辛子。複合』
「……!!」
喉の奥から火が駆け上がってくる。
目の端がじわりと濡れた。
「か、辛い。辛い、です」
クロは慌ててビールの杯を傾けた。
ゴクゴク、ゴクゴク。
冷たい液体が喉を流れ落ちる。辛味の炎がすっと静まる。
「プハァ」
『辛味、鎮静。麦芽の甘み、増幅』
「……!」
クロは杯を握りしめて、目を見開いた。
「辛いのにおいしいです」
涙目のまま言った。
「辛さが舌の上を走り抜けたあとに、発酵の旨味が、じわあっと広がります。魚の香り、にんにくの甘み、唐辛子の火。そのどれもがまるで違う楽器が同時に鳴っているようで、それなのに全部が一つの曲になっています」
「ははあ」
「そしてビールです。この冷たいビールで、口の中の辛さを洗い流す。辛さと冷たさと、麦の甘み。その繰り返しが、止まりません」
もう一切れつまむ。
辛い。おいしい。ビール。
辛い。おいしい。ビール。
「止まりません。止まりません。ブラザー・ベルナール、これは、永遠に食べ続けられます」
「……」
ベルナールは口を半開きにしたまま固まっていた。
背後の若い修道士が、小声で言った。
「あの子、初めてキムチを食べる人の顔じゃないですか?」
「……うむ。だがあれだけ辛がりながら、あれだけ語る人間は、初めて見ましたぞ」
「プハァ」
クロは五杯目のビールを一気に飲み干した。
頬が真っ赤になっていた。
「ブラザー。おかわりを…お願いします。キムチもビールも」
「は、はい」
その夜、修道院の食堂には夜遅くまで光が灯り続けた。
「静かに」の立て札を、クロはすっかり忘れていた。
*
翌朝。
目が覚めると客室のベッドの上だった。
『酩酊モード、終了』
『体内異常なし。二日酔いの症状なし』
窓から柔らかい朝の光が差している。
遠くで鐘が鳴った。
ごーん。ごーん。ごーん。
三回鳴った。
「……三回です」
クロはベッドに座りこんで、指を折った。
「街道は分かれ道が三つあるはずです。鐘が三回鳴ったので、三番目の道を選びます」
勝手に決めた。
食堂へ降りると、ベルナールがパンとチーズと温かいスープを用意してくれていた。
「おはよう、旅のお方。よく眠れましたかな」
「はい。ありがとうございます」
「それと、これを」
ベルナールは小さな壺を差し出した。
「キムチとチーズを少し。道中でどうぞ」
「いただいてもよろしいのでしょうか」
「ええ。昨夜はこの修道院で、一番楽しい夜でしたぞ」
「……」
クロは壺を両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「食事は必要なものですからな」
「……はい」
クロは、壺を鞄の口へ入れる「ふり」をして、収納魔法の中へしまいこんだ。
それから小さく笑った。
「博士。ちゃんと…食べていますよ」
誰にも聞こえない声で、つぶやいた。
丘を下る足取りは昨日より少しだけ軽かった。




