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左利き兵器少女の食道楽 ☆挿絵あり  作者: あかふく亭


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7/10

神殿の地下で、味覚が目覚める

挿絵(By みてみん)

林檎谷を出て二日、街道は少しずつ上り坂になった。


道の先の丘の上に、灰色の石造りの建物が見えてくる。屋根の上には十字ではなく、丸い円環の飾りが載っていた。


丘の麓の立て札にはこう書かれていた。


『ベルナール修道院 旅人を歓迎します ただし夜は静かに』


「修道院」


クロの目がきらりと光った。


「修道院といえば、ビールとチーズです」


誰に教わったわけでもない知識だったが、確信があった。


「行きます。今すぐ」


丘を登る足取りは軽かった。


*


門の前で出迎えてくれたのは腰の曲がった老修道士だった。真っ白な髭を胸まで伸ばし、頭にはつるりと光る坊主頭が乗っている。


「おお、旅のお方。ようこそ。ここでは水と食事と寝床を、無償で提供しておりますぞ」


「無償ですか」


クロの目がさらに輝いた。


「あの、ビールとチーズは」


「はっはっは。修道院名物のビールとチーズなら、お代はいただきますぞ」


「お代なら、あります」


クロは鞄の口へ手を入れて、銀貨を一枚取り出した。


老修道士はにっこり笑った。


「ブラザー・ベルナールと申す。この修道院の院長ですじゃ。さあ、中へどうぞ」


案内されたのは石のテーブルが並ぶ食堂だった。


出されたのは琥珀色のビールの大きな杯と、チーズの盛り合わせ。白い塊、黄色い塊、青い筋の入った塊、硬そうな塊。それに黒パンと豆の煮込み。


クロは杯を持ち上げて、一気に傾けた。


ゴクゴク、ゴクゴク。


「プハァ」


『アルコール度数、5.5%。麦芽の香り、深い。ホップの苦味、澄んでいる。熟成感あり』


「……」


クロは杯をそっと置いた。


「ブラザー・ベルナール」


「はい」


「このビールは普通のビールではありません」


「……ほう」


「味の奥行きが桁違いです。苦味に角がありません。それでいて、後味に長く甘い香りが残ります。まるで…三年寝かせたような」


「ほほう。さすがはお目が高い」


ベルナールの目が、すっと細くなった。


「実はこれは仕込んで七日のビールですじゃ」


「七日」


クロは目を丸くした。


「七日でこれですか」


「ええ。地下の熟成室のおかげでしてな。この修道院のビールも、チーズも、あの地下で寝かせると、ひと晩でふた月分は熟成するのです」


「地下の熟成室」


「そうですじゃ。いつから使われておるのか、誰も知らんのですが。この修道院が建つ前から、地下に石造りの部屋があったそうで。神様の地下蔵と呼んでおりますじゃ」


クロの動きが止まった。


『神殿。魔導文明時代の、熟成施設。魔素の濃度を利用した時間加速の設備』


「……」


ひとつ心当たりがあった。


「ブラザー。その熟成室を…見せていただけますか」


「ふむ」


ベルナールは少し考えた。


「部外者には見せない決まりなのですが」


「ビールとチーズへの感想を、もう少し言ってもよいですか」


「感想」


「はい。長いですが」


「……どうぞ」


クロは姿勢を正した。


「まずこのビールです。麦芽の甘みと苦味の立ち上がりが、舌の上でまるで二人三脚のように寄り添っていて、片方が前に出ようとするともう片方がそっと袖を引くのです。そのバランスが、飲むたびに少しずつ変わっていく。一口目は麦。二口目は花。三口目は蜜。そして四口目にはほんのりとした樽の木の香りが、遠くから近づいてきます。これを七日で作るとは、熟成室の力もさることながら、作り手の舌の確かさを感じます」


「……」


「そしてこのチーズです。この青い筋の入った塊は、塩気と甘みがまるで夫婦のように対になっていて、噛むほどに牧草の香りが鼻に抜けます。黒パンに塗って、ビールで流しこむと、口の中で麦の祭りが始まります」


「……」


ベルナールは杯を持ったまま固まっていた。


背後で若い修道士が涙ぐんでいた。


「ベルナール様。この人は本物です」


「……うむ」


ベルナールは深くうなずいた。


「ご案内しよう。ただし、中のものには、触れないでくだされ」


*


石の階段を長いこと降りていった。


壁には古い彫刻が刻まれている。丸い円環の紋様が、ずっと奥まで続いていた。


階段を降りきった先に広い石造りの部屋があった。


室温は低く保たれ、樽がずらりと並んでいる。壁に埋めこまれた小さな石の板が、淡い青緑色の光を放っていた。


「これが神様の地下蔵ですじゃ」


「……」


クロは静かに樽の列を眺めた。


壁の光は魔素の結晶だった。部屋全体が魔素を循環させる巨大な装置になっている。


「ブラザー。奥に扉があるようです」


「ああ、あれですか。開かずの扉ですじゃ。何百年も誰にも開けられんのです」


部屋の奥に重そうな石の扉があった。


扉には丸い円環の紋様が大きく刻まれていた。


クロは扉の前に歩み寄った。


そっと円環の中心に手のひらを当てた。


ぼうっと青い光が灯った。


「あっ」


ベルナールと若い修道士が、同時に声を上げた。


ゴゴゴと低い音を立てて、扉が静かに開いた。


「な、な、な、何をした!?」


「手品みたいなものです」


「手品で開くものではありませんぞ!」


「開きました」


クロはすたすたと扉の中へ入っていった。


*


そこは小さな部屋だった。


壁際に古い調理台と鍋とフライパンが並んでいる。棚には、ガラス瓶に入った香辛料が、一万年の時を超えて色を失わずに並んでいた。


そして部屋の奥に一台の円筒形の機械が立っていた。


縦に長いガラスの筒のような装置。中は空っぽで足元に青い光の輪が灯っている。


クロは息を呑んだ。


「……博士の台所」


見覚えがあった。


あの調理台。あの鍋。あの香辛料の瓶。博士と一緒に毎日台所に立っていたあの部屋と、そっくりな配置だった。


円筒の機械が静かに音を立てた。


ブゥン、ブゥン。


青い光が強くなる。


そして空中にふわりと人影が浮かんだ。


半透明の白髪の老人。


小柄で猫背で優しそうな目をしている。


「やあ、クロ」


クロの胸がどくんと鳴った。


「博士」


「よく来たね。ここまで来てくれて、ありがとう」


ホログラムの老人はにこにこと笑っていた。


「まさかこんなに早く来るとは思わなかったよ。てっきり一万年眠った後は、しばらく食べ歩きでもしているかと思ったんだけど」


「食べ歩きを…していました」


「ははは。そうか。それなら、よかった」


老人は嬉しそうに目を細めた。


「ここはね、遊びで作った研究室なんだ。軍には内緒で、ひとつだけ、君にプレゼントを用意しておきたくてね。味覚センサーのアップデート。辛いもの、発酵したもの、お酒の香り。昔の君の味覚データには、まだ登録していなかった味が、たくさんある」


「……」


「旅の食事がもっと楽しくなるように。それだけだよ。難しいことは何も考えなくていい」


「博士」


「ただ、ひとつだけ、注意がある」


老人は人差し指を立てた。


「辛いものを初めて食べるときは、涙が出るかもしれない。驚かないようにね」


「……はい」


「それじゃあ、準備はいいかい」


クロはこくんとうなずいた。


円筒の機械の前に立つ。


ガラスの扉が静かに開いた。


中へゆっくりと一歩を踏み入れる。


扉が閉まる。


青い光が足元から駆け上がってきた。


全身が光に包まれる。


目の前に文字が浮かんだ。


『味覚拡張パーツを入手しました』


『ガストロ・コア 換装開始』


ゴウンゴウンと低い音が響く。


視界が白く染まる。


遠くで博士の声がした。


「いってらっしゃい、クロ。自由に楽しんでおいで」


光がすうっと消えた。


*


ガラスの扉が開いた。


クロはゆっくりと外へ出た。


ホログラムの老人はもう消えていた。


「……博士」


静かな部屋にクロの声だけが響いた。


『換装完了。味覚センサー、更新を確認』


『新規登録可能項目、辛味、発酵香、ホップ・樽・熟成香の詳細分類』


そっと自分の頬に触れた。


指先が少し濡れていた。


「……涙は辛いもののときと言われたのに」


小さく笑った。


「先に出てしまいました」


ふと気づくと、部屋の入口でベルナールと若い修道士が立ちつくしていた。


「あ、あなたはいったい」


「通りすがりの手品師です」


クロは涙を指でぬぐって、いつもの顔に戻った。


「それより、ブラザー。お腹が…空きました」


*


食堂に戻ると、ベルナールは何も言わずに厨房から大きな壺を運んできた。


「これは修道院秘伝の食べ物ですじゃ。かつて、旅の僧が持ち帰った作り方でしてな」


壺の蓋を開ける。


中には真っ赤に染まったキャベツが、ぎっしりと詰まっていた。


「キムチといいますじゃ。唐辛子と塩と、魚の発酵調味料で漬けこんだ、辛い漬物でしてな」


「キムチ」


クロは木のフォークで、一切れをつまんだ。


真っ赤な汁がぽたりと落ちる。


口に運ぶ。


噛んだ瞬間。


『辛味受容体、反応。辛味、検知。強度、五段階評価で四』


「……!」


舌の上で火花が弾けた。


『発酵香、検知。乳酸菌、魚介の旨味、にんにく、生姜、唐辛子。複合』


「……!!」


喉の奥から火が駆け上がってくる。


目の端がじわりと濡れた。


「か、辛い。辛い、です」


クロは慌ててビールの杯を傾けた。


ゴクゴク、ゴクゴク。


冷たい液体が喉を流れ落ちる。辛味の炎がすっと静まる。


「プハァ」


『辛味、鎮静。麦芽の甘み、増幅』


「……!」


クロは杯を握りしめて、目を見開いた。


「辛いのにおいしいです」


涙目のまま言った。


「辛さが舌の上を走り抜けたあとに、発酵の旨味が、じわあっと広がります。魚の香り、にんにくの甘み、唐辛子の火。そのどれもがまるで違う楽器が同時に鳴っているようで、それなのに全部が一つの曲になっています」


「ははあ」


「そしてビールです。この冷たいビールで、口の中の辛さを洗い流す。辛さと冷たさと、麦の甘み。その繰り返しが、止まりません」


もう一切れつまむ。


辛い。おいしい。ビール。


辛い。おいしい。ビール。


「止まりません。止まりません。ブラザー・ベルナール、これは、永遠に食べ続けられます」


「……」


ベルナールは口を半開きにしたまま固まっていた。


背後の若い修道士が、小声で言った。


「あの子、初めてキムチを食べる人の顔じゃないですか?」


「……うむ。だがあれだけ辛がりながら、あれだけ語る人間は、初めて見ましたぞ」


「プハァ」


クロは五杯目のビールを一気に飲み干した。


頬が真っ赤になっていた。


「ブラザー。おかわりを…お願いします。キムチもビールも」


「は、はい」


その夜、修道院の食堂には夜遅くまで光が灯り続けた。


「静かに」の立て札を、クロはすっかり忘れていた。


*


翌朝。


目が覚めると客室のベッドの上だった。


『酩酊モード、終了』


『体内異常なし。二日酔いの症状なし』


窓から柔らかい朝の光が差している。


遠くで鐘が鳴った。


ごーん。ごーん。ごーん。


三回鳴った。


「……三回です」


クロはベッドに座りこんで、指を折った。


「街道は分かれ道が三つあるはずです。鐘が三回鳴ったので、三番目の道を選びます」


勝手に決めた。


食堂へ降りると、ベルナールがパンとチーズと温かいスープを用意してくれていた。


「おはよう、旅のお方。よく眠れましたかな」


「はい。ありがとうございます」


「それと、これを」


ベルナールは小さな壺を差し出した。


「キムチとチーズを少し。道中でどうぞ」


「いただいてもよろしいのでしょうか」


「ええ。昨夜はこの修道院で、一番楽しい夜でしたぞ」


「……」


クロは壺を両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「食事は必要なものですからな」


「……はい」


クロは、壺を鞄の口へ入れる「ふり」をして、収納魔法の中へしまいこんだ。


それから小さく笑った。


「博士。ちゃんと…食べていますよ」


誰にも聞こえない声で、つぶやいた。


丘を下る足取りは昨日より少しだけ軽かった。

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